8
Clarice
学園の食堂は、「食べるための場所」と呼ぶにはあまりに優雅だ。
天井は高く、ふわりと揺れる大ぶりのシャンデリアが、陽の光を取り込んで万華鏡みたいに輝いている。邸のものよりもほんの少し小ぶりなそれは、見慣れたもの。けれど、壁がガラスとなっているのはいまだに少し慣れない。貴族の邸のように晩餐が想定されていないからかもしれない。
鮮やかなバラが飾られた横を通り、トレイを手に席を探す。
前世、通っていた大学のカフェテリアがこんな雰囲気だった。
天窓と側面に張られたガラス。真夏は熱いし真冬は寒い。設計絶対に間違えている、と誰かが言っていたのに大いに同意をし、真夏の灼熱の太陽が差し込むカフェテリアで、室内だというのに日陰を求めて我先にと席を確保していたのは、ついこの間のようであったはずなのに。
転生し、前世の記憶を取り戻してからそれほど経ってはいない。けれど、これまで生きてきたクラリスとしての人生と、公爵家の娘としての責任、そしてこの胸にしぶとく根を張る想いが、今の私の意識を、前世の私に明け渡してはくれない。
テーブルの上には花の入った小さなガラスの器がひとつずつ置かれ、料理を待つ生徒たちの前では、銀のカトラリーが静かに光っていた。でも、誰もが慣れたように着席し、談笑しているのだから、この空間も日常なのだと、少し不思議な気持ちになる。
あの頃、陰気で友人も少なくオタクな女子大生だった私と、友人などほとんどいない公爵令嬢、悪役であるクラリスは似ても似つかないのに、こんなところは一緒だった。誰かと談笑して食事をとるなんて、私には。
そう胸の裡で零しかけた時、私の天使が今日も素敵な笑顔で一つのテーブルに着いたのが見えた。いつも友人たちに囲まれている彼女が一人だなんて珍しい。けれど、もし一人であるのなら。
灯る願望を胸に、私は彼女に近づいた。
「クラリス様!」
「ごきげんよう、ノエルさん。ご一緒してもいいかしら」
「もちろんです!」
輝くような笑顔で同席を喜んでくれたのがうれしくて、思わず口元が緩んだ。
彼女の手元には、私のトレイとは違うメニューが並んでいる。どれもこれも、美味しそうに口にするノエルちゃんが眩しくて、いつも小食な自分もつい食が進んでしまう。
今日のノエルちゃんは歓迎会の時のドレスと同じ色のリボンでふわふわの髪を結んでいた。いつもの赤いリボンもとても似合っているけれど、やはりあの時のドレスも似合っていたように、この色のリボンもよく似合っていた。ビタミンカラーは見ているこちらも元気になる。纏う色でさえ、彼女はヒロインなのだと改めて実感させられる。
見る人を幸せにする笑顔、元気にさせる姿。
こういう女の子だからこそ、きっと殿下も。
「クラリス様は隣国のエリク殿下とお話しされていましたね。仲がよろしいのですか?」
ノエルちゃんと会話をしながら食事を進めていると、ふと思い出したように尋ねられた。口に入れたばかりのパンをスープで飲み込んで、私は顔を上げてノエルちゃんを見た。
エリク様、私が兄のように慕うエリク・フォン・ローゼンクロイツ公爵は、前世の知識では、攻略対象の一人だ。前世の私が攻略したことはないけれど、それは事実。エリク様とのルートには、隣国への留学が必要となる。
先日アシュレイ様にも認められ、学業も優秀な彼女であれば、そのルートに進んでもおかしくはない。もしや、今目の前にいるノエルちゃんは、エリク様がタイプなのだろうか。
それなら、殿下は。
内心の動揺を悟られないよう、私はおっとりと微笑んで見せた。
「エリク様は、兄の友人なのです。兄が隣国へ留学した際に親しくして頂いて。そのご縁で仲良くしてくださっているのですわ」
