紙木城直子
話を旧に復します。なんの話かといえば、『ブギーポップは笑わない』です。この小説において、宇宙人や怪物は出てきますが、じゃあ神は出てこないのかというと、そうじゃないですよね。ちゃんと出てきます。意外に思われるかもしれませんが、紙木城直子こそ、神様と呼ぶにふさわしいお方です。
霧間凪の尽力も、ブギーポップの尽力も、この紙木城直子のとった当然の行動の前には、なすすべもないのです。
西尾維新めいた語呂合わせではありますが、紙木城は神木城なのです。
今度はしっかりとした例を引きましょう。西尾維新の『猫物語』には、路傍で死んでいたネコを弔う羽川翼の描写があります。「普通、ネコが死んでいるというシチュエーションに遭遇すれば、普通はそういう行動をとるのは人間として普通なのだが、普通の人間は普通はそういうことをしない」という現実の中において、羽川翼はそういうことをやってしまうから異常なのであって……という文脈で、死んだネコの救済のワンシーンは語られるわけですが、「救うのが当たり前とされているのに、実際には誰も誰かを救おうとはしない」現実において、羽川は突発的に、衝動にかられて弔いをやるのではなく、そういう現実を直視したからネコを弔い、その結果たたられるわけです。この猫の障りというのも、ブギーポップ的な二重人格の譬喩表現であるわけですね。そうして問題を羽川翼から紙木城直子にシフトチェンジした時に、重要になってくるのは、両者の違いです。
比較文学論を気取るつもりはありませんが、羽川翼と紙木城直子を比較してみましょう。前者は「なんでもは知らない、知ってることだけ」という、神へはもうひとつ届かない、むしろ却ってそのことによって人間臭さを漂わせた「胸の大きな」女の子なわけですが、後者はというと、人外であるところのエコーズの声なき声をしかと聞き取り、あまつさえホームレス同然の「サイコさん」がかった彼を学校にかくまう……羽川がネコを埋めたのは、みんながそれをすべきだと言っているのにもかかわらず見て見ぬフリをするから、つまりそういう人々がいたからその反発としてそれをしたのであって、紙木城はなんでもないことであるかのように声を聞き取り、そういう世間外れな行動を取ってのけた。霧間凪も、第三ステージも、ブギーポップも及ばない、コインの裏側のどの人たちの行いも到達しえない完璧な救済――そういう行動ができてしまう者のことを、創作においてはニュータイプと呼び、人はそれを、神と呼んで、神だと読むわけです。




