07
ゆるやかに堕ちていく、
この感覚は。
* * *
「――あ」
「……ああ、君か」
珍しく死神が留守番をしているので、僕一人だけでの帰り道、あの快楽殺人者の「彼」を見つけ、思わず声を上げてしまった。顔を合わせたのはあの日以来だったが、どうやら僕のことを覚えていてくれたらしい。
「え、と……あの、お久しぶりです」
「そうだね」
「今から帰るんですか?」
「いや」
「じゃあ、今から出かけるんですか?」
「ああ」
「そう、ですか……」
ごく自然な流れで途切れた会話。今は午後十時だ。こんな時間にどこへ行くのかかなり気になるが、そこまで親しいわけではないので、それを聞くのは野暮というものだろう。
すると、彼はふ、と口元を歪め、皮肉るような笑みを浮かべた。
「君は鈍いようだね」
「え?」
「君、ぼくがどんな肩書きの人間なのか、彼から聞いたんだろう?」
どんな肩書きって言われても、年齢とか職業とかはまったく知らないし――
「あ。」
「ようやく気付いたようだね。ぼくは快楽殺人者だよ? つまり、ぼくはこれから今日の人形を壊しにいくってわけさ」
そう、この人の肩書きは「快楽殺人者」だ。確か彼の言う「人形」は「人間」のことで、つまり彼は今から人を殺しにいくというわけか。ようやく合点がいった。
それにしても、少しバカにしたような物言いだったが、この人に言われると何故か嫌な気分にはならず、むしろ僕が悪かったというような気にすらなってしまう。これが死神だったら言い返しているところだ。
そんなことを考えていると、彼はため息まじりに口を開いた。
「彼ならすぐにこう言ったよ。『今から人殺し?』ってね」
「ああ、あの死神なら言いそうですね」
「まったく、彼は勘が良すぎるよ」
あの死神は勘が良いというよりは、すでに人の心を読んでいると言っても過言ではない気がする。
「君は、どうして死にたいの?」
「えっ?」
いきなりの質問だったので、マヌケな声が出てしまった。初めて逢ったときに向けられた鋭い視線から、この人はあまり他人に興味がなさそうだなと思っていたから、かなり意外だった。
「ぼくが質問するのがそんなに意外かい?」
「え、いや、そんなことないですけど……」
「いいよ、彼もそんな反応だったしね」
「な、何かすみません」
一応そんなに驚いた表情はしていないつもりだったのだが、どうやらこの人もあの死神のことは言えないくらい、人の心が読めるらしい。まあ、今は彼の質問に答えることに集中しよう。
「えーと、どうして死にたいか、ですよね」
「ああ」
「そんなの、簡単です。この世界は腐っているから」
蔑むような笑みとともに、僕はキッパリと吐き捨ててやった。それを聞いた彼の眉間にわずかだがシワが寄る。
「だから、生きる意味なんてない?」
「はい」
聞かれるのなら、何度だって答えてやる。この世界は、腐っている。これはもう、僕の信条だ。
すると、彼が今度は目に見えて困ったように笑った。
「死にたがりやって、みんな同じようなこと言うんだね」
「え? あの死神もそう言ったんですか?」
「ああ、この世界が大っ嫌いだって言ってたよ。まったく、ぼくには理解できないね」
ため息まじりにそう言いつつも、その表情は何故かとても穏やかだった。それだけ死神はこの人が心を許した人間だということなのだろう。そうでなければ、死にたがりやは殺せないと言った人が、死にたがりやを殺したりはしないはずだ。
じゃあ、もし僕がこの人と仲良くなったのなら、この人は僕を殺してくれるのだろうか?
「あの……」
「君は、ぼくがこわくないの?」
「え?」
「まあ、こわいわけないか。君も死にたがりやだもんね。もし今ここでぼくに殺されたとしても、死ねるんだから本望だよね」
僕のセリフを遮って投げかけられた問いに答える前に、自己完結してしまった彼。確かに僕は死にたいと思っている人間だから、彼のような人に遭遇して通りすがりに殺されたとしても、それが本望なのかもしれない。
だけど、そもそも人間には「恐怖」という本能がある。快楽殺人者なんて非現実的なものに出くわしたら、恐怖でおののくというのが一番最初で普通の反応だろう。でも、僕はまったくそんなのは感じなかったし、今だってこの人がこわいとは思わない。それは何故だろうか?
……いや、今はそれよりも先ほど遮られてしまった質問をもう一度したい。
「あの、どうして死神は殺したのに、僕はダメなんですか?」
「君は死にたがりやだから」
「死神だってそうだったんでしょう?」
僕が食い下がると、彼は初めて逢ったときのような哀しそうな微笑みを浮かべ、すぐに「じゃあ、ぼくはこのへんで」と言って、以前と同じように去ってしまった。
――ああ、そうか。僕があの人に恐怖を感じなかったのは、あの微笑みを見たせいだ。無愛想で、快楽殺人者なんていうとんでもない肩書きを持っているのに、あの微笑みは作り笑いを連発する死神より、よっぽど人間らしい。
彼はどうしてあんなカオをするのだろう。あの人と死神の間に、何があったのだろうか。