彼女の意識が、エリク様に向いているのか向いていないのか。それを図りたくて事実だけを口にする。エリク様の評価を上げるようなことを口にしない自分を、どこか冷めた目で見る私がいる。貴族の娘として、感情をできる限り表に出さない教育をされてきた。そのおかげか生まれ持った資質か、私は表情筋をとっさに動かすことが苦手だ。私の言葉に、純粋に驚きだけを露わにしたノエルちゃんは、それ以上、エリク様に関して聞いては来なかった。
「クラリス様のお兄様も素敵な方なんだろうな、と思います」
なんて、乙女ゲームのヒロインらしく、ちゃんとフラグを口にするところは少しおかしく、私も食事を再開させようと再びナイフとフォークを手に取って、食堂の入り口がにわかに騒がしくなったことに気付いて視線を向けた。
「……」
「クラリス様?」
食堂に入り口には、アルベール殿下とその側近であるルカ様の姿があった。
ノエルちゃんと同じように、存在だけでもまるで光のような殿下に気付いた女生徒が、我先にと声をかける。挨拶もあれば勉強を教えてほしいと強請る声、同じテーブルに誘う声、たくさんの声が殿下を取り巻いて、殿下はそれにまるで仮面のような完璧な笑みを浮かべて一人一人に丁寧にお返事をなさっていた。
「あ」
私の様子に、向かいで食事をとっていたノエルちゃんも気づいてしまったのだろう。ほんの少しだけ彼女の笑顔の角度が変わった。口元が下がるその様子は彼女の素直さを表していてとても好感が持てる。
しかし私のほうは問題だらけだ。婚約者が食堂に入ってきたのだから、視線を向けるのは自然なことだが、声もかけずただ黙って氷のように見つけてる女──など、不審に思われてしまう。公爵家の令嬢としても褒められた姿ではないだろう。己の姿を客観的に判断し、このままではいけないと即座にいつも通りの自分を被ると、私はノエルちゃんに正面から視線を戻した。
「ノエルさん、デザートはいいの? レモンのタルトが美味しそうでしたわ」
天真爛漫で愛らしい乙女ゲームのヒロインとはいえ、ノエルちゃんは子爵家の令嬢。勢いは衰えていても長く続く由緒ある貴族の家に生まれた彼女は、私が話題を逸らしたことに気付いたのだろう。アルベール殿下から視線を戻して、正面からまた私に向き直った。
私のと彼女の間で、一瞬の沈黙が流れた。
「クラリス様は」
「ノエルさん?」
急にトーンを落とした彼女に、私は思わず椅子から腰を浮かしかけた。殿下のこととは別に、体調でも悪いのかと、ナイフとフォークを置いてハンカチに手を伸ばしかけた――そのとき、ノエルちゃんが真っ直ぐに私の目を射抜いた。
「クラリス様は、アルベール王子に令嬢の皆様が群がっているのはお嫌ではないのですか」
その、彼女らしい正義感にあふれた強い言葉に、一瞬、私は“クラリス・ルクレティア・フォン・グランツ”という役を保てなくなった。
私の胸を搔き乱したのは、二つの事実。
一つは、ノエルちゃんが殿下を巡る女生徒達のざわめきを、確かに“嫌だ”と思っていること。
もう一つは――この想いに、こともあろうに、彼女に気付かれていたということ。
心の奥底で、ひそやかに疼いていた恋心が、彼女の言葉に触れて、息を呑むほどに痛んだ。
口元が震えているのを自覚し、己を叱咤する。これではだめだ。
膝の上に置いてあった扇ではなく自分のてのひらで口元を覆うほどの動揺は、きっと彼女には気づかれていた。心配そうに下がる眉に、彼女の優しさを感じて、てのひらの下で私はやっと正気を取り戻す。
お慕いしている人の婚約者にまで、こんな風に心配をしてくれる。
推しカプだからとかそんなことよりもっと素直に胸に落ちる納得。こんな女の子だからこそ、きっとこの先、殿下は彼女を選ぶだろうと思えたのが救いだった。
「殿下は素敵な方ですし、大勢の人の声を聴くのも王族の務めですもの」
それは事実だ。
王太子として殿下が進む先には、この国の王としての椅子がある。
その椅子に座るものの重責を、殿下は今どれだけつらく困難なものに感じているのか。私はではその助けにはならないけれど。
「もちろんです!貴族の娘としては間違っているかもしれませんが……でも……私はやっぱりちょっと嫌です……」
