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紅い月が叫ぶ夜に  作者: 久遠夏目
第二章 蒼い月が嘆く夜に
15/58

01

 この世界は腐っている。もう、何もかもが、だ。

 僕がこの世界から消えたとしても、地球は何事もなかったかのように廻り続ける。そう、この世界は薄情で残酷だ。

 だから、こんな腐った世界で生き続ける意味なんて、どこにもない。



       * * *



 今宵、満月。蒼い月。

 紅い月というのはごく稀に見るけれど、蒼い月を見るのはそれ以上に稀なのではないだろうか。確か「once in a blue moon」は「めったにない」という意味の熟語だったと記憶している。

 僕も例に漏れず、今日初めて見た。なかなか幻想的でキレイじゃないか。これは、もしかしたら神様が――神様、なんてクソったれなもの、全然信じてなんかいないけれど――僕にくれた最後の、いや、「最初で最後の」プレゼントなのかもしれない。

 そして僕は、そんな今日、この良き日を自分の「命日」にしようと決めていた。つまり、僕は今から自殺するということだ。

 理由は簡単だ。「この世界は腐っているから」。ただ、それだけ。

 さらに言うなら、ただそれだけで片付いてしまうほど、この世界はくだらないということだ。

 僕は今、前々から死に場所として目をつけていた廃ビルの前に立っていた。周りに人がいないことを確かめてから、吸いこまれるようにしてビルの中に足を踏み入れた。当然ながらエレベーターは動いていないので、階段を使って屋上まで歩いていく。

 カツン、カツン、と暗闇に響く足音。ゆっくりゆっくり、しかし確実に屋上へと近づいてゆく。ああ、この階段が天国まで続いていればいいのに。

 そして、ついに屋上にたどり着いた。一応あたりを見渡すが、もちろん僕以外に人はいない。このビルは途中で工事が中止されたのか、屋上にフェンスというものはなく、五十センチくらいの高さのへりがあるだけだった。

 僕はその上にのぼり、ぐるりと視線をめぐらせた。静かになった深夜の街は灯りもおぼろげで、僕以外には誰も存在していないのではないかという錯覚に陥る。――まあ所詮は錯覚であって、そんなこと、現実には有り得るわけがないのだけれど。

 最後に、僕は自分が今から落ちるであろう地面を見下ろした。あと一歩踏み出せば、僕は確実に落ちる。そうすれば、この腐った世界におさらばできるんだ。


「ふう……」


 目をつぶり、大きく深呼吸してから、僕は月を見上げた。これも錯覚だとはわかっているが、先ほどよりも月が大きく見える気がする。

 あんなに月はキレイなのに、この世界は汚い。いや、月も本当はクレーターだらけだ。この世にキレイなものなんて、何一つない。もちろん、僕も汚い。だから僕は死ぬんだ。

 僕はもう一度深く息を吐くと、キッと前を向いて空へと一歩踏み出した。


「さよなら、世界」


 そうして、僕は意識を手放した。

 ――はず、だった。


「え……?」


 いつまで経っても(というほど長い時間が経っていたわけではないが、それでも僕には長く感じられた)何の衝撃もないので、恐る恐る目を開けてみると、そこはお花畑――ではなく、先ほど僕が飛び降りた屋上だった。

 わけがわからなかったが、とりあえず急いで脈を計ってみると、それはドクドクと正常に動いていた。頭や身体を触ってみても血は出ていないし、どこも痛くないので怪我すらしていないようだ。

 一体、これはどういうことだ? 僕はあのとき確かに屋上から落ちたはずなのに、どうして今、「生きて」いるんだ――?


「どうして……」

「あーあ、残念だなあ。死ななかったの?」


 突然後ろから聞こえた声に肩がびくっと揺れる。その声は明るく澄んでいて、セリフどおりの残念さが微塵も感じられなかった。むしろ、残念なのを喜んでいるようにさえ聞こえる。


「ま、ボクがそんな残念な状況にしたんだから、そんなこと言えないけどね」


 くすくすという至極愉快そうな笑い声に少しムカついたが、それ以上にムカついたのはその口から出たセリフだ。どういう意味か尋ねようとなるべく冷静に構えて振り向くと、屋上の入り口に一人の人間――いや、一人の男性が立っていた。

 男にしては細めの身体に真っ黒なスーツをまとい、僕と同じかそれ以下の年齢だと思われる顔立ちをしている。

 男は僕と視線が合うと、その顔にたたえていた笑みを深くした。


「初めまして、こんばんは」

「……君は、誰?」

「やだなあ、そんなに警戒しないでよ。怪しい者じゃないからさ」


 いや、十分怪しいだろう。普通の人間はこんな夜中に廃ビルを訪れたりはしないはずだ。

 露骨に顔をしかめて警戒する僕をよそに、男はこちらに近づいてきた。しかし、どういうわけか足音がしない。

 そして、僕の目の前でぴたりと足を止めた男に向かって、僕はもう一度同じ質問をした。


「君は、誰?」

「ボク? ボクはね、」


 にこり、そんな音が聞こえてきそうなほどキレイに、


「死神、だよ」


 その男は、笑った。




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