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空華 ─くうげ─  作者: 麻倉聖
7/11

 波留子さんが公隆さんお一人にご事業を押し付けられ、ご自分はあちこちへお出かけになっていらっしゃる間に、葉山や箱根にお作りになったホテルの経営と、ゴルフ場建設に伴うご融資の問題などで、門倉財閥はとうとう行き詰まってしまわれたようです。

 しかしそれも当然のことといえるのです。伯爵家のご子息としてお生まれになった公隆さんには、様々な商業施設の経営など初めから不向きだということは、波留子さんご自身がいちばんよくお分かりだったはずです。

 それでも波留子さんは、伯爵家の財産をすべて使い果たしてしまうおつもりかと思われるほど、新しいご事業に着手され、それを公隆さんに押し付け、ということを繰り返されていたそうです。



 乙橘先生がお描きになった公隆さんの絵は、ずっと軽井沢のホテルのロビーに飾られておりました。

 当日あれほどお怒りになられた波留子さんでしたが、その絵をお買いになりたいとおっしゃる方が幾人もおられることがわかると、頑なに売却を拒まれたということです。

 それというのも、その絵のお陰で門倉財閥は世間から注目を浴び、一目ご覧になりたいというお客様でホテルは夏でも冬でも超満員。海外からも美術商の方が多く訪れるなど、たいへんな盛況ぶりだったそうです。

 数箇所の避暑地に設置されたテニスコートやゴルフ場も、会員登録の順番が回ってくるまでに数ヶ月もかかるなど、門倉財閥は財界のトップに躍り出た、という新聞での報道もございました。


 ですが、それもいっときのことでした。波留子さんのお人柄を嫌われ、次第に疎遠になってゆく方たちが目立ちはじめたのです。

 佐倉伯爵を騙し、最愛のご子息である公隆さんをはじめ、伯爵家からすべてを奪い取った悪女であると、さる舞踏会の会場で酔った方々が話しておられました。

 そんな噂があちこちで囁かれるようになった頃、波留子さんは軽井沢のホテルでの舞踏会を催したいと提案されたのです。


 おそらくご当主としての危機感から、政界・財界の方々と、それまで同様のお付き合いをお続けになりたいというお考えだったのでしょう。




 当日は、本当に大勢の方がお集まりになり、かつての活気が戻ってきたようでした。

 五百人ほどいらした招待客に大層豪華なお料理が振る舞われ、舞踏会の会場となった大広間には亡くなられた乙橘先生の作品をはじめ、国内外の著名な芸術家の作品が多数展示されておりました。

 この日のために波留子さんがお買い付けになられたそうで、まるで美術館にいるように膨大な作品数でしたが、それらは互いを活かしあうことができずに、逆に沈んで見えました。


 それでも美しい旋律を奏でる少人数の楽団の方が円舞曲などを演奏してくださり、衣装を新調してもらった私と唯も、久しぶりにダンスを楽しんだり、思いがけずに再会できた女学校時代の旧友とお喋りをしたりと、楽しい時間を過ごさせていただきました。


 公隆さんはお一人で会場を回り、みなさんにお酒をすすめたりご挨拶をなさったりと、お忙しそうでした。

 このような場では、ご夫婦がお揃いで会場を回られるのが当然と思っておりましたのに、波留子さんはグラスを片手に男性の方ともつれるようによろけたかと思うと、大きな声で笑っていらっしゃいます。

 私は少し気分が悪くなり、テラスの空気に触れたいと思い、唯をさがしました。


 唯は畑中物産の美沙子様と踊っておりました。ピンク色のレースが美しいドレスをお召しになった彼女は、唯をお気に入りのようでした。踊りながら私に気付いた唯が目配せをし、そのあたりで待っているようにと合図を送ってきました。私は頷き、ジュースの入ったグラスを受け取ってダンスの輪から外れました。