「そうですわね」
不服そうな、唇を尖らす様子は本当にかわいらしい。
「ノエルさんは、それでよいと思いますわ」
「クラリス様?」
私の言葉に、ノエルちゃんが目をくるりと回す。意味が分からない、と問いかける表情に私は苦笑して、今は意味など分からなくてもいい、と言いかけた。
「きゃ」
「クラリス様!」
「申し訳ございません!」
どん、と何かにぶつかられて、身体が傾いた。
髪が何かに引っ張られるような軽い痛みと、切羽詰まったようなノエルちゃんの声に、私の頭の中に一つのシーンが浮かんだ。
これはこのシーンは。
まるでスローモーションのように、バラの髪飾りが落ちていく。
私にぶつかった給仕係が真っ青な顔で怯えるように頭を下げた。
ああ、このシーンは、悪役令嬢クラリスが悪役令嬢として皆に恐れられるシーンだ。
『誰にでも間違いはあります!どうか叱らないであげてください!』
静まり返った食堂にノエルちゃんの声が響くそれは私の脳内で再生されたシーン。
ヒロインと悪役令嬢が、公の場で初めて互いの立場を明確にさせ、周りに人間が二人のイメージを確定させる重要なシーン。
物語通りには進んでいないはずなのに、やはり私は。
「ノエルさ…」
往生際悪く、出した声が震えていないことだけをほめてあげたい、そう思っていたのに。
「よかった!クラリス様、壊れてはいないようです!」
咄嗟に立ち上がり、こちらへ回り込んだノエルちゃんが私の足元に膝をついて、落ちた髪飾りをそっと拾い上げて私に差し出した。
(……え?)
今、何が起きているのか。
先ほどの動揺も相まって、短時間で何度もイレギュラーに晒された思考と心が状況をうまく判断できない。いったい何が起きているのか。私が給仕を叱ろうとして、ノエルちゃんが給仕を庇うシーンのはずなのに。今ノエルちゃんは、給仕を庇う様子もなく、私が落とした髪飾りを大事そうにそっとてのひらで包んでいる。
「傷などついていないとは思うのですが……」
混乱する思考がその言葉に現実に引き戻された。素早く視線を走らせた先、黒ばらの髪飾りはいつもと同じようにそこにあった。ところどころに魔力を帯びたタンザナイトの欠片で飾られている。確認した床にも、かけらが落ちている様子はない。ほんの僅かな魔力ではあるけれど、あまり人に気付かれたくはない。ノエルちゃんは優秀だからもしかしたら。
焦燥を胸に、手を伸ばした私の手に、髪飾りが返ってくる。彼女の言う通り、どこも壊れていないし傷もついていない。そして多分、気づかれもしていない。
降りてきた安堵に私は髪飾りを胸に抱きしめた。
「誠に申し訳ございませんでした」
その様子を見た給仕が幾分か落ち着いた様子で、再度私に頭を下げる。元より叱るつもりはない。壊れていないならなおさらだ。
「問題はなかったので、咎めるつもりはありません。以後気をつけなさい」
「はい!」
「それと、ノエルさんにもお礼を」
「はい!エイヴァリー子爵令嬢、この度はありがとうございました」
「誰にでも間違いはあるわ。でもクラリス様のおっしゃるように気を付けて」
「はい」
誰にでも間違いはある、ゲーム内で聞いたセリフとは少しだけ違うそのセリフを私は複雑な思いで聞いた。
これは、正しいルートなのだろうか。
向こうで、殿下がこちらを見ていた。
けれどそれもほんの瞬きをする間だけ。
いつも通りの喧騒を思い出した食堂の空気と同じように、殿下は私を視界から消した。
「クラリス様、ご気分がすぐれないのですか?」
放課後、食堂での騒ぎを聞きつけたのだろうカイルが、帰り道の同行を申し出てきた。騎士科としての自主訓練はいいのかと聞けば、夜に自宅でするから問題ないと暗に承諾以外の返事を許さない答えが返る。
同行と言っても、学園の入り口から邸までは馬車だ。一人で歩けない距離ではないけれど、肩書が一人で歩くことを許さない。しかし馬車なのだから護衛は不要だろうに。早く一人になりたい気分だったというのに。
