国を追われた聖女は、本当にただの人でした
3年ぶりに面会した彼女は、お社の境内に座っていた。一面には青々とした芝が植えられ、動物がそれらを食んでいる。中でも、一頭の馬のような生き物が、彼女の膝に顎を乗せて甘えている姿には、さすがの王子も驚かざるを得なかった。
ユニコーン。
緑豊かな森や野原の中に住み、乙女の前にしか姿を現さないその生物は、伝説上の存在ではない。
かつては、祖国でも見られたのだ。しかし、既に絶滅したであろうと、学者たちは推測している。
その生き物が目の前にいること、再現された自然の中でもリラックスしていること。それらに、衝撃を受ける。
ふと、ユニコーンが顔を上げ、いななきと共に少女の前に立ち塞がった。まるで、乙女を守る騎士である。彼女は立ち上がり、ユニコーンの鼻面を軽く撫でる。じっとこちらを睨んだユニコーンは、渋々といった様子で引き下がった。
「お久しぶりですね、殿下」
「……ああ」
かすれた声で、答える。それが精一杯だった。
近寄る彼に構わず、少女がすん、と鼻を鳴らす。空を仰ぐようにして、吸い込んだ空気を味わうように口を動かす。
「鉄と、石炭。油のにおい」
ハッとして、自分の服に視線を落とす。汚れ一つない、きれいな礼服。
彼女は何を感じたというのだろう。
「祖国は変わらず、繁栄しているようですね、殿下」
「ああ……だがいや、すべてが上手くいっているわけではない」
「どの時代の為政者も、同じことを言うでしょう」
「だが、原因はハッキリしている……貴女を国から追い出すような真似をした男が、言えたものではないが、力を貸してくれまいか」
頭を下げる。少女は身じろぎさえしていないのが気配でわかる。
やがて、長いスカートをゆったりと払ってから、言った。
「お話だけなら、伺います」
「……礼を言う」
境内の動物たちから、警戒を通り越した、殺意のようなものさえ感じた。王子は首を縮めながら、彼女の後をついていった。
3年前のことである。国は現行の神殿の在り方を新しく定義し直した。
国の認定する聖女という位の廃止、鉄と石炭に代表される重工業の奨励。富国強兵。
これには最初、王家は消極的であった。自発的な産業の発展に関しては、国を動かす必要はない。神殿と王家の権威を侵害しない程度になら、許可したであろう。
しかし、状況は不利に働いた。
今の王家はかつてほど力も求心力もない。王家とはお飾りの権威であり、変えようと思えばいくらでもすげ替えられるメッキの王冠のようなものだった。
現国王はギリギリまで財界人を押し留めていたが、彼らの脅迫的な言動には耐えられず、さらには買収された神殿側が商会や財界を支持したことで、敗北は決定的になった。
許可が下りれば、王家と神殿という免罪符を盾に、産業は一気に進んだ。金に物を言わせた掘削や採掘によって、化石資源が根こそぎ奪われる。
強力な経済革命は国民の収入の平均を大きく押し上げたが、汚職の頻発と自然災害、環境問題の浮上、神殿と王家に対する不満で、国は暴動に発展するまで秒読みという段階だった。
初めこそ豊かな生活に喜んでいた市民も、逆恨みのように許可を出した神殿や王家を恨む始末。
公害は国境を超え、同盟国が縁を切り、仮想敵国と同盟を組むという最悪な状況である。
資源の枯渇が叫ばれ、侵略して領土を広げるべき、という煽動家まで現れたせいで、周辺国は軒並み敵国に変わり、包囲網ができつつある。
ーー聖女を呼び戻せ、というのが、突き上げられた要求だった。
「結論から言えば、お断りします。私が祖国に戻ったところで、できることは何もありません」
テーブルを挟み、二人は向かい合う。少女の言葉は冷静だった。
「もともと聖女というのも、民衆から選ばれた巫女という公平さを演出して作られたもの。民衆が信じるような、超常的な力や回復魔法など持ち合わせていません」
「だが、民衆は信じない」
「信じないとしても、信じさせるしかありません。貴方がたは富と武器を優先して、自然を破壊した。その結果が今の状況を招いたのだと」
「では、この国で、あなたはどんな役割を果たしているのだ?聖女として尊敬されているだろう」
「この国での聖女とは、覚悟を持ったものに与えられる資格です。特権といえばせいぜい、専門家の一人として政策に口を出せるくらい。誰も、魔法の力で国を守るのが聖女なのだ、などというプロパガンダを信じてはいません」
「行き過ぎた産業への傾倒、とあなたは言うが、いつまでも発展しない国など、破滅の道を歩む他ない」
「ですがそれが急進的で、そちらの国は破綻しかけている」
「だからこそ、聖女という役割をーー」
「殿下」
少女は、かつて祖国で聖女と呼ばれた巫女は言う。
「私は神殿も民も、王家も、それぞれの立場の専門家であると捉えています。そして、国を発展させるうえでは、時としてないがしろにされる自然に対して、どこまで配慮するか。その舵取りこそが、神殿に求められる本来の役割だと思うのです」
かつて王は神殿の長であった。司祭としての王は、民の安寧を願い、自然の恵みに感謝した。
その構造が変わったのは、社会の変化にほかならない。
「こちらの国でも、貴方の国ほどではありませんが、重工業への転換は行われています。ですが、神殿が民の陳情をすくい上げ、自然と共生する在り方を探っています」
「我々は、石器時代には戻れない」
「初めから不可能な話です。どうしても、人間が暮らす以上は自然を開拓しなければならない。どこまで人間側に、あるいは自然側に譲歩できるか。それが問題なのです。
いずれこの国から少しずつ生き物たちが減っていったとしたら、それは、人間側の都合を押し付けすぎた、という何よりの証拠でしょう」
「お説教はわかった。だが、私の国はどうすればよいのだ!?」
「魔法などという幻想を捨てること。一朝一夕では、失ったものは元には戻らないこと。この考えを浸透させるほかないと、私は思っています」
王子は立ち上がった。ウイスキーのようにお茶を一気に飲み干して袖で拭う。
「時間の無駄だった」
「残念です」
王子は出ていった。なんの力も持たぬ聖女は、再び境内に戻ってきた。落ち着かなかった動物たちが全身で喜びを表して跳ねる。ユニコーンが、そっと少女に寄り添う。
不意に彼女は頬を押さえた。来たるべき破滅の予感に、涙が伝っていた。
その涙を、ユニコーンが舌を伸ばし、必死で舐め取った。そっと背中に顔を押し付けて、彼女は祖国の破滅に声を殺して泣いた。