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Clarice
『君と紡ぐクロニクル』の一番最初の大きなイベントといえば、新入生歓迎会だ。
学園で過ごして一か月。
ゲームでいえば、まじめに授業を受けてステータスを伸ばしたり、学園のいろいろなところに行って攻略対象者と会って会話を重ね、好感度を上げていく。
その結果を受けての最初のテストのようなもので、そこで一番好感度が高いキャラクターが、ノエルちゃんを誘いに来てくれるのだ。もちろんゲーム内の時間で1か月だし、まだまだ好感度が足りていなくて誘いに来てもらえなかったとしても、自分で誘いに行くこともできて、その場合の相手の返答は、出会っている上に好感度がマイナスでなければ、基本的には了承の返事をくれる。
そう、つまりこれは、ノエルちゃんの攻略ルートを知る上で、まず一番最初のチャンスなのだった。
この世界のノエルちゃんは、誰のルートを進んでいるのか。それは私にとって、非常に大きな問題だ。
ノエルちゃんはアルベール王子と果たして新歓に行くのかどうか。
それが、私にとって最も重要な問題なのである。
ノエルちゃんをエスコートするアルベール王子殿下のスチルは、もう何十回と見てきた。
そのスチルにときめいて、あまりのお似合いさに手で顔を覆い、感動を噛み締めたことも数知れず。
だというのに、今の私は、アルベール殿下を恋い慕う気持ちをまだ捨てることができないまま、宙ぶらりんの思いを抱えている。
どう考えても、悪役令嬢であるクラリスよりも、ヒロインであるノエルちゃんのほうが殿下にお似合いなのに。
自分の未熟さとか、王となることへの重責とか、そんな他人とは共有できない苦しみを抱えているアルベール殿下にとって、ノエルちゃんの存在は光そのものだ。
お心を苦しめるだけのクラリスでは、その隣には相応しくない。
ノエルちゃんこそが、殿下を救う光であると、私は知っている。
だからこそ、第一関門である新入生歓迎会のノエルちゃんのパートナーが殿下であれば、と私は願ってきた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、歓迎会に関する話は殿下からは一切なく、これはもしかしてノエルちゃんに誘われたのか、と思っていたのだけど。
(なんでこうなっているんだろう……)
幼いころから仕えてくれる侍女が腕によりをかけて作り上げてくれた「私」は、美しかった。
鏡の中の自分を見て、現実味のなさにちょっと笑ってしまうくらいには。まるで世界の不幸を背負い込んだような漆黒の髪に、紫のドレス。たくさんの襞で飾られたスカート部分はまるでライラックを思い起こさせた。
美人だけど、年相応の愛らしさとか可憐さみたいなものとは無縁だな、なんてあまり動かない表情筋を情けなく思いながら、仕上げにシルクのグローブに手を通していた私のもとへ、まるで小さな流れ星のように淡い光の尾を引いて、一通の手紙が舞い降りた。
『支度が出来たら迎えに行く』
一瞬、言葉を失った。何度か瞬きを繰り返し、もう一度その一文を視線でなぞった。
見間違えるはずもない、殿下の筆跡だった。
しばらくどうしていいのかわからずにそれを眺めていた私に、侍女が気を遣って「お仕度、終わりましたよ」と声をかけてくれて、我に返った私は震える手を叱咤して返事を書いた。
寮生であるノエルちゃんと違い、私は王都にあるグランツ家が所有する邸から学園に通っている。領地はいくつかの港を持つ王国の玄関口でもあり、王国一の銀山も抱えており、王都からは馬車で二日ほどかかるような場所にある。私は今まで一年の半分を王都で、半分を領地で過ごしてきたが、学園に入学するのを機に、王都にある邸で暮らしている。
行き帰りは迎えと見送りの馬車を使い、一人で登校する日もあればカイルとともに登校することもある。
今日の新入生歓迎会も同じで、いつものように侍女に囲まれていつものように自室で支度をして、どうせカイルが迎えに来るだろうからそのまま行けばいいと思っていたのに。
迎えに来た殿下とともに馬車に乗り、学園までの道すがら、私は混乱する思考と早鐘のようになる胸をどうにか沈めようと必死になっていた。こういう時は、クラリスとして生きてきた中で鍛え抜かれた表情筋がいい仕事をしてくれる。丁寧に磨かれた馬車の窓ガラスに映る私は、いつも通りの「私」の顔を保てているはずだ。
