その瞳に宿るもの
魔犬の口が裂けるように開き、
「ギャアアアァァァ……グガァアアアァァッ……!」
その咆哮は、獣の声ではなかった。
怒りでも、痛みでもない。
まるで“何かを呪うような”濁った音が、空気を軋ませて広がっていく。
石壁が共鳴し、アスティアの鼓膜が震える。
その響きの中には、人の悲鳴にも似た音が――確かに混ざっていた。
咆哮が轟き、アスティアは次の瞬間を読めぬまま床に叩きつけられた。
「ぐっ!」全身に衝撃が走る。厚みのある鋭い爪を持つ肉球がアスティアの胸を押さえつけ、息が一瞬止まりそうになる。圧力で背骨がぎしりと鳴る感覚が伝わった。
「なっ…!」アスティアは必死に腕で体勢を立て直そうともがくが、再び魔犬の肉球による衝撃に視界が揺れ、床に顔を打ち付ける!
砂と埃の匂いが鼻をつき、痛みに歯を食いしばるしかなかった。
「躾は……ちゃんとしろ――――!」
アスティアは歯並びの良い歯をむき出しにして魔犬の腕に噛み付く。
「ギャンっ!」魔犬が驚き、勢いがほんの少し揺らいだその瞬間、アスティアは力を込めて体勢をひねり、床から跳ね返る。
咄嗟の反撃だったが、魔犬に戸惑いを与えたのは確かだった。
魔犬は思わずアスティアから離れ、唸り声をあげて警戒体勢に入っていた。
「へっ……結構可愛い鳴き声出すじゃねーかよ……」拳に力を込め、次の一撃に向けて体を弾ませる。
「へえ……驚いた……結構やるね」
パルスはニコニコと眺めている。
魔犬はアスティアに噛まれた歯型の跡に血がちょっぴり出ていて目が潤み鼻が震えていた。
魔犬と睨みあっているとパルスが背後にふわりと降り立った。
「!!」
なんと、アスティアの背後から、パルスが銃を構えてじっと狙っている。
前方には獰猛な魔犬がうずくまり、牙を剥き出しにして飛びかかる瞬間だ。
「今度は、ホンモノだよ……?どうする?」パルスの低く震える声が響く。
アスティアは一瞬、視線を泳がせ、背後と正面を確認する。
「くっ…!挟み撃ちかよ!」叫びながらも、全身に戦闘本能が漲る。
パルスの指が引き金に触れる。
「お、おい……!?」アスティアの心臓が跳ねる。
パルスの幻影魔法で頭を貫かれた衝撃が脳裏に浮かぶ。
パンッ――銃声が弾けた瞬間、
アスティアの頬を灼けるような風が掠めた。
弾丸は空気を切り裂き、背後の壁に火花を散らして突き刺さる。
「ちっ……!」
反射的に身を翻すアスティア。遅れて頬に一筋、赤い線が滲んだ。
パルスは無言で銃を構え直した。
機械のような動き。呼吸一つ乱さない。
銃口が、確実にアスティアの鼓動を追う。
「……動くな。今度は、外さない」
低く押し潰すような声に、アスティアの背筋が凍りつく。
魔犬の唸りが、その言葉に呼応するように低く響いた。
後ろには魔犬。前方には銃口を向けたパルス。
「足」
次の瞬間、銃口から放たれた弾丸がアスティアの右足を直撃する。
「うああああ――!!」
激痛が右足に走り、アスティアは堪らず叫んだ。
「次はどこにしようかなあ……?四肢全部使えなくしよっか……それとも魔犬に食いちぎられたい?」
無垢な笑顔で銃を片手に楽しげに語るパルス。
その声は、まるで遊ぶ子供のような弾んだ声。だが、その目には明らかに異常な光が宿っている。
アスティアは思わず息を飲む。こいつ…楽しんでる…。
パルスはアスティアが痛がる様子に目を輝かせ、狂気じみた笑みを浮かべる。
「もっと……痛めつけたいなあ……」
心臓が跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝う。
パルスの異常な高揚感が戦場を支配している。
この恐怖は、肉体よりも先に、精神を深く締め付けてくる――。
アスティアはただ後退し、必死に距離を取る。
