十
気がつくと、僕の意識はその刃と一体になっていた。
白い布の上に正座した公隆さんがシャツの前をはだけ、ベルトを下げてお腹を出す。
ああ、僕がずっと焦がれたあの胸が大勢の人の前でさらけ出されている。あの胸に抱かれたいと、何度願ったことだろう。あの肌に触れたいと。そして僕の肌にも触れてほしいと。
だが今、僕は公隆さんの手によってお腹に押し込まれた刃になっているのだ。
僕は自分が入っている公隆さんのお腹の皮膚、その断面を眺めていた。薄い皮膚の断面は、いつか書物で見た人体図のようだった。
この表皮の下には真皮が層を成し、さらにその下に薄い脂肪があり、筋肉や血管に守られるように公隆さんの内臓があるはずだった。
公隆さんは、僕を握る手に少し力を込める。僕はほとんど抵抗なく、公隆さんの腹部のさらに奥へと進んでゆく。温かい。とても温かい。体表面の温度ではなく、体内の温かさはこんなにも豊潤で優しいのかと、僕は驚いていた。
そして公隆さんは、僕をそのまま右へと引いていった。ぬるりとした感触があり、突然なんの前触れもなく傷口が薔薇窓を開けるように開き、血が奥からあふれ出してきた。
僕はその血のなめらかさに酔い痴れるように身をまかせた。
公隆さんは僕をしっかりと握り、上から僕を見つめて微笑んでくれた。僕は、公隆さんの体温に包まれながら僕自身に公隆さんの笑顔を映せたことに満足していた。
このときの公隆さんの笑顔は、アトリエで僕を見送ってくれた恭一さんとよく似ていた。
ねえ恭一さん、さっき公隆さんが言っていた「守りたいもの」の中に、きっと恭一さんのお心も入っていると思うんです。違うでしょうか。
周りでは、事の重大さにやっと気付いた大人たちが「誰か止めろ」「本当に死んでしまう」「波留子さん、なんとかしなさい」などと叫んでいるらしい。
無駄だよ。もうそんな声など僕たちのいる場所へは届かない。
公隆さんと僕のいるこの場所だけは、周りがどんなに騒がしいとしても、悠々とした静寂に包まれ、暖かい陽の光にあふれ、さわやかな風が渡ってくる、そんな素敵なところだもの。
そう、それは初めて公隆さんと一緒にピアノを弾いたあのときのように。
公隆さんは、さらに奥へと僕を押し込み、右へ右へと引いていった。公隆さんのお腹の筋肉が、ぷちっぷちっという音を立てて一本一本切断されてゆく。
奥の方から内臓たちが押し寄せ、腹壁はせり上がり、傷口に迫ってきている。お腹の右端の方で、ついに腹壁に小さな切れ目が入ると、出口を目指していた腸がどっと移動した。すごい量の出血だった。
公隆さんは僕をお腹からゆっくり引き抜いた。同時に、ばら色にぬめる細く長い腸管もずるずると零れ落ちるようにでてきた。
そして僕を顔の高さまで持ち上げた公隆さんは、僕に自分の顔を映し出した。
真っ赤な血で彩られた、僕自身であるこの刃に映し出された公隆さんのお顔はいつも以上に、いや、この世のものではないほどの凄絶な美しさだった。
刃と一体化した僕と、血まみれの公隆さん。
僕たちは微笑みながら見つめあい、互いの気持ちが通じたことを確信した。
それから公隆さんは優しく頷くと、そのまま手首を返して僕を持ちかえ、心臓へと突き立てた。
公隆さんの、熱く、優しく、強い鼓動が僕自身に伝わってくる。僕は公隆さんの鼓動に自分のそれを重ね、一体感を味わいつくすように公隆さんに甘えた。
公隆さんはそのまま目を閉じてのけ反り、綺麗な顎の線を晒しながら口から少量の血を吐いた。
その血が喉を伝って僕に流れ落ちてくる。僕は公隆さんの温かい命そのものと言える血に包まれ、至福だった。
今なら、言ってもいいですか。
僕は、あなたが好きです。あなたが好きです。あなたが好きです。
やがて僕を包む公隆さんの鼓動が段々と弱く遠くなってゆく。そして、僕の意識もそれに伴い薄れてきた。僕を握る公隆さんの指から力が抜け、身体がシルクの上にくず折れたと同時に、僕も一切の感覚を失った。