 そこに、ちょうど公隆さんがいらしたのです。


「ご無沙汰しております。今日はおいでくださってありがとうございました」


 公隆さんは落ち着いた声でおっしゃいました。お会いしたのは数ヶ月ぶりです。


 このホテルの、この大広間での出来事のあと、その時おっしゃっていたように公隆さんが唯のために我が家へいらっしゃることはなくなりました。

 はじめのうちはふさぎ込んでいることの多かった唯ですが、少しずつ元気を取り戻し、以前と変わらない明るい弟へと戻ってくれました。


 今日このホテルを訪れた時、ロビーであの絵に何年かぶりに対面し、一瞬心臓が凍る思いをいたしましたが、唯は乙橘先生を懐かしむように、あるいは公隆さんを想うように、穏やかな表情をして長い時間その絵を眺めておりました。


 乙橘先生のアトリエへ呼ばれたとき二人に何が起こったのか、どんな出来事があったのか、私は唯に尋ねることができませんでした。

 先生が亡くなったときに見せた、知らない間に大人になってしまったような唯が、遠い存在になるのではないかと、恐ろしかったのです。


「お久しぶりでございます。公隆さん、その節は色々とお世話になりましてありがとうございました。少しお痩せになられたのではありませんか。ご自愛くださいませね」


 「その節」とはいつのことを指しているのか、私は自分の口から出た言葉に心のこもっていない、いい加減な科白のような空々しさを感じ、それまで公隆さんとご一緒した場面を少しずつ頭によみがえらせました。


 初めてお会いした祖父の葬儀。ピアノをご披露くださったガーデンパーティー。我が家へ毎週いらしてくださっていた頃。波留子さんとのご結婚。このホテルでのパーティー。


 どんな場面を思い出してみましても、公隆さんは常にご誠実で、お優しく、そしてお美しい方でした。

 とりわけ、我が家のピアノの前に唯と並んでお座りになり、楽譜を覗いたり鍵盤を見つめたり微笑み合ったり、と仲むつまじい兄と弟のような……いいえ、恋人同士のような、寄せ合った二人の背中が忘れられません。

 そんな方が何故このような場で、まるで使用人のようなことまでさせられなければならないのか。


 私は人の運命のわからなさをしみじみと感じながら、唯がお慕いつづけているこの美しい方のお顔を見つめました。


「今日は、唯くんはいらしてますか」

「はい。今あちらで畑中様のお嬢様とダンスを」

「そうですか。お元気そうでよかった」


 唯のいる方にお顔を向け、少し眩しそうに目を細めて公隆さんは嬉しそうに仰いました。唯の健康と成長を喜んでくださっている、と唯に対する公隆さんのお心が変わっていないと思えることは、私にとりまして何よりも嬉しいことでした。


 曲が終わり、ドレスの裾をつまんで可愛らしい仕草をされ、美沙子様は次のパートナーの方へと移ってゆかれました。唯は「やっと解放された」と、ほっとした表情でこちらへ歩いてまいります。私の隣に公隆さんがいらっしゃるのに気付くと、一瞬頬を強張らせたようでしたが、すぐににっこりと愛らしく微笑み、グラスを受け取って軽やかに近付いてきます。


 もう大人といえる十五歳の弟を「愛らしい」などと思ってしまう、私は唯が可愛くて仕方がないのだと、改めて実感いたしました。



「公隆さん、ご無沙汰しています」

「唯くん、立派になった」


 二人の間に流れる空気は、なんとも言えず優しい色と香りを漂わせているようでした。

 二人が過ごした穏やかで美しい時間が、やっと戻ってきたように思われました。

 また、以前のように公隆さんは唯のために我が家にいらしてくださるようになるでしょうか、ご一緒に音楽やテニスなどを楽しまれることができるでしょうか。たとえどなたにも気付かれてはならない想いだとしても、きっと唯はそれで満足だと思うのです。


「私はテラスで風にあたってきます。唯、少しお話ししていただいたら。公隆さん、弟をよろしくお願い致します」

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