ガンダムサーガにみられる神
語弊をおそれずに、また反感をおそれずあえて言うならば、神とは人の心がわかる者のことを言います。荒川弘『鋼の錬金術師』のアニメーション監督として名高い水島精二の監督作品に、『機動戦士ガンダム00』という作品があります。この作品に対して私が何かを言おうとするたびに、一部のガンヲタからクレームを頂戴するのですが、ガンダムを離れて、あくまで作品として分析してみてください。するとどうでしょう、この作品にはノッケから神が登場し「この世界に神はいない」という主人公・刹那の独白から幕を開けるわけですが……ストーリーを劇場版まで追っていけばわかるとおり、刹那はイノベイター(ガンダム正史でいうところのニュータイプに相当するワード)へと革新を遂げ、「分かり合う」ためだけに、ついにはELSと呼称されていた金属異星体とまで手をつなぎます。わかりやすい神様が、刹那だったのでした。
生粋のガンダムファンからすると、そもそもこの作品を俎上に乗せること自体が鼻持ちならなく思われる方もおられるかもわかりませんから、ここで私は生え抜きのガンオタからも支持されて篤い、福井晴敏原作の『機動戦士ガンダムUC』についても、寄り道になりますが少し触れたいと思います。完全に、趣味のコースに走っています。
この作品は、感情を剥き出しにしまくる少年・バナージが、猛りながら戦場を駆けめぐり、ラプラスの箱に振り回されつつ、大人たちの顰蹙を買うなどしいしい、「感じる心を停めてしまっては駄目」という意志を貫くストーリーなのですが、この作品におけるニュータイプというのは、ガンダムの生みの親である富野由悠季が長年にわたって言えずにいたことをはっきりと言う、「若い」解釈にもとづいて、またはっきり触れて回る言い方でもって表現されていました。
どういうことなのかというと、ニュータイプとは読んで字のごとくです。オタク達はそれを、敵をばっさばっさとなぎ倒していく強い力を持った人たちだと解釈するわけですが、富野・福井両名は、あきらかにニュータイプを、というか、モビルスーツと呼称されるロボット一般を物質二元論的な立場から描き表しているといえるのです。つまり、印象的なコクピットと呼ばれる特異な空間は、明らかに痛めるべき胸のことを譬喩しているように見受けられます。それが腹部にあるのは、日本人的な切腹の観念で、腹に魂が宿るという示唆なのかもしれません。さらに話がずれますが、富野監督作品『∀ガンダム』においては、コクピットが腹ではなく股間にあります。これはヒゲやスカートとあいまって、本作がジェンダー的な、男と女の視点を描いていると分析できます。さらにいうなら、武人としてのほまれ高いギンガナムの搭乗する機体は頭にコクピットが設えられています。これはつまり、頭脳で考える武闘派な現代人と、下半身に衝き動かされる脆弱でなよなよした、現代的自然人の対立相剋する現代という様を、何もかも崩壊してしまい遺物としてしか痕跡が遺っていない真っ新な未来の視点から見下ろした作品ということなのかもしれません。そこで話頭をふたたび『UCガンダム』に転じますと、本作ではその対立を「男の論理」と呼ばうマーサ・ビストという人物を通して象徴的に描かれています。このマーサは、男の論理を否定するうちに、最終的には自分こそが男の論理そのものの過ちを犯しているのだという本末転倒に気づかされるのです。これは、行き過ぎたフェミニズム運動に対する諷刺と読むことができます。歴史というのは常に、陰なる女性の存在によって動かされてきたのです。内助の功といえば聞こえはいいですが、実際にはブレインコントロールです。日本の歴史でも、藤原氏が政権をほしいままとするのに使った手だては外戚としての地位でしたね? 女性というものは、歯に衣着せずすぱすぱものが言える立場にあるから、そうなっていたのです。なぜ、そういう立場に女性は祭り上げられるのか。簡単ですね、みんなが手を伸ばすものの値打ちは必ず上がる。みんな「女」を欲しがるから、その価値は上がるわけです。生きている生身の人間だから、面と向かって価値と呼ぶのははばかられるけど、つまりはそういうことなのです。女尊男卑に苦しむ人たちの答えは、ここにあります。
さて、『UCガンダム』には「ラプラスの箱」というものが作中で重要なガジェットとなっておりますが、その内容はあまりに重要なので、おいそれと記述してしまうのはネタバレという以上の横紙破りな非礼となってしまうわけですが……その閉じられたパンドラの箱を開けてしまうまえに、ラプラスつながりで、悪魔について解説しようと思います。神はちょっと、わきに置いといてください。
ラプラスの悪魔という言葉がありますね。これはつまり、語弊もはなはだしいですが簡単に言ってしまうと、もし分子の動きを予測できてしまえる存在があったとするなら、その存在にとってわからないことは起こらない……その存在を、人は悪魔と呼んだわけですが、宇宙世紀の人々は、それをニュータイプと呼んでいます。
そう、すなわちニュータイプとはなんでもわかる――敵の挙動、アルゴリズムによって予測可能な合理的な思考はもとより――、人の声なき声すらも聞きとり、通信端末によらずそれを届けることのできる存在であり、同時にそれは、作中において開けてはならぬ「箱」の秘密に関わっていたわけです。
心の哲学を持ち出すまでもなく、クオリアと呼ばれるものを果たしてどうやって伝達できるのか、そもそも物理領域の因果的閉包性こそが支配的な「(女という、奪いとるべき対象によって裏打ちされた)男の論理(=第二ステージ)」下において、いったいそれの実在性をどうやって証明するのか。作中では、「ニュータイプの感応波は数値を超える」という示唆によって証左とみなしていたわけですが、もちろん現実的に考えて、数値を越えるほどの影響を与えてしまうものなどあり得ないわけです。工場の稼働によって煙は立ちのぼりますが、煙によって工場が動くことがあるでしょうか? こういった随伴現象説を前提とするかぎりにおいて、ニュータイプなどというものは現実的に否定されるものですが……。
福井晴敏が「ラプラスの箱」とかこつけて言いたかったのは、つまりそういうことなのです。やはり時期尚早とあってネタバレで叩かれるのが怖いのでボカした言い方ではぐらかしますが、原作を一読、あるいはOVAをご覧になった方ならわかるとおり、ラプラスの箱とは、ニュータイプの実在を認めるものでした。物理的一元論によって支えられていた世界を、宇宙的に揺るがす事実が隠蔽されていたのです。
この宇宙というのは、世紀を股に掛けて拡がる暗がりであると同時に、コクピット内部……つまり、死に涙し、死に胸を痛める者たちの、物質的にはありえない感応の暗がりをこそ、創作において宇宙と呼んでいたのでした。宇宙とはそもそも、そういう意味の言葉だったのです。
長くなりましたが、何を言いたかったのかというと、バナージは経験によってイニシエートし、ニュータイプへと階梯を進むにおよんで、神になったということです。
可能性という、内なる獣……獣とは、自然の在り方のことを言っています。自然というと、いかにもジャン・ジャック・ルソーのようにラディカルな主張のごとく思われるかもしれませんが、これは可能性によって、人はいくらでも神になれるというこれからを、つまり、人の心がわかる全知全能な第七ステージへとこれから至れるということです。




