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Clarice
医務室のベッドの上で、上半身を起こし、そのままベッドから降りる。ドアの外ではカイルと保健医との会話は続いていて、そろそろ先生は折れたらしい。
個室となっているこの部屋の窓からは、青く澄み渡った空が見える。いかにも春らしい、清々しい色だ。窓の中の空を、一羽の鳥がまっすぐに通り抜けていった。
青い空と、その青空よりももっと深い青い鳥。
ふと思い出すのは一つのスチル。
君クロのヒロインであるノエルちゃんが王子と出会った後、悪役令嬢であるクラリスが現れ、ちょっと嫌味を言って王子と一緒に連れ立って行ってしまうのだ。ノエルちゃんはその背中を見送りながら、王子のことを素敵な方だったなって思う。その彼女の足元に青い鳥が舞い降りるのだ。
彼女のこれからの学園生活を象徴するような始まり。
幸せの青い鳥は、悪役令嬢が登場しなくても彼女の足元へ舞い降りただろうか。
ああああ本当、王子とノエルちゃんの邂逅シーンを見逃すとか、なんという体たらく。あれを見ずに、王子ルートは語れないっていうのに!
運命の二人が出会う大事なシーン。見たかった。悪役として邪魔しにじゃなくて、隠れてこそっとでもいいから見たかった。グランツ家の令嬢として陰に隠れてこそこそ恋人同士(になる予定)の男女の逢引きを見守るなんてできるわけないと知りつつも見たかった。講堂への近道は、裏庭を校舎沿いに進まないといけないから、入学式の日の朝なんて時間に他に人がいるわけもなく、二人きり。
「…あら?」
講堂への近道は、たしか裏庭を校舎沿いに進む道だったはず。
初等部からこの学園で過ごしているノエルはともかく、殿下はなんでそんなところにいたんだろう。殿下は私と同じく、今日からこの学園に入学するのに。
「アルベール殿下…」
ついくちびるから零れた名前。
慣れ親しんだはずのその名前に、私は全身に何かが走り抜けたような衝撃を受けてよろめいた。
すがるように伸ばした手で、窓枠を掴み、どうにか身体を支える。馬車を降りてノエルちゃんを見つけた時にも似た、しかしそれ以上の感情が、奥底からぶわりと溢れてきて、私は、はっと短く息を吐いた。愛用の扇はベッドサイドに置いたまま。胸元を掻くように掴み、握りしめる。
私は橘 柚葉
私はクラリス・ルクレティア・フォン・グランツ
私はどっちなのか、と一瞬混乱した。私は君クロを愛する大学生で、乙女ゲームの実況動画やSNSで二次創作に触れて、ノエルちゃんと王子のカプをこよなく愛する日々を送って、それで、あの雨の日に白杖を落として困っているおじいちゃんを見て、それで。
違う、私はグランツ家の長女として兄と弟とグランツ家に恥じないように生きてきた。王子殿下の婚約者としてゆくゆくは王太子妃、王妃へとなるために努力してきた、あの方の、殿下の伴侶となるべく、私は
「アルベール殿下」
クラリスとして生きてきた私の心が悲痛に叫ぶ。
愛しい、と。
あの方をお慕いしていると。
名前を零すだけで、こんなにも心を乱される。
うまく息ができない、と思った。
ああ、二度の呼吸困難はこれだった。
ノエルと王子へのエンディングを切望する私と
アルベール王子を愛しく思う私。
は、と短く吐いたはずの息は嘲笑のように思えた。
クラリスとして17年間生きてきた記憶は生々しく、またノエルちゃんを見たことで不意に思い出した前世の記憶もまた鮮明だ。どちらも私で、どちらかにはなれない。
なれないけれど、私は、ここにいる私はどちらの記憶も持っていたとしても、クラリス・ルクレティア・フォン・グランツであることには変わらない。
グランツ家に恥ずべき行為などできるはずがない。
のろのろと窓から離れ、私はドア近くの壁に掛けられた楕円の鏡を覗き込んだ。日本での生活ではお目にかかれないいかにもな細工の楕円の鏡。この話が白雪姫のストーリーなら、鏡が答えをくれるかしら、と映る自分へと苦笑して、乱れた髪を自らの手で直した。
前の記憶も捨てたもんじゃない。侍女に任せきりの髪を直すくらいは自分でできる。