どうして。
なんで殿下は当たり前のように私を迎えに来ているのだろう。
いやわかる。
クラリス・ルクレティア・フォン・グランツは、アルベール・セレノ・アルヴァート殿下の婚約者。
今までだって何かのパーティーに出席する際は殿下のパートナーを務めてきたし、殿下も毎回迎えに来てくださっていた。邸まで来るときもあれば、王城で出迎えてくださることも。婚約者であるからして、こういったときのパートナーは私だ。私なのだから。殿下が迎えに来るのは当然なのだけど。
(だって、何にも言ってくださらなかったのに)
今日という当日を迎えるまで、殿下と新入生歓迎会に関する会話をした覚えはない。というより、同じ学園に通っていてもそうそう殿下とお会いして会話をすることもない。入学前に王都で暮らしている期間にしていた定期報告会のようなお茶会と同じ感じで、時折お茶をして近況を報告しあうことはあった。偶然お会いすれば声をかけてくださり、笑いかけてくださることもあった。
でも。
今日のアルベール殿下は、何度もゲームのスチルで見た白地に金糸を使ったテールコート。ベストも同じく白で、ボウタイも白だ。
その容姿の良さも相まって眩しいほどの華やかな盛装は、いかにもファンタジー世界の王子様の見本のよう。
ご一緒させていただくのであれば、殿下の装いに合わせたドレスにしたんだけどな。
真っ黒に紫の私が隣に並ぶのは少しちぐはぐな気がして、気後れしてしまう。
きっとノエルちゃんであれば、と考えて、視線を下げた。
殿下が私を迎えに来たということは、殿下はノエルちゃんを誘わず、ノエルちゃんもまた別の誰かと今日の歓迎パーティーに来るということなのだろう。
殿下には、ノエルちゃんが光なのに。
殿下の孤独や重責を救ってくれるのはノエルちゃんだけなのに。
「あの、殿下…」
「どうかしたか?」
どうして、ノエルちゃんを誘わなかったのですか、と喉まで出かかった疑問を私は飲み込んだ。
「クラリス?」
「あ…いえ…その、入学式の日のことなのですが」
「お前が体調を崩したことか?」
覚えていたのか。少しだけ驚きを隠せない私に、「その後体調はどうだ」と殿下は気遣ってくださる。慌てて問題ないことを伝えれば、こちらを向いていた視線はまた前に戻された。
「それで?」
「……」
「聞きたいことがあったのだろう?」
「いえ…その」
どう聞けばいいのか。
まずはノエルちゃんとの出会いがあったのかどうかだ。それにあの日殿下が裏庭になぜいたのかも気になる。でもそれを直接聞くのは不自然だし、私はあの時医務室にいたから、裏庭に殿下がいたことを知っているわけがない。あくまでもゲームの知識でしかないのだ。これを突然問われても不審だろうし、いったいどう聞けば。
逡巡し、私は口を開く。
「あの日、医務室の窓から美しい青い鳥を見たのです。あんまりにも美しかったので、時折探しているのです。学園のどこかに巣を作っているのではないかと。殿下はご覧になられたことがありますか?」
「ああ、あの青い鳥か」
「ご存じで?」
「ああ、私も入学式の日に裏庭で見た」
入学式の日に、裏庭で。
ということは殿下はゲームシナリオ通りの行動を取ったことになる。
つまりそこでノエルちゃんと出会っている可能性は高い。
それなのにどうしてアルベール王子のルートにまだ入っていないんだろう。
ノエルちゃんはこの世界では誰と。
殿下の隣にノエルちゃんが並ぶ。
それが正しい君クロの世界。
私の愛する何よりも尊いカプ。
そこに、悪役令嬢の恋など入る余地はない。
「……」
締め付けられるような胸の痛みを覚えながら、私は微笑んだ。
上手く笑えているはずだ。
私と『私』(転生者)の懸念は違うところにある。
クラリスとして、もう一つ。
シナリオ通りとはいえ、殿下がお一人でなぜあんなところにいたのだろう。
「裏庭で? 珍しいところにおいでになったのですね」
私の言葉に、殿下は少し機嫌を損ねたようだった。供もつけず、と聞こえてしまったのだろうか。咎められているとでも思ったのかもしれない。
「叔父上が、息抜きの場所を教えてくださったのだ」
「アシュレイ公爵が」
王弟であるアシュレイ公爵は、アルベール殿下が幼いころより懐いている方だ。厳しい方ではあるが、息抜きの仕方やちょっとした遊びなども教えてくださる。まさに殿下があこがれて目指すべきだと思われている方。学園の卒業生でもあるので、秘密の場所でもお持ちなのかもしれない。
