6
長風呂で火照った体を冷ますため、左手にキンキンに冷えたアイスを頬張り、右手に持っているうちわで風を送る。
いつの間にかアイスも食べ切り、無心で流れているテレビを観ていた。
「上がったよ」
バスタオルを頭に巻いたのぞみさんの一言で、こちらの世界に引き戻される。
「はーい」
「良い湯加減で気持ちよかったよ」
「それならよかったです」
「でも、海人君みたいにのぼせてないから安心して」
「のぼせてなんかないですよ」
「ふーん。それならいいんだけどね」
「何ですか、その感じ」
「んー、海人君がかわいいなって思っただけ」
「かわいくなんかないですよ」
「はいはい」
のぞみさんは、満足したのか洗面所に向かった。
この人にからかわれるのも、悪いものではないのかもしれないと思い始めた夏の夜だった。
蒸し暑い熱帯夜は、睡眠を妨害される。それに加え、人間の血を狙う蚊も快適な眠りの邪魔をする。
寝苦しいそんな夜に、俺は考え事をしていた。これからのことを。
いつまでも続いて欲しい三人の生活の行きつく先は、ガキの俺にはまだ分からなかった。
保安灯によって作り出された温かな世界を、少し名残惜しく感じながら目を瞑る。
思考する間もなく、眠りへと落ちる。
携帯のけたたましいアラーム音に、叩き起こされる。
夢を見ていた気がするが、すぐに内容を忘れ去る。その代わりに、バイトがあることを思い出し、憂鬱な気分にとりつかれる。
眠気に格闘しながら、勢いよく起き上がる。
乃愛とのぞみさんを、起こさないように布団を片付ける。
そして、洗面所で冷水を顔に浴びて、半ば強制的に目を覚まさせる。
朝食の準備にいつものように取り掛かるが、時間が流れるのが早く感じた。
もう目は冴えているのに、あくびが出てくる。
「おはよう」
のぞみさんが、もう起きてきた。
「おはようございます」
「今日も早いね。ちゃんと眠れてる?」
「いつもこの時間に起きてるんで大丈夫です」
「そういえば、今日バイトあるんだっけ?」
「はい。夕方までなんですけど、乃愛のことお願いしても良いですか?」
「乃愛ちゃんのことは、しっかり見ているから安心して」
「ありがとうございます」
この人には、人を安心させてくれる不思議な力があると思う。
夕日に照らされて、世界が輝き、労働を終えた俺を、讃えてくれていた。
帰り道の足取りも軽やかだ。
あっという間に、我が家のドアの前まで来ていた。
ドアを開けると、食欲をそそる香ばしい匂いが、充満していた。
匂いに釣られるように、台所の方に吸い寄せられる。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
真新しいエプロンを身に着けたのぞみさんが、美味しそうな料理を作ってくれていた。
「そのエプロンどうしたんですか?」
「お昼ぐらいに綾音さんと心音ちゃんが、遊びにきてくれてこの町案内してくれたんだよね」
のぞみさんは、その場でくるりと回った。
「どう?これ可愛いでしょ」
「すごく似合ってますよ」
「嬉しい、ありがとう」
のぞみさんは、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
そんな顔をされたら、こっちの方も嬉しくなってしまう。俺は、あなたに何の魔法をかけられたのだろうか。
「疲れてると思って、お風呂も沸かしてるから入ってきなよ」
「本当にありがとうございます」
のぞみさんの温かな気遣いに触れ、一瞬涙腺が緩くなってしまう。
「海人君が、一生懸命に頑張っていること私知ってるから、これくらいさせて」
周りの他人の大人たちのおかげで、頑張れていることを当の本人たちは、気づいていないみたいだ。だから、これ以上の幸せを望んではいけない気がして、たまらなく恐ろしい。
でも、それは今ではないと思う。
「お言葉に甘えて一番風呂いただきます」
全身が包まれ、ほぐされていく。癒しの水が、骨の髄まで温めてくれる。今日の一日の疲れが、全て吹き飛んでいく気がする。こんなにも心地が良いと、どこか遠くの世界に思いを馳せずにはいられない。
風呂場の天井にプラネタリウムを創り出そうとしたが、想像力の限界を感じて諦めた。そろそろ上がらないと昨日みたいに、のぼせてのぞみさんにからかわれてしまう危機感が募る。
少し気持ち早めに、脱衣所に出ると不意にふらっとくる。
血流が良くなっていることは、真っ赤な足を見たら明らかだった。
髪を乾かしながら、洗面所の鏡に映ったのは、大きな満足感と少しの疲労感が塗られたガキの顔だった。
洗面所を出ると、食欲をそそる香りが再び鼻先をくすぐる。
ダイニングテーブルには、すでに料理が置かれ、乃愛とのぞみさんが座って待っていた。
「ゆっくり浸かれた?」
「はい。すごく気持ちよかったです」
「それならよかった」
のぞみさんお手製の料理に、視線を落とす。
「美味しそうですね」
率直な感想を、口にする。
「お兄ちゃん早くたべようよ」
「うん」
乃愛に急かされ、食卓に座る。
三人同じように、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
喉の渇きを潤すため、真っ先にコップを手に取り、よく冷えた麦茶を流し込む。喉を鳴らす度に、中身が減っていき、そして一気に飲み干した。
「お茶入れてあげるから、コップ貸して」
「ありがとうございます」
大人になれば、この人のように視野が広くなれるのだろうか。
あなたが、作った料理で乃愛と俺が笑顔の花を咲かせ、二人の笑顔であなたも笑顔になる。これが、日常の幸せというのだろう。
小さなテレビから流れるバラエティー番組を眺める。タレントが、話している内容は右から左に流れていくだけだった。
風呂場の方から、乃愛とのぞみさんの楽しそうな話し声が、壁を越え耳に届く。あの日から、七つの乃愛にも負担をかけてしまっていたから、甘えられる存在が出来たみたいで胸をなでおろす。
肩を揺らされている感覚で、起こされる。
目を開くと、俺を覗き込むのぞみさんがいた。
「ちゃんと布団で寝ないと風邪ひくよ」
「すみません」
いつの間にか寝てしまった俺は体を伸ばし、眠たい目を擦りながら洗面所に向かう。
睡眠欲に支配されながら、無心で歯を磨く。
気がついたら、すでに布団にもぐり天井を見つめていた。小さい頃、怖がっていた顔に見える天井の木目を今となっては、何も感じない。
乃愛とのぞみさんの話し声を聞きながら、意識が途絶えていく。