拉致・監禁・救出
……幸星。
頭の中で声がする。いや、遠くで、か。それともすごく近いのか。
「……幸星、幸ちゃん」
体を揺すられて、巽は漸く目を覚ました。
「んん、とーさま……?」
「幸ちゃん、起きた?」
背後から声をかけられ、振り向こうとして動けない事に気付いた。見れば誰かと背中合わせにして、手足を縄で縛られている。
背後にいるのは、声からして父親だろう。同じく囚われの身に違いない。
「あれ、俺、どうしたのかな?」
ぐるりと首を巡らせると、見覚えのある部屋だった。黒い壁は焼け焦げ、高層階にも拘わらず、窓も壁もない拭き晒しの部屋。先日の火災現場ではないか。そこかしこに立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされている。巽親子がいるのは、かつて寝室だった場所だ。
部屋の向こう、ドアがあった辺りに、知った顔がいた。
髭面は情けない声でこう言った。
「すみません、巽。貴方達の命を守るためには、仕方なかったのです。許してください」
「総支配人、どういう事なんですか?」
「あの人達は賞金が欲しいだけなんです。それと、指輪を」
総支配人はおろおろしながらそれだけ言い、逃げるように何処かへ行ってしまった。
「なんだか良く判らないねぇ?」
巽の父はのんびりと感想を口にした。
「見張りはいるのかな?」
「さっき、二人見たよ。出入り口の方にいるんじゃない?」
張り巡らされたテープが死角になっていて、その姿は確認出来なかった。
「窓から出れるかなぁ?」
息子の問いに、父は首を伸ばして窓の方を見た。壁も窓も壊され、ベランダもない。地上三十階の絶壁では、逃げられよう筈もないだろう。
「うーん、飛び降りてみる?」
本気か? 親父。
その時、ひらりと何かが上から降ってきた。
何か、白っぽい塊に見えたそれは、音もなく滑るように、部屋の中へと入り込み、人の形をとった。
絹糸のような艶やかな髪。白地に白い糸で龍の刺繍が施された裾の長い中国服を身に着けた、青い目の美貌の青年。
「ジェミーちゃん!」
やっぱり、ちゃん付けはやめて欲しかった。
「シーッ」
王は苦笑いを浮かべ、指を唇に当てて静かにするよう二人に促した。
「二人とも、怪我は?」
「ううん、平気」
小刀で縄を切って、二人を解放し、窓の傍まで招く。遥か下の方に、人や車が小さく動いているのが見えた。
「降りるの?」
「いや、昇るんだ」
そう言うと、王は巽親子を両脇に抱え上げ、ふっと外へ飛び出した。
何処にも支えが見当たらないのに、三人は空中に浮いていた。
まるで見えない風船の中にでもいるみたいに、ふわり、ふわり、と空へ昇っていく。
黄色いテープの波の向こうで、誰かが何か叫んだのが小さく聞こえた。
あっという間に屋上に着いた。途端に、重力を感じて巽はよろめいた。
「銀月、あんた、一体……?」
聞きたい事は山ほどあるのだ。
「“月”だね。ジェームズ」
巽の父は訳知り顔でそう言った。王はふっと微笑してみせる。
「ええ、貴方がたを守る為に来ました」
「ムーンて、何?」
一人置いてけぼりをくった巽は、不満そうな顔をしている。
「後で説明する。少し離れていて」
目線は既に、屋上に続く階段のドアに固定されている。危険を察知したのか、父は子を庇うようにして、排気ダクトの裏に隠れた。
すぐに荒っぽくドアが開かれ、数人の男達が走り出て来た。原色に近い、派手なスーツやシャツを着て、サングラスで顔を隠した、いかにも、な連中だ。
「やぁ、いらっしゃい」
王はにこやかに両手を広げてみせた。
「なんだ、お前は?」
「こいつ、人質を何処にやった?!」
すぐに銃を構える所は、多少訓練された者の動きだ。だが、そこに既に標的はいなかった。
「上だ!」
言われて振り仰いだ男の顔面に蹴りを入れ、一斉に上に向けられた銃を一旋で蹴り落とし、ムーン・ソルトでぴたりと着地する。
「このやろう!」
手首や顔面を押さえていた男達が、次の瞬間一斉に襲いかかった。
攻撃を紙一重で除けながら、弧を描くようにして手刀を繰り出す。
まるで優雅にダンスを踊っているかのように。流れる水の如く、時に滑らかに、時に力強く。
ものの数秒で男達はその場に倒れてしまった。
王は、素早く階段に続くドアを開けて、巽達を手招いた。
「幸星。早く会場に行って、いつも通りディールするんだ。お父様は支配人を捕まえて下さい。彼は何かを知っているようですから」
「判った。君は?」
「彼等を連れて警察に。さ、早く」
促されるままに、二人は階段を降り、会場へと向かった。
「さて、と」
二人が無事にエレベーターに乗り込んだのを、透視届けてから、王は警察へ連絡する為、携帯を取り出した。