「お前が気にすることじゃない」
ふい、と視線を逸らすその様子は子供のころのようだった。殿下に憧れる令嬢たちへの物腰の柔らかさは私には向けられない。誰でも公平で優しい人なのに。慣れた仲だと言われたらその通りだけど、でも。
責めているわけではないのだとお伝えしたかったが、もういいだろうとばかりに腕を組まれ目を閉じてしまったので私も口を噤む。
最近はいつもこうだった。
四角四面な私といても、殿下は気が休まらないのだろう。
前世の私にしてもまた同じ。上手く言葉が出てこない。
私は、殿下の重責や苦悩を理解している。理解しているのに、何もできないまま。
ゲームシナリオで、アルベール王子がクラリスを遠ざけたのも理解できる。
だって『私』は、知っていながらも動けないのだから。
「……秘密の場所でしたら、わたくしも聞かないでおきます」
どうにかそれだけ呟くと、殿下は少しだけこちらを見て、「ああ」と短く頷いた。
新入生歓迎会は、長くクラリスとして生きてきた記憶があってもなお、煌びやかで夢のような世界だった。
学園長先生がプレゼント代わりに披露してくれた魔法は美しかったし、現代日本ではお目にかかれない正装やドレス姿の子女が集まっていて、いかにもファンタジーな光景。
殿下は私を伴って入場してしばらくすると、当たり前のように女生徒たちに囲まれた。
私はその皆さんの邪魔をせずに、けれど一応婚約者としてすぐにそばを離れるわけにもいかず、楚々として隣に立っていた。
アルノエ推しとしても、殿下の婚約者としても、女の子に囲まれてきゃあきゃあ言われてうっとりとした視線を向けられているのは、あまり精神衛生上よくない。よくないけれど、見慣れた光景であって、咎めるようなことでもない。
私は殿下の婚約者であるけれど、殿下の側室候補はまだ空席のまま。この学園での生活の中で、あわよくば側室に召されたいと意気込むのも自然なことだ。家名を名乗り、きっちりとした礼を持って殿下に接する方もいれば、そうでない方も。こちらを気にしつつライバル視してくる方、取り入って側室に推薦してもらおうとする方。なんというか、人それぞれというか、ドレスの色も相俟って色とりどり。まるで花畑。
側室になんて推しませんけど。
吐きたいため息を押し殺し、手に持っていた扇で口元を隠す。今日の扇はいつもの愛用のものではなくて、ドレスに合わせた淡い紫。それで口元を隠し、流した視線の先、まるで太陽のように笑うノエルちゃんがいた。
っ……と、尊い……っ
何度、画面の中で見たことか……!
ノエルちゃんのドレスは、まるで陽だまりを凝縮したような、柔らかで暖かな黄金のような橙色。貴族の令嬢にありがちな豪華絢爛なプリンセスラインではなく、過剰な装飾を排したAラインのすっきりとしたシルエットは快活な彼女の印象にこれ以上ないほど馴染んでいる。派手さはないのに、その色はまるで彼女自身の内側から輝いているかのように、会場のどこにいてもその存在を際立たせていた。彼女の画面越しで見た時よりもずっと鮮明に、彼女は光を纏って輝いているように思えた。
ああ、あの優しい光のようなドレス姿のノエルちゃんが、白と金を基調にした殿下の隣に並んだらどれだけお似合いなのだろう。
天使とはきっと彼女のような女の子のことを言うのだ。
一歩、殿下からそっと距離をとる。
殿下も、もちろん周りのご令嬢方も気づく様子はない。こちらが邪魔しないのだと分かったのか、殿下の周りの層が厚くなった。
まやっぱり花畑みたい。大学の一角にあった誰が管理しているのかわからないけど、春には色とりどりたくさんの種類の花を咲かせていた花壇を思い出して気付かず漏れた苦笑は、どうやら微笑みの形をキープできたらしい。
たくさんの愛らしい令嬢たち。
殿下がやさしく頷いていらっしゃる。どの声にも返事をするそのご様子は殿下らしいといえば殿下らしいけれど、そうではなくて、ここにいる令嬢たちでは、殿下の本当の笑みは引き出せなくて。
殿下の笑みを引き出せるのはきっと。
ふっと顔を逸らした先で、ノエルちゃんが笑っている。
クラスメイトだろうか、お友達らしい女の子と笑いあったり、男の子と手を振りあったり。
誰からも好かれる笑みを浮かべて、空気すらもそこだけ陽だまりのように変化している気がした。
