10
のぞみさんは、水を得た魚のように自由に泳いでいた。
どのくらい泳ぎ続けただろう。空は、夕焼けの色に染まっていた。
ごつごつした岩が露出した砂浜の端まで来ていた。
「海人君、こっち」
水面から顔を上げ、声のする方に視線を動かす。
のぞみさんは、大きな岩の上に腰掛けていた。その姿は、乃愛が読んでいた絵本に出てくる美しい人魚そのものだった。
しばらく目の前にいる現世の人魚に見惚れていた。
「来ないの?」
そう言ってのぞみさんが、立ち上がろうとしたその時だった。
「きゃっっ」
濡れた岩の表面に滑り、のぞみさんが海に落ちてしまった。叫ぶ前に体が動いていた。
「大丈夫ですか!!!」
「いったぁぁ」
のぞみさんが手で押さえている足に目を向ける。赤き液体が海に滲んでいた。
「血が出てるじゃないですか。とりあえず、上がりましょう」
「うん」
のぞみさんの手をしっかり握り、陸へと向かう。
水の中から出ると、地上の重力を思いのほか感じる。のぞみさんに背を向けて、膝をつく。
「え?」
「乗ってください」
「うん」
少しの重みを感じた後、しっかり支えて立ち上がる。
「重くない?大丈夫?」
「俺のじゃなくて今は自分の心配してください」
「うん。海人君優しいね」
背中の重みと温かさが、増した気がした。砂浜を一歩進むたび、足が沈み込む。少しばかり遠くまで泳いだことを後悔する。
「海人君の背中あったかい」
いつもより口数が少ないのぞみさんが呟いた。俺の代わりに、波の音が返事をしてくれた。
昼間は混んでいた砂浜も、夕方である今は閑散としていた。熱くて重く、それでいて静かなこの時間が少しだけ好きになれた。
「どこまで行ってたの?」
少し口調が強くなった綾音さんが、仁王立ちで待っていた。
「端まで泳いでいました。すみません」
「私が何も考えずに泳いだせいです」
綾音さんの視線が、少し上に移動する。
「何でのぞみは、海人におんぶされているの??」
「ちょっとすりむいちゃって」
「大丈夫?ちょっと傷見せて」
「はい」
「切れちゃってるね、一応絆創膏持ってきているからとりあえず洗い場で足洗おうか」
「ありがとうございます」
「海人、私はのぞみ連れていくからこの子たちお願いしていい?」
「はい、お願いします」
綾音さんとのぞみさんを見送り、仲良く眠っている乃愛と心音ちゃんを見守る。
車内の揺れが、眠気を促進させる。
眠りに落ちていく狭間で、綾音さんとのぞみさんの会話が聞こえてきた。
「足大丈夫?」
「はい、もうあんまり痛くないです」
「それならよかった」
のぞみさんのその言葉を聞けて、安心した。
「海人が、運んでくれたの?」
「海の中で手を引っ張ってくれて、上がってからおんぶしてもらいました」
「のぞみ、嬉しそうだね」
「分かります?海人君の背中思ったよりも逞しくて温かったんですよ」
「うんうん」
「これは、海人君には絶対言わないで欲しいんですけど・・・・」
続きを聞きたい願望は、眠りの世界からの招待によって消えた。