秘密の名前
ちょっとばかしえっちぃです。
苦手な方は飛ばしてください。
水面に色取りゞゝの光が浮かんでは消えていく。
ボートレースは既に終了しているらしく、レース場には小さく警備のための明りが付いているだけだった。ライトアップされた観覧車とカジノセンターを、遥かに見下ろすホテルの高層階に、王は部屋を取っていた。ベッドルームが三つもあるプレジデンシャルスウィートである。一人で泊るのに何故こんな部屋を選ぶのか、そこの所は判らない。
カジノセンターを囲むようにして林立する高級ホテルの一つであるそこは、巽が泊っているホテルの向かいにあった。巽は窓にべったりと張り付いて、自分が今晩泊る筈だったホテルの方を眺めていた。
「あーあぁ…なーんで負けちゃったんだろう?」
嘆く巽に、ジェームズはくすりと笑う。
「潔くないな。それじゃ幸運の女神が微笑まないんじゃなかった?」
「悪かったねぇ。こんな経験初めてなもんで」
そう言って恨めしそうな目で首だけ振り返る巽を、王はいきなり抱きすくめた。
「ちょっ、ちょっと!」
突然の事に声を荒げた巽の唇を強引に塞ぐ。
キスはその激しさとは裏腹に、甘く優しい香りがした。「なにするんだよ?!」
腕を突っ張ってなんとか王を引き剥がし、巽は怒った様に睨み付けた。
「何って、キスじゃないか」
「いきなり過ぎるだろ! 俺は恋人になれって言われただけで、好きにさせろとは言われてない筈だ」
「君……ここまで来てそれはないだろう?」
王は困ったように肩をすくめてみせる。その瞳が、哀しそうに巽を見つめていた。
「だから……その、恋人ってことは、ほら、もうちょっと、こう、順序とか、あるじゃない?」
何を焦っているのかしどろもどろになる巽を、王はじっと見つめている。何かを考えているのか、はたまた呆れているだけなのか、その表情から窺い知ることは出来ない。
「潔くないって言いたいんだろうけど、俺だって……」
男と抱きあうのなんて、初めてだし――
戸惑い、うつむく巽に、彼は優しく声をかける。
「じゃぁ、キスはどう? 嫌だった?」
今度はそっと腕を廻しながら、聞いてみる。王より頭一つ分低い巽は、彼の腕の中で困ったように見上げていた。
澄んだ黒い瞳が不安そうに揺れている。
「嫌って……ほどじゃない、けど」
巽の言葉に、王はそっと安堵のため息を漏らした。
「じゃあ、こうしよう。もし、君が私のキスだけでその気にならなかったら、今日の所は勘弁してあげよう。どう?」
「…………その気?」
「うん」
「つまり、欲情しなかったらってこと?」
「まあ、はっきり言えばね」
「わかった、いいよ」
意外なくらいあっさりと巽は顔を上げた。薔薇の花びらのような色をしたその唇に、王はそっと自分の唇を重ねる。
「ん……っ」
歯列を割って入って来る彼の舌を受け入れながら、巽はその甘い香りが桜のものだと思い当たった。
滑らかな動きで巽を捉え、絡め取る。思う様口腔を貪られて、鼓動が早くなるのを抑えられなくなっていく。
「んっ、んっ……っ」
くぐもった声が漏れる度に、身体の何処かに痺れが走った。
やがてその痺れが甘く蕩けるような感覚へと代わった頃、王は漸く唇を離し、今度は瞼やこめかみに、啄むようなキスを浴びせた。
「ん……」
うっとりとされるがままになっている巽は、自分が既に半裸の状態である事に、肩にキスされるまで全く気付かなかった。胸の突起に鈍い痛みを感じて、漸く我に返る始末である。
「あっ、ちょっと。反則だぞ!」
乳首を弄んでいた指を掴んで巽が抗議する。
「キスだけって言ったじゃないか!」
「その気にならなかったら、だろ?」
王はにやりと笑った。
「その気って……」
戸惑う巽の手を取り、王はその手を巽のそこに当てがった。
「あっ……」
「もうすっかりその気になってるみたいだけど?」
くっきりと意思を硬くしている自身を指先に感じながら、巽は愕然とした。だが同時に、身体の奥から急激に沸き上がってくる、抗い難い感覚があった。
欲情している。
認める程にそれは巽の心を浸食していく様だった。
「わかった、認めるよ。あんたの好きにしなよ、ジェームズ」
彼の腕に身を委ねながら、巽は言った。王が嬉しそうに微笑んだ事には、気付かなかった。
きつく抱き締めたまま、王は暫く動かなかった。
それからもう一度深く口づけを交して、ベッドへと場所を移す。
それは巽にとって初めてのことだったが、不思議と嫌ではなかった。
もっと強引な自信家かと思いきや、王は思いの外に優しく、「大丈夫か」「嫌ではないか」と気遣う彼を、巽は可愛らしいとさえ思った。
「あんたの好きにしなよ、ジェームズ」
彼の腕に身を委ねながら、巽は言った。王が嬉しそうに微笑んだ事には気付かなかった。王の肌は滑らかで心地よく、ほんのりと花の香りがした。
「タツミ……」
囁く声は甘く掠れ、青い瞳は熱を帯びて不安げに揺れる。
「幸星、だよ。ジェームズ。――巽はファミリーネームなんだ。俺の名前は幸星」
「幸星……」
「そう。発音上手じゃないか」
意外に流暢なイントネーションに感心する。王はくすりと笑って、答えた。
「私の母は華僑でね。実は昔、暫く日本にいた事があるんだよ」
「あれ、そうなの?」
「うん。横浜の辺りに住んでいたんだ」
「へぇー、意外。見た目はすっかり白人なのに」
プラチナブロンドの髪と、ブルーアイ。抜けるような白い肌は、しかし東洋の血故かきめが細かい。深すぎず浅すぎず、理想的な曲線を描く鼻梁。やや薄い唇はほんのりと色づき、妖艶さを醸し出す。
「君は……幸星は日本人なんだろう?」
「うん。先祖代々こんな顔」
可憐な少女のような、大きな黒い瞳をくりっとさせて、巽は人懐こく笑った。
王もつられて微笑みを返す。
「幸星……」
吸い寄せられるように、唇を重ねる。
「ジェームズ……」
求めるように、彼の首に腕を廻す。だが、王は一旦キスを止め、じっと巽を見つめ返していた。
そして徐に、「インユー」と、呟く。
「え?」
「漢字で銀の月と書いて、インユーと読む。私の名前だ」
「銀月……?」
「そうだ」
どこか思い詰めたようにじっと巽を見つめている彼の眼差しに、巽はそれが特別な名なのだと悟った。
「今はロンドンに本籍があるから、戸籍上の名ではないが、母から貰った名前でね。両親以外では呼ばない。――だが、幸星にはそう呼んで欲しい………」
「銀月……銀の月、か」
見上げる先に夕闇色の瞳を認めて、巽は微笑んだ。
「銀の月と幸運の星か。お似合いじゃないか」
「そう思うかい?」
「名前だけはね」
そう言って巽は悪戯っぽく微笑ってみせる。
「呼んで欲しかったんだ……」
王がぽつりと呟く。一瞬だけ見せる、淋しげな瞳。
家族しか知らない、秘密の名前――
「銀月……」
そっとキスをして、囁く。青い瞳が心持ち大きく見開いて、すぐに微笑みの形に細められた。
「幸星……」
ぎゅっと抱きしめると、彼の熱さが肌に触れた。