彼女の本質がよくわかるような空間。
どんなに令嬢が集まったとしても、やっぱりこの会場の主役はノエルちゃんだった。
(そろそろ頃合いかしら)
殿下のパートナーとして隣に立っているだけの時間は過ぎただろう。
もう二歩、殿下から離れた私は、学園長先生とお話しする御仁に気が付いた。
歓迎会は、3年生の卒業を見据えて、学園外からのお客様もたくさん来賓として参加している。それにしても、あの方は。
向こうも私に気づいたようだった。
学園長先生との会話を終わらせ、こちらへと寄ってくるその気配は、殿下に負けず劣らず、攻略対象として輝きを放っていた。
「久しいな、クラリス嬢」
「エリク様に置かれましても、ご機嫌麗しく」
「相変わらずだな」
「兄譲りでございます」
「そうだった」
一見すると冷たく見えるその切れ長の瞳の端を緩やかに下げて、その方は笑った。
エリク・フォン・ローゼンクロイツ公爵。
隣国の王家の血を引く方だ。
転生者としての私の知識では、隠し攻略キャラ。私はエリク様のルートに手を出したことはないので、詳細は攻略情報サイトに載っているようなことしか知らない。
けれど、クラリスとしては、昔からの知己だ。
公爵とは、兄が隣国へ留学した際に仲良くなり、兄を介して知り合った。プラチナを思わせる白金の髪と冷たい氷のような瞳をお持ちで、いつでも冷静沈着なご様子は怖い印象を抱かれがちではあるが、兄と友人関係を築けるほどには高いコミュニケーション能力をお持ちの方だ。聞けば今日は交換留学制度の宣伝もかねて招かれているらしい。伝統や文化を尊重する我が国とは違い、隣国は常に最先端の流行を追い求める傾向が強い。どちらが悪いとは言わないが、どちらにもメリットとデメリットはある。だからこそ、交換留学という形で、両国の親交を深めているのだけど。
「クラリス」
「はい」
「噂話だ。聞くか?」
「まぁ珍しい。なんでございましょうか」
しばらく兄の近況や、他愛もない話、領地で生産している鉱石の輸出を増やせないかなどという私に言われても、検討しますという返答しかできない会話の後で、公爵はそっと私に耳打ちをした。
「……え」
「まぁ、噂だ」
「…………ええ、さようですわね」
いつも通りのクラリスの顔を張り付けて、私はできる限りゆっくりと微笑んで見せた。広げた扇の下、口の中が乾くのがわかる。いや違う、ただの噂だ、そんなこと。
「エリク公爵とクラリス嬢じゃないか」
「アシュレイ公爵」
にこやかに近づいてきた新たな登場人物に、私はさりげなくエリク様から適切な距離をとった。
「こんなところで公爵と仲良くしていると、アルベールが嫉妬してしまうよ」
「まぁ公爵、そのような」
「クラリス嬢に手を出すなんて、彼女の兄に殺されそうなことはしませんよ」
「ああ、うちの甥っ子よりもそちらが難関でしたか」
いたずらっぽく笑う表情が、幼いころの殿下によく似ておいでだった。
国王陛下の唯一の弟君である公爵は、殿下が生まれると同時に王位継承権を捨て、一臣下へと下られた。けれど王宮での要職はそのまま、今は外交特使として、その任についていらっしゃるため、国内に留まられることは少ない。ただ、国王陛下が現在体調を崩し気味なので、執務のお手伝いに国内にいることが増えていた。
重責を負っている殿下が王宮内で心を許す、数少ないお方。
息抜きに学園内の秘密の場所を共有してくれたのだと教えてくれた殿下は拗ねていながらも、少し嬉しそうだった。
幼いころから婚約者として王宮に赴いていた私にも、優しく微笑んでくださり、時には厳しく、そして楽しく、いろいろなことを教えてくださった方だった。
「アシュレイ様が学園の歓迎会にいらっしゃるとは思いませんでした」
「母校であるからね。アルベールにも久しぶりに会いたかったしそれに、」
それに?
「外交魔術科で将来有望な子がいると聞いたからね」
なるほど。
外交魔術科で優秀といわれる生徒を、アシュレイ公爵が気にされるのも道理だ。
私は誇らしい気持ちで口元に笑みを浮かべた。
「わたくしもまだ面識はございませんが、エイヴァリー家のご令嬢はとても優秀な方だと伺っております」
流した視線の先には、光輝くような女の子。
殿下が信頼するお方の目が彼女を捉え、ふうむ、と独り言ちる。
「ノエル・エイヴァリー様とおっしゃるそうですわ」
殿下の将来の奥様ですわ、とは、痛む胸の裡で呟くだけに留めておいた。