01
この世界は腐っている。もう、何もかもが、だ。
僕がこの世界から消えたとしても、地球は何事もなかったかのように廻り続ける。そう、この世界は薄情で残酷だ。
だから、こんな腐った世界で生き続ける意味なんて、どこにもない。
* * *
今宵、満月。蒼い月。
紅い月というのはごく稀に見るけれど、蒼い月を見るのはそれ以上に稀なのではないだろうか。確か「once in a blue moon」は「めったにない」という意味の熟語だったと記憶している。
僕も例に漏れず、今日初めて見た。なかなか幻想的でキレイじゃないか。これは、もしかしたら神様が――神様、なんてクソったれなもの、全然信じてなんかいないけれど――僕にくれた最後の、いや、「最初で最後の」プレゼントなのかもしれない。
そして僕は、そんな今日、この良き日を自分の「命日」にしようと決めていた。つまり、僕は今から自殺するということだ。
理由は簡単だ。「この世界は腐っているから」。ただ、それだけ。
さらに言うなら、ただそれだけで片付いてしまうほど、この世界はくだらないということだ。
僕は今、前々から死に場所として目をつけていた廃ビルの前に立っていた。周りに人がいないことを確かめてから、吸いこまれるようにしてビルの中に足を踏み入れた。当然ながらエレベーターは動いていないので、階段を使って屋上まで歩いていく。
カツン、カツン、と暗闇に響く足音。ゆっくりゆっくり、しかし確実に屋上へと近づいてゆく。ああ、この階段が天国まで続いていればいいのに。
そして、ついに屋上にたどり着いた。一応あたりを見渡すが、もちろん僕以外に人はいない。このビルは途中で工事が中止されたのか、屋上にフェンスというものはなく、五十センチくらいの高さのへりがあるだけだった。
僕はその上にのぼり、ぐるりと視線をめぐらせた。静かになった深夜の街は灯りもおぼろげで、僕以外には誰も存在していないのではないかという錯覚に陥る。――まあ所詮は錯覚であって、そんなこと、現実には有り得るわけがないのだけれど。
最後に、僕は自分が今から落ちるであろう地面を見下ろした。あと一歩踏み出せば、僕は確実に落ちる。そうすれば、この腐った世界におさらばできるんだ。
「ふう……」
目をつぶり、大きく深呼吸してから、僕は月を見上げた。これも錯覚だとはわかっているが、先ほどよりも月が大きく見える気がする。
あんなに月はキレイなのに、この世界は汚い。いや、月も本当はクレーターだらけだ。この世にキレイなものなんて、何一つない。もちろん、僕も汚い。だから僕は死ぬんだ。
僕はもう一度深く息を吐くと、キッと前を向いて空へと一歩踏み出した。
「さよなら、世界」
そうして、僕は意識を手放した。
――はず、だった。
「え……?」
いつまで経っても(というほど長い時間が経っていたわけではないが、それでも僕には長く感じられた)何の衝撃もないので、恐る恐る目を開けてみると、そこはお花畑――ではなく、先ほど僕が飛び降りた屋上だった。
わけがわからなかったが、とりあえず急いで脈を計ってみると、それはドクドクと正常に動いていた。頭や身体を触ってみても血は出ていないし、どこも痛くないので怪我すらしていないようだ。
一体、これはどういうことだ? 僕はあのとき確かに屋上から落ちたはずなのに、どうして今、「生きて」いるんだ――?
「どうして……」
「あーあ、残念だなあ。死ななかったの?」
突然後ろから聞こえた声に肩がびくっと揺れる。その声は明るく澄んでいて、セリフどおりの残念さが微塵も感じられなかった。むしろ、残念なのを喜んでいるようにさえ聞こえる。
「ま、ボクがそんな残念な状況にしたんだから、そんなこと言えないけどね」
くすくすという至極愉快そうな笑い声に少しムカついたが、それ以上にムカついたのはその口から出たセリフだ。どういう意味か尋ねようとなるべく冷静に構えて振り向くと、屋上の入り口に一人の人間――いや、一人の男性が立っていた。
男にしては細めの身体に真っ黒なスーツをまとい、僕と同じかそれ以下の年齢だと思われる顔立ちをしている。
男は僕と視線が合うと、その顔にたたえていた笑みを深くした。
「初めまして、こんばんは」
「……君は、誰?」
「やだなあ、そんなに警戒しないでよ。怪しい者じゃないからさ」
いや、十分怪しいだろう。普通の人間はこんな夜中に廃ビルを訪れたりはしないはずだ。
露骨に顔をしかめて警戒する僕をよそに、男はこちらに近づいてきた。しかし、どういうわけか足音がしない。
そして、僕の目の前でぴたりと足を止めた男に向かって、僕はもう一度同じ質問をした。
「君は、誰?」
「ボク? ボクはね、」
にこり、そんな音が聞こえてきそうなほどキレイに、
「死神、だよ」
その男は、笑った。




