整理整頓で消えた男 ―Archive_2007―
急な辞令で、見知らぬ街に引っ越した。
住まいが見つかるか心配し、条件を下げることも考えたが、いい物件があった。
新しい家は閑静な住宅街の中。
ただ、近くの空き家だけがちょっと気になった。
近所に引っ越しのあいさつに行ったら、その家の話になった。
「急にいなくなったらしいのよ。娘さんが警察に届けたみたいで、おまわりさんが聞き込みに来てね」
ドラマみたい、と弾んだ声の女性に、嫌悪感を隠しながら相槌を打つ。
「マイナンバーカードもクレカも置きっぱなしだったんですって。何か知らないかって聞かれたけど、そういえば、最近顔を見てないな、としか思わなくって」
あいさつを終えて、新居に戻る。
行方不明者なんて、よくある話だ――そう思った。
新しい職場は小さな事務所。
前の担当者からの引き継ぎもそこそこに、自分のデスクを片付ける。
共有の棚が目に付いた。ファイルはバラバラで、期限切れの書類まで適当に突っ込まれている。
――危ないな、これ。ここは“職場”というより、物置だ。
俺は重要な契約書類をなくしたことがあった――それで、ここに来た。
黙って整理を始めた。ラベルを貼る。黄色は契約、白はその他。いらないものは捨てる。
二日かけて終わらせると、職場がスッキリした。
静まった棚の奥から、薄い機械の息だけが往復していた。
「助かるわー、ありがとう」
同僚が笑顔で声をかけてくれる。ここでなら、うまくやれそうだ。
ふと、パソコン画面の共有フォルダに、見慣れない名前が一瞬映った。
「Archive_2007」
何だろう、と思ったが、すぐに別のウィンドウが開いて見えなくなった。
整頓の達成感はあった。だが棚が片付くと、境界線が曖昧になった。
付箋の色、クリップの向き、引き出しの浅い音――他人の机にも不足が見えた。
帰り際に、空いた席の乱れをつい整えていた。
「あれ? ここにあった書類がない」
「こちらにありますよ」
ホチキスの向きを揃えた。針の列が一方を向く。
「……勝手に、触らないでくれる?」
「いえ、見つかったんだから――」
彼女の表情がこわばる。明るかった声のトーンが、わずかに下がった。
目線が一瞬止まる。黙る。
その沈黙を、秩序が埋めた。
それからは、残業の記録は残さずに片付けを続けた。
せっかく並べ直した書類が元に戻っていることもあった。
誰もやらないなら、俺がやる。そう決めた。
夜の事務所は音が少ない。紙が空気を切る音と、引き出しの爪の擦過音だけが残った。
ある夜、画面の中が気になった。
共有サーバーのフォルダ名はばらばらで、階層は崩れていた。
ここも同じだ。名前を揃え、重複を排除し、残りを収める。
最初は単純だった。やっていることは正しい。
誰もがそう言った――最初のうちは。
でも、だんだん不具合が出始めた。
必要なファイルが見つからない。
更新された日時がおかしい。
消したはずの文書が復活している。
誰かのミスだと思って、自分で調べてみた。
そして、最下層のディレクトリで、それを見つけた。
「Archive_2007」
プロパティが開かない。数字が出ない。
開こうとすると、筐体の奥で、ファンがひとつ余計に回った。
金属の奥で、誰かが息を吸う音がした。
翌日、そのファイルについて職場で聞いた。
誰が作ったのか、誰が権限を持っているのか、誰も知らない。
「これはマズい」と思った。胸の奥で、嫌な熱がじわっと広がった。
この職場は、定時になると急に静かになる。
人気のない事務所で、パソコンに向かった。
指先だけ体温が落ちた。カーソルは震えないのに、手の骨だけが鳴った。
だが、マウスの手は止まらない。これも片付けなければ。
右クリックで消去を選んだ瞬間、画面が一瞬暗くなった。
パソコンが短く鳴った。まるで満足したように、ひとつ息を吐いた。
これを消せば、全部きれいになる――はずだった。
翌朝、俺が出社したとき職場は騒然としていた。
「重要データが全部消えた」
上司が真っ青な顔で言った。
契約管理表、決裁記録、過去5年分のデータ。
バックアップにもない。
システム担当が調べたら、削除実行者は俺だった。
時間は深夜23時42分。俺が会社を出て4時間後だ。
「その時間、どこにいた?」
上司が問い詰める。
「家にいました」
「証拠は?」
答えられない。一人暮らしだし、家族もいない。誰も証明できない。
しかも、今まで俺が残業をごまかしてたことも、システム担当にバレていた。
