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空華 ─くうげ─  作者: 麻倉聖
11/11

十一

 波留子さんの長い悲鳴で我に返った私は、公隆さんと唯の姿を見つめておりました。


 白い布の上で赤い血にまみれて倒れている公隆さん。唯は公隆さんに覆いかぶさるようにして気を失っています。その二人の姿はまるで、緋色のレースの褥に横たわる神と天子を描いた絵画のような美しい印象でした。


 会場中の方たちが慌てて何かを叫んでいる中、私はゆっくりと二人に歩み寄りました。

 絶命されている公隆さんのお顔のなんと美しいこと。

 寄り添う唯のなんと可憐なこと。

 やっと想いが通じたのですね、と私は不思議に穏やかな気持ちでおりました。




「伊東唯。八歳です」


 唯は、公隆さんと幸せな時間を共に過ごしたあの頃に、還ってゆきました。


 お医者様のお話しでは、唯の記憶は恐らく一生戻ることはないだろうとのことでした。

 病院の行き帰りにも私の手をしっかりと握り、ショウウインドウの中の玩具に興味を持ったりお菓子をせがんだりと、小さな男の子のようです。

 私は、今の唯がこれで幸せならば、治療を続ける必要などないのではないかと思っております。




「ねえさま、ねえさま、早くいらして。櫻が散ってしまうよ」


 今日は唯の十八回目の誕生日です。

 誕生日の意味も、今の唯には解りません。一つ歳を取るということが、季節がめぐるということが、唯には解らないのです。

 唯は毎日毎日、玄関で私を急かしながら同じことを言い続けます。

 今日は霜がおりました。

 ブーツの紐を結んでいる唯の背中に声を掛けます。


「今日はお外は寒いのよ。ちゃんとマフラーをしてね」


 手をつないで外に出ます。ゆるい北風は二人の頬をそっと撫でるように吹き抜けていますが、それは紅蓮地獄があまりの寒さに皮膚が裂け、血が吹き出す様を炎に喩えるような、そんな痛烈な冷たさでした。


 唯は気にも留めず、「子どもは風の子」とばかりに先に駆け出してゆきました。



 私たちは、毎日家の裏手にある小さな山の頂上の櫻を見にゆきました。

 三年近くの間、欠かすことなく雨の日も雪の日も、真夏の太陽が照りつけるときでも、毎日毎日櫻のもとへと通いました。


 それは樹齢三百年ともいわれる滝のような見事な枝垂れ櫻で、春には樹の下に立ち天を見上げますと、仄白い花びらがまるで空から剥がれ落ちてくるように、永遠に降り注ぐのではないかと思われるほど舞い散るのでした。


 今はもちろん、葉も枯れ落ちて頼りなく細い枝だけが風に震えておりますので、向こうを見渡すこともできました。櫻の向こう側は切り立った崖になっており、夏にはその縁に咲く薬草を採ろうとする方が命を落とされたこともある危険な場所でした。


 もちろん唯がそちらへ近付かないよう、いつも注意をはらっております。


 唯は、今日も同じことを繰り返します。

 櫻の根元にしゃがみこみ、地面を少しだけ掘り返すのです。


 三年前、公隆さんが亡くなり唯が意識を失くしていたとき、私は唯を介抱しながらその口の中の異物に気づきました。

 それは、小さな肉片のついた爪でした。おそらく、公隆さんの手の小指から唯が噛み千切ったものだと思われます。

 私は誰にも言わずに、それをハンカチに包んで唯が眠る枕元の引き出しにしまいました。


 一週間後に目覚めた八歳の唯は、それを櫻の下に埋めるのだと言ってききませんでした。


 一緒に地面を掘り起こし、公隆さんの爪をハンカチから取り出すと、赤い椿の花びらで包み、柔らかい土の下にそっと眠らせます。


「こうしておくとね、魂がよみがえるんだ」

「誰の魂なの」


 訊ねると、唯は首をかしげます。


「うーん、わかんない。でもね、きっと僕の好きな人」


 幸せそうに微笑む唯。この美しく成長した弟を、私はこれからどのように愛してあげればよいのでしょうか。



「ねえさま、はなびらが」


 ふいに唯が立ちあがりました。

 唯には、花びらが見えているのでしょうか。

 太い幹の周りを走りながら、ないはずの花びらを追いかけています。



 櫻の向こうは、崖でした。



「唯、そっちへ行ってはだめ」



 私は一度だけ叫びました。



 唯のもとへと走り寄ろうとした瞬間に見えたその横顔は、大層美しく見惚れてしまうほどでした。

 それは、公隆さんの横顔とよく似ておりました。

 睫毛が長く、端正なお顔の公隆さんとそっくりでした。



 私は、声を掛けるのも走り寄るのもやめました。

 唯は花びらを追いながら、一歩ずつ踏み出してゆきます。

 そして、やがて唯の消えた私の視界には、満天の櫻が静かに降り注いでおりました。

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