「そうね、わたくしはわたくしだわ」
家名に恥じることはしない。
厳格だけど尊敬する兄の期待も裏切らないし、慕ってくれるかわいい弟にも迷惑はかけない。
王子殿下を愛しく思っているけれど、相手が『私でなくても』クラリスではいられる。
「そうよ」
ベッドサイドに置いたままになっていた扇を握り、私は個室のドアを開けた。
「クラリス…っ、様!」
心配のあまりまた口調が昔に戻っている幼馴染に目元だけを下げる。
「グランツさん、起きて大丈夫かしら」
「はい、ご心配をおかけしました。問題ありません、入学式に出席いたします」
「無理は」
「していません」
なおもこちらを心配するカイルへと、ぴしゃりと言い放つ。カイルは一瞬だけ口を噤み、承知しました、と頭を下げた。
幼馴染のカイル・ローレンスは攻略対象だ。
この国の将軍であるレオンハルト伯爵の一人息子。短めの栗毛と灰青の瞳で、世紀のイケメン!という感じではないが、情に厚く正義感も強い彼にファンは多い。私は王子ルート激推しだったので、彼のルートを攻略したことはないけど、なかなか人気のキャラであることは知っていた。クラリスが断罪された後、止められなかった己を責めているところを、ノエルちゃんが救うというシナリオだったはず。さすがノエルちゃんは天使。それとゲームの攻略情報にはなかったはずだけど、クラリスの母親、つまり私のお母様が弟を身ごもっているときに暴漢に襲われそうになったのを助けてくださったのが伯爵で、それから家同士での交流が親密なものとなった。出会ったときは二人とも三歳で、まるで兄弟のようにともに切磋琢磨して育った。けれど彼の父親が将軍ということもあり、年を重ねるごとにまるで主従のようになってしまった。まじめで不器用なところがあるのは理解しているけれど、少し寂しいなと思う。いつでも私の味方でいてくれたのが彼だ。対等な幼馴染であったはずで、家格の差はあれど普段は対等でいいと伝えているはずなのに。お父様と同じように騎士の道を目指すことを心に決めてから、「将来の王妃」である私に、彼はこうして一歩下がって守ってくれるようになってしまった。口調、戻さなくてもいいのにな、と思いながら、戻っていると指摘すれば彼は誤解して自身を律して距離はまた主従のようになる――その繰り返し。
これから先、私が目指す先が『王妃ではない』と知れば昔に戻るのだろうか、と浮かんだ考えに苦笑した。
「クラリス様?」
「何でもないわ、行きましょう」
「はい」
愛しいあの人。
あの人が、ノエルちゃんのようなかわいらしい素晴らしい女性と結ばれる、その未来に向かって、私はこれから生きていく。
今からなら入学式に間に合うはず。
新入生代表挨拶をする、愛しいあの方の姿を見たい。
それと壇上から、あの人がノエルちゃんを見つけてウインクを投げるのだ。
固定カプ厨として、そのシーン、今度こそ見逃したくない。
講堂までの道を歩きながら、背後を歩くカイルに見えないのをいいことに、私は閉じた扇を口元に充てて、先ほどの疑問を再度脳内で広げた。
『アルベール王子は、なぜ、入学式の朝に、裏庭にいたのか』
アルベール殿下のスケジュールを全て把握しているとは言えないが、婚約者としてある程度のスケジュールは把握している。入学前までの殿下は、王城での勉強、剣の稽古、魔法の鍛錬を日々行っていて、視察以外で王城の外に出ることはあまりない。もちろん息抜きと称して遊んでいることも多いけれど、与えられたものを放り出す方ではない。空いた時間に、学園へと来ていたのだろうか。それとも、ただ探索していて迷い込んだだけ?供もつけずに?いくら殿下でもおひとりで裏庭のような人気のないところに紛れ込むなんてするだろうか。
「クラリス様」
いつの間にか、講堂の入り口へと着いていた。まだ入学式は始まっていないらしい。間に合った安堵とともに、これから先への不安。胸が締め付けられるような感じに、首を振って足を進めた。
「行きましょう」
わからないのなら調べるしかない。
この先、ハッピーエンドへと私は進んでいくのだから。