口を開いた。誰も目を合わせない。上司の視線が書類の上で止まったまま動かない。
「あいつならやりかねない」みたいな空気だった。
真面目すぎる人間は、疑われたら誰も擁護してくれない。
「部屋に出入りした記録があるはずです」
そう主張したら、夜間の事務所の入退室ログを確認することになった。
ログは正常に記録されていた。
「この時間は部屋に誰も入っていませんね」
記録を見ながらシステム担当が言った。
「じゃあ、誰が入ったことになってる?」
[23:42:17]AUTH/K SUCCESS
[23:42:17]DOOR/Office NO ENTRY
でも、サーバの認証履歴には K がログオンしている。皆で首をひねるしかなかった。
とりあえず、俺への疑いは晴れた。晴れたのは疑いだけで、削除の記録は残ったままだった。
自分のパソコンを開くのが怖くなった。
でも開けないわけにはいかない。
データを元に戻さなくてはいけない。
バックアップツールを起動して、消されたファイルを探した。
そしたら、見覚えのないファイルがあった。
「K_backup.zip」
開いてみると、俺の作業記録が入ってた。
俺が整理した棚のリスト、分類した書類の一覧、消したファイルの履歴。
まるで俺自身が記録されてるみたいだった。
冷蔵庫が一度だけ唸って止まる音がした。
画面に映る自分の名前をクリックする。
「アクセスが拒否されました」
エラーメッセージが表示される。
「対象のユーザーは存在しません」
画面を見つめた。エアコンの機械音が、静かな事務所の空気を震わせる。
耳の奥で一定の周期が鳴り、心拍と重なっていく。
次の日、会社に行かなかった。電話もメールも無視した。
家のパソコンから共有サーバーに接続してみた。――入ることができた。
フォルダを開く。バックアップを戻す。ファイルを整理する。削除する。分類する。
夜になっても、朝になっても、ひたすら画面を見つめてた。
ふと窓の外を見た。隣の空き家に、明かりがついてる。
いや、明かりじゃない。窓ガラスに映る、パソコンの青白い光だ。
その画面の前に、誰かが座っている。
立ち上がって、窓に近づいた。
俺と同じ姿勢で、同じようにモニターを見ている。
気づいた。
あれは、俺だ。いや、片付ける前の俺だ。
転勤のもう一つの理由を思い出した。
ある日突然、職場からいなくなった"常識知らず"。
似たログを昔見た気がしたが、記録は見つからなかった。
[03:11:08] AUTH/? SUCCESS
[03:11:08] DOOR/Office NO ENTRY
その人は、共有サーバーの整理をしていた。「これを片付けないと」が口癖だった。
最後に残されてたのは、きれいに整頓されたフォルダと、「作業完了」と書かれたテキストファイルだけだった。
窓を閉め、カーテンを引いた。
パソコンの前に戻って、また作業を始めた。
整理するべきフォルダは、まだたくさん残っている。
削除すべきファイルも、分類すべきデータも、無数にある。
マウスを動かし続けた。静かに、ただ静かに。
俺の存在が、どこかのフォルダに、きちんと整理されて収まるまで。
誰にも迷惑をかけないように。誰の手も煩わせないように。
それが、俺の仕事だから。
俺がいなくなっても、誰も困らない。
日常は何も変わらない。
ただ、片付いた世界だけが残る。
……これで、全部片付いた。
翌月、社内規定が更新された。
「データ整理のルール」が追加されて、作成者の欄にはKの文字。
みんなが口にする。「Kさんの教訓を忘れないように」
研修スライドのフッターには「Author: K」。
上司がぽつりと言った。「……なんで黙っていなくなったんだろうな」
誰も答えなかった。
上司の言葉に頷きながら、誰もその顔を思い出せない。
整理された世界では、記憶もフォルダの一つだ。
必要がなければ、削除される。
「Archive_2007」のファイルはまだある。
新しい担当が言った。「これ、消してもいいんじゃない?」
返事はなかった。どこかで、短い"カチ"という音だけがした。
……この話には、以前書いた短編の中で触れた風景や出来事が、少しだけ影を落としています。
読んでくださった方は、どこかでその気配を感じ取っていただけるかもしれません。
前作:
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