迫り来る影 ― ヴァリオンが守りたい人
ヴァリオンはまだ胸を押さえ、膝から立ち上がろうとしていた。
「はあ……はあ……俺の心臓が……」
――その空気を、一瞬で凍らせるような重い足音が響く。
ドン……ドン……ドン……
通りの石畳を踏み砕くような足取り。
ヴァリオンたちの背筋に、恐怖が走った。
「……あそこだ。哀麗の魔力反応が微かに残っている」
低く抑えた声が通りに響く。
怒りを飲み込んで無理やり押さえ込んだ獣のような声音――ブレイブだ。
背後には、金色の髪を揺らし、アスティアがぴたりと控えていた。
その巨体から放たれる圧だけで、近くの人間たちが距離を空けていく。
ブレイブの足が一歩踏み出されるたび、石畳がわずかに震えた。
「ブレイブ……」
――次はない。
ヴァリオンの脳裏に、ブレイブの一言が閃光のように蘇る。
喉が焼けるように乾き、心臓が潰れたかのような激痛が走る。
膝が震え、地面に縫いつけられたかのように一歩も動けなかった。
――捕まったら終わりだ。
――逃げられない。
恐怖が爆発的に膨れ上がり、視界が歪んだ。
「――あ……!」
柔らかな声が響いた瞬間、世界が戻った。
張り詰めて凍りついていた空気が一気に緩む。
哀麗だ。
振り返った拍子に、ヴァリオンの膝から力が抜けかけた。
震えている指の一本一本まで、恐怖がまだ残っている。
だが哀麗の瞳が、すがるようにこちらを見ていて――その瞬間だけは思考がまっさらに塗り替えられた。
「あ……!皆、隠れて……もっと奥に……!」
哀麗は息を切らしながら、必死に2人を奥の路地へ押し込む。
その細い腕が自分たちを守ろうとしている。
ヴァリオンの喉の奥から、かすれた音が漏れた。
――何やってんだ俺は。
さっきまで恐怖で動けなかった自分が恥ずかしくて、心臓を掴まれたみたいに胸が痛んだ。
逃げることしか考えられなかった。
でも違う。違うだろ。
俺は……哀麗を守るためにここにいるんだ。
息が一つ、深く入る。
恐怖にすり替えられていた心臓の鼓動が、戦いの鼓動へと変わる。
ブレイブの殺気が迫っている。
それでももう、さっきのような動けなくなる恐怖はなかった。
その瞬間——。
「……くぅん?」
小麦の鳴き声。
静寂を破るにはあまりにも無垢な音。
ヴァリオンと哀麗は同時に青ざめた。
「だ、だめよ小麦くん! 今だけ静かに……!」
「そうだ小麦! しーだ! しーーーー!!」
焦りすぎて声が上ずり、逆に反応してしまったのか——
「きゅぅん……」
小さく、甘えるような鳴き声。
その破壊力が最大の危機だと全員が理解していた。
「や、やば……っ」
ヴァリオンが震える声でつぶやく中、哀麗は震える指でポーチを開き、素早くクッキーを取り出す。
「これ、食べてて……お願い、今だけ……!」
祈るような小声で、小麦の口元へ差し出す。
「もぐっ!」
一瞬で食いついた。
小麦の尻尾がぱたぱた揺れる。
その動きがあまりに可愛くて、逆に全員泣きそうになる。
「……助かった……」
三人は全く同じタイミングで息を吐いた。
外では足音がゆっくり遠ざかっていく。
「いないな……魔力の残滓だけだ。戻るぞ」
ブレイブの声が消え、アスティアの気配も完全に遠のいたのを確認してから、ルミナは胸を押さえながら呟く。
「小麦くん……ダメですよぉ……心臓止まるかと思いました……」
小麦はクッキーを食べ終え、満足げな顔でぱたぱた。
それを見た哀麗は、安堵と愛しさが混じった表情で小さく笑った。
小麦はクッキーを食べ終えると、当然のように哀麗の膝の上へよじよじと登り、胸元にすり寄って落ち着いてしまった。
哀麗は頬を緩めて、小麦の頭を優しく撫でる。
その光景に、ヴァリオンは少しムッとする。
(……おいおい。
さっきまで震えてた俺のことより、そっちのほうが落ち着くのかよ)
思わず眉間に皺を寄せてしまう。
小麦は哀麗の胸に顔をうずめたまま、尻尾をごきげんに揺らしている。
(……ちょっとべったりしすぎじゃないか……)
無意識のうちにじとっと小麦を睨むヴァリオン。
「くっ……確かにこの辺りにいたはずなんだ!!!哀麗!!
どこにいる!!出て来い!!!」
ブレイブの低い声が通りに響く。
その瞳は鋭く、通行人たちも思わず道を空けてしまう。
「落ち着けよブレイブのおっさん」
隣でアスティアが頭の後ろで手を組み、のんびりと空を仰ぐ。
「そんなに剣幕じゃ、そりゃあ誰だって隠れちまうって」
「……お前にこの焦りがわかるか!」
ブレイブは振り返り、苛立ちを隠せないまま地面を蹴る。
「哀麗が……哀麗がまた俺の目の届かないところに行ったんだぞ!」
「はいはい、気持ちはわかるけどよ」
アスティアは肩をすくめ、ちらりと周囲の視線を見回す。
「見ろよ……周りの連中、みんなこっち見てる。
王国一の騎士様が真っ赤な顔して怒鳴ってるなんて、そりゃあ目立つって」
「……ぐっ」
ブレイブは歯を食いしばり、周囲の視線を意識して少しだけ声を落とした。
「見つけ出す……必ずだ」
アスティアはそんな彼の背を見つめて、
「ほんっと……惚れたもん負けだな」
とぼやきながら苦笑した。




