この世界をめぐる議論
人によって、学者によって、はたまた著された本によって異同はありますが、ある種の読書人達はこの世界を一つではなく、複数あるという見方を提示している場合があります。不思議ですね、だって世界はいま限られた資源をどう工面するのか、増えすぎた人口をどう処理するのかであっぷあっぷしている状態だというのに、「世界は実は複数あるんですよ」なーんてパラレル全開ウルトラハッピーなことを言えちゃう人達がいるんですから、お気楽な思想もあったものです。しかし、少なくともここにおいて「世界は一つしかない」「いいや複数あるのだ」という対立意見同士が眉間に火花散らし合う構造が二つ存在しているのだ、という風に拱手傍観することができてしまえそうです。この意味において、世界というものは二つ、いや、それを観察できてしまえる人の視線までも含めれば三つあるといえるのかもしれません。そもそも世界とは何なのか、しかつめらしく問いなおした時に我々はその答えをすっぱり提出してしまえないわけですから、これは意外と世界なんてファジーなものでしかなく、四角四面な定義は実は存在していないのかもしれません。そういう世界での、これから語るのはお話になるわけですが……。
さて、世界は厳然として一つしかないというのに、いったいこの世界にはどうして世界複数説を唱える暴論とも思える思想があると言えるのでしょうか。簡単な話です、現時点で思想家と目される人物が「世界は三つある」と夢幻でも見ているんじゃないのかという半畳が入れられそうな危うい言説を近頃展開しているわけでして。
さる御仁の名は、東浩紀といいます。彼は二一歳という若さにして、『ソルジェニーツィン試論』をものし、思想界に華々しくデビューしたまぎれもない俊英ですが、いかんせん、彼の思想や生き方はラディカルに過ぎ、誰からも失笑で迎えられるという轗軻不遇な思想家。まあ、思想家に手厚く遇された成功者なぞ有史開闢以来いなかったわけですが。
彼は、この世界――彼の言葉では社会と言い表されていますが――を、それぞれ「実際界」「象徴界」「現象界」という三つの用語に分断しております。ざっくり言うと、世界は三つあるということですね。
そう、世界とはつまり社会の見方・捉え方というわけなのです。この社会を見るアプローチの角度を少し変えるだけで、東浩紀は世界を三つあるのだと言い切っているわけです。
尤も、本当に世界が三つあるわけではありません。この世界は型月(TYPE-MOON)ワールドのようには並行世界説を採用しておりませんから、それも当然なわけですが……しかし、社会を論じることをなりわいとした社会学者たちも、実は社会というものを「レイヤー」という階層ごとにわけたりして、コミュニティ単位で人間を分断していたりします。これは差別的・画一的なニュアンスではなく、学問的なメタファーです。
世界を分かつ、だとか、あるいは世界そのものがいくつかある、という考え方そのものに、突飛すぎる物事に対する嫌悪を覚える人たちも多いことでしょうが、なんのことはありません。皆さんだって、実は世界をめぐる分断された思想域の中にちゃんと根をおろしていたりするのです。その思想家の名前はペンタゴンと呼ばれていて、年によって若干の変動はありますが、彼はまあだいたい世界を一九○いくつの「国」と呼称される構造に分けています。民族自決という観念が、さらに共同体としての意識を肥大化させていき、一つの世界としてリージョンを形成しています。このようにして、世界とはいくつもに認識されているものなのです。
ひるがえって、単世界の思想とはどういうものなのか……これは想像するだに難しい境地ですね。宇宙船地球号ということではないような気がします。すでに述べたとおり、これを読んでいる人はみな日本人であるわけですから、畢竟日本国民なのであり、「世界の中の日本」という国を認識しているからには、あなたはそういう思想内に回収されている、いわば同じ釜の飯を食う門弟みたいなものなのです。わかりにくいですか? ならばここで、無知なる原始人を呼び出してみましょう。カモーン、原始人。
原始人「呼んだ?」マンモスウマウマ
うん、たしかに呼んだけど、マンモスの肉を食いながら来いとは言っていない。しかしこう、マンガやアニメで見るマンモスの肉って、どうしてこうも、うまそうなんだろうか。
原始人「食うか?」
食わないよ。現代人は、あなたがたが飢えに苦しんでくれたおかげで皮下脂肪なんてスキルを会得しちゃってるんです。コレステロール高そうなんで、食べません。
原始人「そうか……」シュン・・・
と、まあ原始人という呼び名ですと読者に要らぬレッテルを貼られてしまいそうなので、ここでは自然人と呼ぶことにしましょう。
自然人「イェーイ」ノリノリ
ところで自然人、あなたは世界がいくつあると思いますか?
自然人「世界? ナニソレ、食えんの?」
これはこれは、おそろしいことを言ってくれますね。
自然人「世界なんてでけぇもんは考えたことはないけど、村はあちこちにいっぱいあるよな。そうじゃなくとも、家はいたるところにある。考え方や見方が違うやつもそこいらにいっぱいいるし、世界ってのはすげぇでかいんだろうなってのはなんとなくわかるんだけどな」
はい、自然人さん、どうもありがとうございました。
自然人「え、もう出番終わり? もっと話したi」
おわかりいただけたことと思いますが、世界とはこのように、意思を持つ主体によって、平たく言えば各々の立場によって構築される、排他的な集団のことを指す場合もあるのです。
その人にとって理解できない不可知の範囲こそ、異世界と呼べそうです。
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