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「お兄ちゃん、あそぼ」
シンクに落ちる水音に、乃愛のせがむ声が重なる。
「そこのお姉さん、どうせ暇だから遊んでもらってて」
「どうせは余計でしょ」
「はいはい」
彼女は、乃愛の方へ向かう。
そして、俺は二人分の布団を畳む。
「そろそろ帰らないんですか?」
「記憶喪失のか弱い女の子を、君は追い出すの?」
この人、居座るつもりか。
「もう一人養えるほどの余裕は、うちにはありません」
「お金は当面これでいけると思うよ」
彼女は、彼女のカバンから札束が入った封筒を出した。
「何のお金ですか?それ」
「私のカバンに入っていたから、私のモノかな」
急に怪しい香りがしてきた。
「危ないお金ではないですよね?」
「多分」
「一一〇番していいですか?」
「ダメダメ」
「迷惑かけないから、ここに居させて」
乃愛も懐いているし、この人が悪い人だとはどうしても思えない。
「分かりました」
「え?」
「ちゃんとお金は入れてくださいよ」
「私、ここに居ても良いの?」
「はい」
彼女の少し潤んだ瞳が、輝いていた。
「ちょっと買い物に行ってきます」
「私も一緒に行ってもいい?」
遊び疲れて眠っている乃愛の頭を撫でながら、彼女はそう言った。
昨日の雨が上がって、晴れやかな太陽が顔を覗かせていた。
「何か買いたいものありますか?」
「日用品は欲しいかな、あとは・・・下着とかかな」
急な不意打ちに、必死に動揺を隠そうとする。
「顔赤くなっているよ」
「なっていません」
「汗かいてるよ」
「夏の暑さのせいです」
磯の香りを乗せた風は、火照った体を冷ましてくれる。
「お昼ごはんは、私が作るよ」
「良いんですか?」
「いつまでもお客さんなのは、申し訳ないからね」
「何作ってくれるんですか?」
「それは作ってからのお楽しみ」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
空腹に身を任せ、料理を口へと運ぶ。何とも豊かな満足感が、口の中一杯に広がる。
「うまっ」
反射的に言葉が出る。
「普通に俺なんかより美味しいですよ」
「そう言ってもらえて、嬉しいな」
「乃愛ちゃん、美味しい?」
「うんっ、お兄ちゃんの次においしいよ」
「流石にお兄ちゃんの手料理には、勝てないか」
乃愛の返答に、彼女の口元が緩む。
「夜ごはんも私が作っていい?」
「良いんですか?」
「良いよ」
「ありがとうございます」
夜の食卓が、待ち遠しい。
「ごちそうさまでした」
気がつけば、皿が空になっていた。
「はやいね、それで足りた?」
「はい、めっちゃ美味しかったです」
「君にそう言ってもらえると、私も作ったかいがあったよ」
あなたの屈託のない笑顔を、脳裏に焼きつけたいと本気で思う。
洗剤がつかないように、腕をまくる。
手の甲に少し強く落ちる水が、俺の方へ跳ね返る。
「お兄ちゃん、おそとに遊びに行きたい」
「これ洗い終わったらいいよ」
「やったー、お姉ちゃんも一緒に公園にいこうよ」
「うん、みんなで一緒にね」
蛇口を回し、水を止める。
「乃愛、ちゃんと帽子はかぶっていけよ」
「わかってる」
タオルで、手の水滴をふき取る。
乃愛の水筒に、冷えた麦茶を注ぐ。