交渉
「僕を殺してくれ」
一瞬、何を言われたのか解らず、時が止まったように動けなくなった。
「知り合った者、愛した者…みんな僕を置いて逝ってしまう。これ以上、寂しや絶望を知る事に耐えられない。もう、生きることに疲れた…自害しようともしたが丈夫な体ゆえ、死ぬことはおろか、致命傷を負わせることも出来ない…仮に出来たとしても、直ぐに再生してしまう」
…本で見た事がある。吸血鬼は何百年、何千年生きる不老不死の種族だと。
「死ぬ事を考えていても、本能はそうさせてくれない。こうして満月の夜になれば、血が騒ぎ人を襲ってしまうんだ」
悲痛な思いを吐きながら頭を抱えて蹲る男を見て、アリアネは哀れに思えてきた。
死というものが怖くて、不老不死になりたいと望む者は多い。だが、当人じゃないと分からない苦労もある。少なくとも、目の前の人は死にたくても死ねなくて苦しんでいる。
(力になってあげたいところですけど…)
自分で無理ならば他人に…そんな思いで私の所へ来たのだろうが、こちらは非力な乙女。多少の魔力保持者でも、真の魔族相手では赤子同然。
しかし、このまま何もせず黙って見過ごすのも気が引ける。
──ではどうする?
幸いな事に、ここは教会。吸血鬼の弱点となり得るものが無いとも言いきれない。
「…貴方、名前は?」
「ガゼル」
「そう…私の名はアリアネ。今から貴方を殺す女の名ですわ」
「え?」とアリアネの顔を見上げた瞬間、冷たい液体と共に焼けるような痛みが全身を襲った。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
断末魔の様な叫び声が響き渡り、ガゼルの皮膚は爛れて脂肪や筋肉が露になっている。
見るに堪えない姿だが、アリアネは目を逸らさずしっかりと見据えている。その手には『聖水』と書かれた瓶が握られていた。
──10分後…
「はぁ…はぁ…し、死ぬかと思った」
ようやく落ち着いたガゼルが呟いた。
聖水を浴びて爛れた皮膚は再生され、ほぼ元の状態に戻っている。流石というか厄介だと言うべきか…まあ、この程度で死ぬ事が出来たなら苦労はしていないだろう。
「あら、おかしいですわね。死を望んでいるのではなくて?この期に及んで命乞いでしょうか?」
「いや、それは違……──って言うか君さぁ!普通、ちょっとは躊躇するもんじゃないのか!?」
願いを叶えてやろうとしたのに、怒鳴られるとは心外だ。
「殺してくれと頼んだり躊躇しろと言ったり、何なんですの?」
目を細め、険しい顔で詰め寄ると、ガゼルは格好がつかなくなったのか、目を逸らして合わせようとしない。
「これで分かりましたわね。私が出来るのはこの程度。到底、貴方を殺す事は出来ませんわ。諦めてお帰りくださいませ」
窓の外を指さしながら伝えるが「…駄目だ」と比定的な答えが返ってきた。
「そんな物理的な攻撃では駄目だ」
「逆に物理的じゃない攻撃の仕方を教えて頂きたいのですが?」
ド正論で返されたガゼルは、一瞬言葉を失い目を泳がせたが、直ぐに開き直り話題を逸らし始めた。
「──とにかく!君のその清々しい程の無鉄砲さと度胸。それに魔力があれば出来ないことなんてない」
力強く語ってくれるが…何故でしょう…褒められてる気が全くしません。
「出来れば他を当たって欲しいのですが…」
「タダでとは言わない。殺して欲しい奴や呪って欲しい奴はいるか?」
「物騒な事を言うようでしたら、お帰りくださいまし」
睨みつけながら言えば、慌てたように「冗談冗談!」だと手を振っていた。
「それ以外だと…そうだな。君は墓守りなんだろ?なら、僕がその役目を負担してあげよう」
「え?」
「こんな薄気味悪い所に女の子一人じゃ不安だろう?護衛も兼ねて…ね」
不安じゃないと言えば嘘になるが、つい数分前に襲いかってきた相手に言われても説得力がまるでない。
(この方は馬鹿なのかしら?)
年齢からすれば、相当お年を召しているはず…となれば、そろそろ記憶力に低下が…
アリアネは口元を手で覆い、憐れむような視線を送った。
「え、ちょっと待って。何その表情。僕はまだボケていないぞ!」
「冗談です」
ガゼルの慌てふためいているのがおかしくて、不覚にもクスクス笑ってしまった。
「…何です?」
笑う姿をじっと見つめられ、ムッとした顔で問いかけた。
「あ、いや、すまない。あまりにも可愛らしく笑うので…」
「ンなっ!?」
「まあ、こんな場所にいれば笑う事も忘れてしまいそうになるな…」
顔を真っ赤に染めているアリアネの傍によると、ポンッと優しく頭の上に手を置いた。
「よく一人で頑張ったな。偉い偉い」
ニカッと笑いながら、小さな子供を褒めるように頭を撫でてくる。
(な、何ですの…)
今までヘレン以外の者に褒められたことも認められた事もないアリアネは、戸惑いが隠せない。
胸が熱くて苦しくて、ギュッと胸を掴む。
「じゃあ、交渉成立って事で」
「え!?」
「これからヨロシク」
否定する間もなく、颯爽とその場を後にして行った。残されたアリアネは茫然としたまま、ガゼルが出て行った方を見つめていた。