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 長風呂で火照った体を冷ますため、左手にキンキンに冷えたアイスを頬張り、右手に持っているうちわで風を送る。

 いつの間にかアイスも食べ切り、無心で流れているテレビを観ていた。

「上がったよ」

 バスタオルを頭に巻いたのぞみさんの一言で、こちらの世界に引き戻される。

「はーい」

「良い湯加減で気持ちよかったよ」

「それならよかったです」

「でも、海人君みたいにのぼせてないから安心して」

「のぼせてなんかないですよ」

「ふーん。それならいいんだけどね」

「何ですか、その感じ」

「んー、海人君がかわいいなって思っただけ」

「かわいくなんかないですよ」

「はいはい」

 のぞみさんは、満足したのか洗面所に向かった。

 この人にからかわれるのも、悪いものではないのかもしれないと思い始めた夏の夜だった。


 蒸し暑い熱帯夜は、睡眠を妨害される。それに加え、人間の血を狙う蚊も快適な眠りの邪魔をする。

 寝苦しいそんな夜に、俺は考え事をしていた。これからのことを。

 いつまでも続いて欲しい三人の生活の行きつく先は、ガキの俺にはまだ分からなかった。

 保安灯によって作り出された温かな世界を、少し名残惜しく感じながら目を瞑る。

 思考する間もなく、眠りへと落ちる。


 携帯のけたたましいアラーム音に、叩き起こされる。

 夢を見ていた気がするが、すぐに内容を忘れ去る。その代わりに、バイトがあることを思い出し、憂鬱な気分にとりつかれる。

 眠気に格闘しながら、勢いよく起き上がる。

 乃愛とのぞみさんを、起こさないように布団を片付ける。

 そして、洗面所で冷水を顔に浴びて、半ば強制的に目を覚まさせる。

 朝食の準備にいつものように取り掛かるが、時間が流れるのが早く感じた。

 もう目は冴えているのに、あくびが出てくる。

「おはよう」

 のぞみさんが、もう起きてきた。

「おはようございます」

「今日も早いね。ちゃんと眠れてる?」

「いつもこの時間に起きてるんで大丈夫です」

「そういえば、今日バイトあるんだっけ?」

「はい。夕方までなんですけど、乃愛のことお願いしても良いですか?」

「乃愛ちゃんのことは、しっかり見ているから安心して」

「ありがとうございます」

 この人には、人を安心させてくれる不思議な力があると思う。


 夕日に照らされて、世界が輝き、労働を終えた俺を、讃えてくれていた。

 帰り道の足取りも軽やかだ。

 あっという間に、我が家のドアの前まで来ていた。

 ドアを開けると、食欲をそそる香ばしい匂いが、充満していた。

 匂いに釣られるように、台所の方に吸い寄せられる。

「お帰りなさい」

「ただいまです」

 真新しいエプロンを身に着けたのぞみさんが、美味しそうな料理を作ってくれていた。

「そのエプロンどうしたんですか?」

「お昼ぐらいに綾音さんと心音ちゃんが、遊びにきてくれてこの町案内してくれたんだよね」

 のぞみさんは、その場でくるりと回った。

「どう?これ可愛いでしょ」

「すごく似合ってますよ」

「嬉しい、ありがとう」

 のぞみさんは、嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 そんな顔をされたら、こっちの方も嬉しくなってしまう。俺は、あなたに何の魔法をかけられたのだろうか。

「疲れてると思って、お風呂も沸かしてるから入ってきなよ」

「本当にありがとうございます」

 のぞみさんの温かな気遣いに触れ、一瞬涙腺が緩くなってしまう。

「海人君が、一生懸命に頑張っていること私知ってるから、これくらいさせて」

 周りの他人の大人たちのおかげで、頑張れていることを当の本人たちは、気づいていないみたいだ。だから、これ以上の幸せを望んではいけない気がして、たまらなく恐ろしい。

 でも、それは今ではないと思う。

「お言葉に甘えて一番風呂いただきます」


 全身が包まれ、ほぐされていく。癒しの水が、骨の髄まで温めてくれる。今日の一日の疲れが、全て吹き飛んでいく気がする。こんなにも心地が良いと、どこか遠くの世界に思いを馳せずにはいられない。

 風呂場の天井にプラネタリウムを創り出そうとしたが、想像力の限界を感じて諦めた。そろそろ上がらないと昨日みたいに、のぼせてのぞみさんにからかわれてしまう危機感が募る。

 少し気持ち早めに、脱衣所に出ると不意にふらっとくる。

 血流が良くなっていることは、真っ赤な足を見たら明らかだった。

 髪を乾かしながら、洗面所の鏡に映ったのは、大きな満足感と少しの疲労感が塗られたガキの顔だった。

 洗面所を出ると、食欲をそそる香りが再び鼻先をくすぐる。

 ダイニングテーブルには、すでに料理が置かれ、乃愛とのぞみさんが座って待っていた。

「ゆっくり浸かれた?」

「はい。すごく気持ちよかったです」

「それならよかった」

 のぞみさんお手製の料理に、視線を落とす。

「美味しそうですね」

 率直な感想を、口にする。

「お兄ちゃん早くたべようよ」

「うん」

 乃愛に急かされ、食卓に座る。

 三人同じように、手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

「いただきまーす」

 喉の渇きを潤すため、真っ先にコップを手に取り、よく冷えた麦茶を流し込む。喉を鳴らす度に、中身が減っていき、そして一気に飲み干した。

「お茶入れてあげるから、コップ貸して」

「ありがとうございます」

 大人になれば、この人のように視野が広くなれるのだろうか。

 あなたが、作った料理で乃愛と俺が笑顔の花を咲かせ、二人の笑顔であなたも笑顔になる。これが、日常の幸せというのだろう。

 小さなテレビから流れるバラエティー番組を眺める。タレントが、話している内容は右から左に流れていくだけだった。

 風呂場の方から、乃愛とのぞみさんの楽しそうな話し声が、壁を越え耳に届く。あの日から、七つの乃愛にも負担をかけてしまっていたから、甘えられる存在が出来たみたいで胸をなでおろす。


 肩を揺らされている感覚で、起こされる。

 目を開くと、俺を覗き込むのぞみさんがいた。

「ちゃんと布団で寝ないと風邪ひくよ」

「すみません」

 いつの間にか寝てしまった俺は体を伸ばし、眠たい目を擦りながら洗面所に向かう。

 睡眠欲に支配されながら、無心で歯を磨く。

 気がついたら、すでに布団にもぐり天井を見つめていた。小さい頃、怖がっていた顔に見える天井の木目を今となっては、何も感じない。

 乃愛とのぞみさんの話し声を聞きながら、意識が途絶えていく。



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