11
彼女と別れてから早二年が過ぎ、ぼくは受験生になった。次に春が来るころには、彼女とのあの「約束」――とは言えないような、かなり不確かなものだけれど――の結末がわかるだろう。ぼくは中学のころからすでに行きたい大学を決めていたので、別れる前にそれを告げ、それ以来、彼女とは連絡も取っていなかった。
だけど、そのほうが彼女のためだ。彼女は待っていると言っていたけれど、ぼくのことなんか忘れたほうがいい。――けれど、心のどこかではその「約束」が果たされることを願っていた。
そして、次の春。ぼくと彼女は、同じ大学で出逢ってしまったのだ。
「あ……」
「……久しぶりだね、元気だったかい?」
「うっ、わあああああん」
「ええ……」
ぼくと視線が合った瞬間、彼女はこれでもかというくらい目を大きく見開いたかと思うと、その顔がくしゃりと歪み、泣き出してしまった。しかも、ぼくの胸で。
せっかくのスーツなのだから、鼻水はつけないでほしい――そんな以前と変わらぬ失礼なことを考えている自分がいたことに気付き、ぼくは自然と笑みをこぼしていた。
「とりあえず、離れてくれないかな」
「や、だ! あたし、ずっと待ってたんだから……っ」
「ああ、それはどうも。じゃあ、せめて家に移動しない?」
「う、わ、わかった……」
ぐすぐすとあふれる涙をすすりながら、彼女はぼくから離れた。
* * *
「うっわー、広ーい!」
ぼくの家――それは今も住んでいる家なのだが――に足を踏み入れた彼女は、大きな歓声を上げて手当たりしだいに部屋を見て回った。そして、一通り見終えたあと、リビングのソファーに腰かけ、ふぅ、と一息ついて口を開いた。
「ホントに久しぶり、だね」
「ああ」
「元気だった?」
「見てのとおりだよ」
「ふふ、何も変わってないね」
口に手をあてて嬉しそうに微笑む彼女も、昔とちっとも変わっていなかった。彼女は本当にぼくを待っていてくれたのだ。
「ねえ、ここって2LDKでしょ? 一人暮らしなのにどうして?」
「君さえよければ、一緒に住まないかと思ってね」
彼女からの質問にさらりと答えれば、彼女の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。しかし、やがてそれは哀しそうなカオになり、うつむいてしまった。
「……もしかして、すきな人ができた?」
その問いかけに彼女はすぐに反応し、ばっと顔を上げた。何が言いたげにぱくぱくと口を動かすが、声は聞こえない。
「いいんだよ。そのほうが、君も幸せになれる」
「……確かに、すきになりかけた人はいたよ」
「すきに、なりかけた?」
「うん……その人、すごくやさしくて、あたしのそばにいられるなら、あなたの代わりでもいいって言ってくれたの」
「そう」
「だけど、それは甘えだった。あたしは、やっぱりあなたがすきなの」
その瞳には、いつの間にかまた涙が浮かんでいた。
「じゃあ、その彼とはどうするんだい?」
「別れたい、けど、あなたがいないときに支えてくれたのは彼だった。それに、彼も独り、なの」
「だったら、君は彼のところに行くべきだよ」
「でもっ、あたしはあなたがすきなの!」
彼女の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれる。どうして君は、こんなぼくのために泣くの?
確かに彼女はずっとぼくを待っていてくれた。だからこそ、同じ大学に進学したのだろう。
だけど、高校で新しくすきな人もできていた。昔、施設で行方不明になった彼女を見つけたときから、彼女は淋しがりやだとわかっていたし、その人のところへ行ったほうが幸せになれるはずだ。それなのに、彼女はそれでもぼくがすきだと言って、泣いている。
ぼくはこの生き方を変えることはできない。ならば、彼女の生き方は彼女が決めるしかない。
「最後に決めるのは君だよ。君の人生は君のものなんだから。ぼくはその選択について、何も文句は言わない」
「――だったら、あたしを殺して」
「は?」
泣いていたせいか鼻声だったけれど、そのセリフははっきりとぼくの耳にと届いた。
だけど、彼女は今、何と言った?
「正気かい?」
「もう、独りは嫌なの」
「彼のところに行けば独りじゃないよ?」
「でも、あたしがすきなのはあなただもの」
「彼を、独りにするのかい?」
――そして、ぼくも。ああ、自分の生き方を変えられないくせに、本当はそばにいてほしいだなんて可笑しな話だ。
すると、彼女は何かを確信したように、にっと笑った。
「大丈夫よ。きっとまた『向こう』で逢えるもの。彼も、あなたも。あたしはずっと待ってるよ」
「それは遠回しに早く死ねって言ってる?」
「まさか。あたしはあなたと『普通』に一緒にいたいだけだもん」
「天国で一緒にいるのを望むことを『普通』とは言わないと思うけど」
「いいじゃない。そのときは、あなたの生きる意味があたしになってるんだから」
「そのときはもう生きてないよ。しかも、ぼくは天国に行けるかどうかわからないしね」
それにぼくは天国を信じていない、とは言えなかったけれど。
「もう、またそんなところで現実的なんだから。でも、そのときはあたしが迎えにいくから安心して」
「前にも聞いたようなセリフだね」
「ええー? そうだった?」
けらけらといたずらっぽく笑う彼女。こういうところは『彼』と似ているかもしれない。
「――本当に、死を望むのかい?」
「うん」
即答した彼女の眼に迷いはなく、これから死ぬ――いや、殺されるというのに、すっきりとしたカオをしていた。
(万が一、殺されたとしても、悔いはないと思うよ)
別れる前に彼女が言っていた言葉を思い出す。彼女は冗談で言ったのかもしれないけれど、今のぼくはそれを信じるしかなかった。
「そう、じゃあ、サヨナラ、だね」
「違うよ。『またね』でしょ?」
「――ああ、また、ね」
そうして、ぼくは彼女を殺した。最後には、心臓を抉って。
そんな彼女の最後の表情は、やさしい笑顔、だった。
そして、せめてその『彼』にも彼女の死を知らせようと、ぼくは彼女の死体を外に放置したのだった。
これが、ぼくの絶望だ。大切な人を自分の手で殺したことからぼくは絶望して絶望して、ついには世界を見下した。世界はこんなものなのだと。絶望するだけムダなのだと。彼女も、快楽も手に入れようだなんて虫がよすぎたんだ。
だから、ぼくに残ったのは人を殺すということだけだった。「生きる意味」になりかけた彼女はもう戻ってはこない。それならば、ぼくは快楽と血を求めて生きるだけだ。




