いざ、旅路へ
ストーンデールの街を出て、僕とチェリルは街道を歩いていた。
一応ブリスペル共和国では、大きな街と街の間に街道が整備されている。魔物除けの木を街道沿いに並べたそれは、商人が馬車を牽いて通っても、ほとんど魔物に襲われることがないと言われるほどだ。
街道を通らず、森や山を抜けて隣の街へ向かう道もあるが、そこを通るのはほとんどが札付きか、理由があって街道を利用できない者だけである。もしくは、その近辺に現れる魔物を標的とした冒険者の一団といったところか。
そしてブリスペル共和国自体はそれなりに治安が良いものの、さすがに整備されていない道となれば、盗賊も跋扈している。特にブリスペル共和国は、十数年前まで隣国のロシュフォール王国と戦端が開いていたという歴史もあるため、傭兵くずれがそのまま盗賊をしているという例も珍しくない。
「ふんふーん。いいお天気ですねー」
「そうですね。まぁ、雨に降られるよりはいいでしょう」
「でも、なんかくさいですねー」
「魔物除けに、街道には麝香木が植えられていますからね」
当然、僕とチェリルが歩いているのは街道だ。
別段追われている身というわけでないし、僕とチェリルならば親子旅に見えるだろう。下手にこそこそと行動するより、堂々としていた方が怪しくないのだ。
何人か商人だろう一団とすれ違ったけれど、普通に挨拶をされるだけだった。勿論、それに対してチェリルは元気いっぱいに返していた。
「へー。これ、麝香木ってゆーんですか?」
「ええ。生きている斧角鹿の腹部にある香嚢から分泌される香料のことを、麝香というんです。その名前を由来としているそうですよ」
「えぇっ! 生きているお腹から取るんですか!?」
「まぁ、そうですね。代わりに、すごく良い匂いの香料なんですよ。かなり高いので、金持ちしか持っていないと思いますけどね」
「ほへー」
チェリルが頷きながら、僕たちの左右に並ぶ木々に目を向ける。
一応、ブリスペル内の街道は全て、こうして麝香木を植えることで魔物除けをしているのだ。
「じゃこーって、そんなに良い香りなんですか?」
「ええ。それこそ、お金持ちが虜になるくらいらしいですよ。ただ、麝香木は別に麝香の匂いがするわけじゃなくて……」
「くさいっ! なんか、痛いっ! くさいっ!」
「あー……」
止める間もなく、走り出したチェリルは思い切り、麝香木の近くで息を吸った。
しかし残念ながら麝香木は、途轍もなく臭いことで有名なのである。近くで息を吸うと刺激臭に涙が出るほどだとか。だから基本的に、街道を歩く際には真ん中を歩くのが当然とされている。
この程度のことは、知っていると思っていたのだけれど。
「うえぇぇ……嘘だったんですね! ゼノさん!」
「嘘じゃありませんよ。麝香は実際に、斧角鹿から取れる素材の一つですから。物凄くいい香りがするというのも、本当です」
「でも、すごく臭かったですよ!」
「ですから、麝香と麝香木は違うんですよ。物凄く臭い木を見つけた村人が、『都で流行っている麝香ってのはこんな香りだった』と嘘を吐いて広めたのが起源とされていまして。それで麝香木と名付けられたのですが、後の研究結果で魔物除けに良い効果があると分かったんですよ。ですから、ブリスペルの街道には麝香木が植えられているんです」
ややこしい名前ではあるけれど、麝香木は非常に臭いことで有名なのだ。
その激しい刺激臭のために、魔物も肉食動物も近づくのを嫌がるとされている。特に、人間よりも嗅覚の鋭い肉食動物は、一度植えれば百年は近づかない、と言われているくらいだ。
僕も、好んで近づきたくない臭さである。
「ほへー……ゼノさんは色々なことを知っているんですねー」
「旅をして長いですからね。ひとまず、もう少し進んだら夜営にしましょうか」
「やえー?」
「一晩泊まるってことですよ」
「ほへー……宿に泊まるわけじゃ、ないんですよねぇ……」
「ええ」
チェリルに向けて、そう頷く。どうやら、野宿をすることは覚えていてくれていたらしい。
僕の一人旅では全く使わなかったけれど、このために僕はテントを買ったのだ。
だが一応ながら、チェリルは成年の女子だ。見た目から全く信じられないが、成年の女子なのである。僕という、赤の他人である男性と同じテントで過ごすというのは、妙な嫌疑を招く可能性もある。
だけれど、もしもテントを別にした場合、チェリルの危険を僕が察せなくなってしまう。麝香木による魔物除けは効果が期待できるものだが、間違いなく魔物が入ってこないというわけではない。少なからず、街道を歩いていて魔物に襲われたという報告もあるのだ。
だから、下手な嫌疑を招くことにはなるかもしれないが、一つのテントという帰結になった。僕は安全を何より優先するのである。
チェリルの身に何かあれば、僕の計画はそこでお終いなのだから。
「しばらく歩いたら、テントの設営をしましょう」
「テント?」
ああ、そうだった。
この子、良家のお嬢様だった。全くそうは見えないけど、旧貴族ゴルトベルガー家の一人娘だった。
そりゃ、そんな立場にある女子が、テントに泊まったことなどないに決まってる。
「これです」
「……皮の布、ですか? あれ? おふとんはどこですか?」
頭が痛くなってきた。
布団なんて、あるわけがない。せいぜい、マントで体を包む程度が冒険者の暖である。
「今、僕たちは旅をしていますね」
「はい!」
「旅というのは、場合によっては雨が降ることもあります。そんな雨を凌ぐために、皮でできたテントを張るんです。そのテントの中で、地べたに寝ます」
「えぇっ! おふとんはないのですか!?」
「……」
頭が痛くなってきた。
この子、本気でどうやって勇者になろうと思っていたんだろう。本物の勇者であるならば、『天樹教』からサポートメンバーという形で神官が派遣されるらしいけれど、神官でも匙を投げるかもしれないくらいに常識がない。
だけれど、ここで下手に注意とかして、チェリルが機嫌を損ねても困る。
仕方ない、ここは僕が大人になろう。
実年齢は四桁だけど、精神的に。
「いいですか、チェリルさん」
「は、はひ……」
「焚き火をして干し肉を焼いて、熱々の干し肉を一緒に食べましょう。それと果物のジュースを一緒に飲みましょう。食べ終わったら寝転がって、星空を見るんです。楽しいと思いませんか?」
「わぁ! すごく楽しそうです!」
よし。
お嬢様なら、きっとアウトドアの経験もないだろう。
旅路の夜営というわけではなく、キャンプのつもりで気楽に構えてもらえばいいのだ。
「さぁ、行きましょう! わくわく!」
「はいはい。そんなに走ると、転び」
「へぶぅっ!」
「……遅かったみたいですね」
「痛い! 痛いです! 鼻血が出てます!!」
とりあえず、今後の課題として。
チェリルには、なるべく走らせないようにしよう。面倒だから。