溜息を吐いて窓の外を眺めていると、この空気すら気にもしないカイルが、そういえば、と口を開いた。
「今日、ノエル嬢と少し話をしました」
「……ノエルさんと?」
驚いた。すでにファーストネームで呼ぶほどなのか。理由を聞けばやはり食堂の一件でノエルちゃんに接触をしたらしい。真面目で職務に忠実な幼馴染のことだから、彼女を脅したりしていないか心配だったけれど、カイルの様子を見る限り心配はなさそうだった。
「面白いご令嬢ですね」
「ご令嬢に、面白いという評価はいかがかと思うけれど」
「面白かったです」
「かわいらしいとか可憐とか言うのですよ」
「ああ……まぁ確かに小さいのに元気で微笑ましいですが」
「……カイル、不合格です」
「どこがですか?!」
攻略対象として全然だめです。もっと頬を染めて、仲良くなりたいですとかそういうのを見せてほしい。ノエルちゃんは王子ルートが一番お似合いだと思うけど。
「はぁ…」
「何かお悩みでも?」
「何でもないわ」
しかしやはり彼女はヒロインだなぁ、と私は再確認した。私の騎士を自称するカイルの警戒をあっという間に解いてしまうところも。『私』と仲良くなってしまったから、給仕ではなく『私』を庇ってしまうところも。
すべてが彼女の魅力であり、すべてが彼女のヒロインたる資質を示している。
さすがに邸の中まではついてこなかったカイルと別れ、自室に戻ると、侍女にお茶の用意をお願いして私は髪から黒ばらを外した。
一人きりの部屋の中で、じっとバラを観察し、わずかに魔力を流してみる。いつもと同じように、タンザナイトの欠片は輝き、やがて何事もなかったかのようにいつもの色を取り戻した。
問題はなさそうだった。
髪飾りは確かに、兄が隣国での留学中にエリク様とともに選んで土産にしてくださったものだ。
ただし、ただの髪飾りではない。
留学の間、水鏡の魔法によって何度かお話をさせていただいていたエリク様が、兄や私と帰ってからも気軽に連絡が取れるようにおっしゃり、兄と苦心して魔法を込めた。込められているのは水鏡の魔法よりも少し安易な声だけを届ける魔法だ。しかし安易とはいっても、こんな小さなタンザナイトの欠片に、精巧な魔法人が描かれているのだ。いちいち検問やら手紙が届くまでの日数やらが煩わしい、とそんな理由でこんな高度な魔法が封じられている髪飾りをくださったエリク様と兄の技量には尊敬の念しかない。
そして髪飾りは今日も、エリク様からの伝言を私に届けてくれた。
「……」
自国の王太子と婚約をしているような女が、持っていていいものではない。
未婚の男性である隣国の公爵と誰にも邪魔されず個人的につながっている通信手段など。
『噂の人物と接触した。しかし心配はしなくていい』
エリク様からの連絡は短く簡潔。
先日聞いた噂に関する事後報告。
けれど私の背筋には冷たいものがぞわりと這い上がっていく。
前世の知識と今生での知識が混ざり合い、悪役令嬢クラリスの行く末が、ぼんやりと私の前に開かれた気がした。
「お嬢様、お茶が入りました」
「ええ、そこにお願い」
「それとルシアン殿下より、お手紙が届いていました」
「ルシアン殿下から? 何かしら?」
戻ってきた侍女の手には、アルベール殿下の弟君の紋で留められた封書。差し出される手紙を受け取りながら私は髪飾りをドレッサーに置き、鏡の中の自分を見つめた。
真っ黒な髪と、冷たい瞳。
微笑んでもどこか人形のような冷たさを思わせる顔。
ノエルちゃんとは大違いだ。
そんな悪役令嬢の私の脳内でざわめくのは、エリク様からの報告。
ああやはり私は、と私は苦い笑みをくちびるに乗せた。
心の優しいヒロインは、出会いやきっかけが違えばこんな私でも庇って仲良く優しくしてくれる。
でもきっと、それではだめだ。
ハッピーエンドのために、私は。
悪役令嬢クラリスとしての役を全うしなければ。