しかし、パルスの狂気は逃げる隙すら許さない。
そしてその笑みの奥に、何をしても楽しむ異常性があることを、アスティアは悟った。
「何をしておる、パルス!」
低く唸るような声が、背後から飛んだ。
空気が一瞬で凍りつく。
パルスはビクリと肩を跳ねさせ、ゆっくりと振り向く。
その目の前には、怒りを押し殺したハラス丸――。
眉間に刻まれた皺が、雷鳴の前触れのように深まっていく。
「……ご、ごめんなさ…」パルスの声が震える。
それでも、ハラス丸の眼光は獣を見下ろすように冷たかった。
「命令もないのに勝手な真似を? ……処分されたいのか」
パルスの喉が鳴る。
魔犬ですら、尻尾を垂れて一歩退いた。
その隣には哀麗が。
パルスの声が、叫びにも似た震えで空間を裂いた。
「ご、ごめんなさいッッ…ごめんなさいッッ…!!うああああああ――!?」
必死に頭を押さえ、体を丸めて震えながら、床に膝をつき、額から血のように汗を流しながら、声が裏返り、掠れ、泣き叫ぶ。
その声にはもう、理性も感情の抑制もなく、ただ「許して…!」という恐怖と混乱だけが渦巻いていた。
それは鬼気迫る叫びだった。
アスティアにはその姿が幼く怯えている様に見えて哀れになった。
哀麗が慌てて駆け寄り、パルスの肩に手を置いた。
「もう大丈夫よ、落ち着いて」
彼女の声は柔らく、パルスの背中を優しく摩った。
ハラス・ヴォルトはパルスに意を介せず、アスティアに目を配り「哀麗、そんなやつ捨てておけ」と一言吐き捨てた。
「で、でも…………っ」
パルスは今もなお体を丸く縮こまったままで謝り続けている……。
魔犬は隣に座って哀麗をじっと見つめていた。
「……?」
こちらばかりを見る魔犬に不思議と目が離せられない哀麗。
「哀麗!!」
「ヴァウ!!」
ハラス・ヴォルトは哀麗の腕を引き、パルスから引き剥がすが、魔犬が唸りながら哀麗のスカートに噛みつき引っ張る。
「キュー…キュウン…」
魔犬は何かを訴えるように、濡れた瞳で哀麗を見つめた。
その鳴き声は、まるで何かを懇願しているようだった。
かすかに震えるその声が、胸の奥を静かに締めつけた。
鳴き続ける魔犬の声はただただ切なさだけを帯びている。
哀麗はその声に胸をぎゅっと掴まれたような感覚になり、戸惑いながらも手を伸ばす。
ハラス・ヴォルトは「小汚い魔犬め」と吐き捨てるように蹴り飛ばし、哀麗の腕を強引に引っ張った。
魔犬はなおも必死に哀麗を追おうとするが、空を切るその影に手は届かず、切なげな唸り声だけが乾いた空気に響いた。
哀麗の胸には、得体の知れない悲しみが渦巻いていた。
哀麗から遠ざかる視界の中で、切なげな鳴き声を空に向かって振り絞った。
その声は哀麗に届かぬまま、悲しみと抗えぬ無力感だけを残して乾いた空気に響き渡った。
哀麗が見えなくなった後に魔犬はパルスの脇に座り、ペロペロと顔を舐めるとパルスは何も言わずに魔犬にしがみついて「うわああああん」と、子供みたいな声で泣き喚いた。
傷だらけの体で、アスティアはパルスと寄り添う魔犬の姿を見つめる。
子供のように泣き喚く彼の姿に、思わず眉をひそめる――戸惑い、警戒、そして、ほんの少しの同情。
アスティアは何も言わず、傷だらけの足を引きずりながら、パルスと魔犬に背を向け歩き出した。
その背中には、複雑で切なく、どうしようもない悲しみが重くのしかかっていた。
最後まで読んで下さりありがとうございます!
今回でアスティアのお話はひとまず区切りです。
戦いの最中で見せた彼の強さや優しさ、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
次回からはヴァリオンの旅や、新たな事件が動き出すので、アスティアのことを思い出しながら、次の展開を楽しみにしていてくださいね。




