私の愛した異形。
―――この魂が、腐れ落ちる前に。
彼に、会いたい。
たった一目でいいから。
―――そんな渇望を胸に、私は死んだのです。
絶望の闇の中。
不意に淡く光が差し込み、私はゆっくりと目を開けました。
そこにあったのは、霧が深い森。
目に映った道の先に、古ぼけた洋館が青い月を背にして静かに佇んでいます。
「あそこ、が……」
私はふらりと足を踏み出しました。
そして、かつて彼が異国訛りで告げた言葉を思い出します。
『俺は異形や』
彼が吐き出す声に混じるのは、私に対する諦念と独占欲。
『それでもお前は、俺を愛すんか?』
「愛します……」
過去の声に答える私は、昔、騎士として国に仕えていました。
男爵だった父が死んだ時、母は他界しており、子は私だけ。
誰かに嫁いで家督を継がせるように、と親類に言われましたが、私は誰とも婚姻せずに自ら家督を継いで王城に仕官しました。
一人で生きるつもりで。
しかし、誰もそれを快く思わなかったのです。
私は濡れ衣を着せられて、弁解する場すら与えてもらえず、辺境へ行く事を命じられました。
立場に未練はありませんでしたが、それでも失望の中で辺境にたどり着いた私に、最初に声を掛けたのが彼でした。
『えらい美人さんやのに、えらい暗い顔しとんなぁ』
そこは、魔物が棲むと言われる山の麓に近い場所。
村に向かう道の途中で、彼は巨木の下で休憩するように座っていました。
最初は村人かと思い、邪険にするのもはばかられて、私は彼と話をしました。
その内に馬の音が近づいてきて、彼は腰を上げたのです。
『この馬はアイツやな。厄介なのに見つかる前に消えるわ』
彼はそう言って私に手を振り、去って行きました。
その後、私を迎えに来たのは左遷先である領主の騎士団の団長を務めておられる男性。
厳格で公平ですが、仕事以外で私と喋ろうとはしない方でした。
私が、最初に出会った彼を村人ではないと知ったのは、幾度か偶然に会って話をした後、領主の娘に命じられて森に入った時のことです。
娘は私の何が気に入らないのか、ワガママばかりを言い、その時は夕刻にも関わらず木苺を食べたいから摘んでこい、と言われたのです。
彼女付きの護衛兼世話役を命じられた私に、逆らうなどという選択はありませんでした。
しかし不慣れな山で、私は草に隠れた先にあった斜面に気づかずに足を踏み外してしまいました。
死を免れたのは、転がり落ちる私を誰かが抱き上げてくれたから。
見上げた相手は、翼とツノを生やし、頬に複雑な印を刻んだ彼でした。
『バレてもーたなぁ』
あっけらかんと笑う彼に私は、人間ではなかったのですか、と尋ねました。
彼はいつもと変わらない笑顔でうなずきました。
『驚かんねんな』
村で見かけないのによく私が一人の時に姿を見せるので、どこの方なのだろう、とは思っていました。
驚かなかったのは、この時、私は彼を亜人の一種かと勘違いしていたのです。
でも、違いました。
彼は異形と呼ばれる存在だったのです。
私には誰も親しむ者のいない場所で、ただ一人、彼と交わすほんの少しの会話だけが安らぎでした。
そして、いつの間にか愛してしまっていた事に気付いたのです。
彼に愛を告げた時、彼は私の元を去ろうとしました。
そうして、彼は自分の正体を明かしたのです。
彼の告白の意味が、分かっていたとは言えません。
異形というのがどういうものか、私は少しも理解していませんでした。
頬の複雑な印は【異形の印】。
でも彼に惹かれていた自分に気付いてしまえば、もうどうする事も出来なくて。
彼の全てが、愛しかったのです。
いつまでも愛します、と伝える私に、彼は切なそうな顔をしました。
その美貌で私を見つめ、人のものではない指先で私の黒髪を撫でてくれました。
でもそんな彼を、怖いなどとは思いませんでした。
彼は私を、受け入れてくれました。
嬉しくて、愛しくて。
幾度も幾度も、最初に出会った巨木の下で、夜中にこっそりと逢瀬を重ねました。
そうして事あるごとに、彼は、同じ言葉を繰り返しました。
『本当に、俺を愛すんか?』
独占欲を滲ませながら、私を手放そうとする言葉。
その言葉は私の耳には、優しい睦言むつごととして響いていました。
私は問いかける彼の、美しい金の髪と黒いツノが生えた頭を、幾度この胸に抱いたでしょう。
「何度問われても、私の答えは、変わりません……」
応える者のいない独り言と共に白く吐き出した息が、私を現実に引き戻し、周りを流れる霧に溶けてゆきます。
不意に、ズキリ、と左の手甲に痛みが走りました。
目を向けると、自らナイフで刻んだ【異形の印】があります。
手は血に染まり、瘴気の影響で傷口が腐り始めて、肉から膿が滲んでいました。
―――彼に、会いたい。
拭うものなど持っていない私は、血が指先から滴るのをそのままに、洋館に向かってフラフラと進みます。
彼は、あそこにいる筈なのですから、向かわないなどいう選択肢は私にはないのです。
逢瀬の時に、彼は異形について話してくれました。
『人の魂は、死んで輪廻に還るんや。でも異形の魂は、死んでもーたら安息の館に還んねん』
そうして異形は、長い時間をかけて瘴気を取り込んだ後に、今の姿のまま生まれ変わるのだと、彼は言いました。
少年のような笑みを浮かべ、逢瀬の場だった巨大な木の根に座ったまま、私の腰に手を回しながら。
私は彼の頬に触れて【異形の印】を指でなぞるのが、好きでした。
何度も何度も、その複雑な形を覚えるくらいに、彼が彼である証をなぞるのが。
私を愛してくれる彼の一つ一つが、私にとっては何者にも代え難い宝物だったのです。
私も異形になりたい、と一度口にしたことがありました。
その望みを聞いた彼は、表情をまた、愛を受け入れてくれた時と同じような、切なげなものに変えました。
『人は異形にはなれん。【異形の印】を刻んで館を訪れたとしても、腐れて消えるだけや』
腐れる。
人の魂は瘴気に耐え切れない、と彼は言いました。
そしてついにある日、彼との逢瀬が露見してしまったのです。
領主の娘が怪しみ、私が後をつけられたからでした。
娘は、彼に一目惚れしたから私と別れて自分と付き合え、と言いましたが、彼は普段と違う丁寧な口調で断りました。
『私が愛している女性は、ただ一人だけです』
事態は、それだけでは済みませんでした。
終わったと思った私が、浅はかだったのです。
娘は父親に報告し、私はそれと知らないままにいつも通りに夜に屋敷を出て……彼の姿を見つけた直後に、騎士団長によって首に剣を突きつけられました。
『出来れば、このまま平穏に結ばれて欲しかった。……領主に知られた以上は、退治せねばならん』
小さく私に囁いた騎士団長は、彼と旧知の仲だったようです。
団長は今まで私が抜け出すのを見逃してくれていたのだと、憂いに染まる目を見て悟りました。
自分の周りを囲む騎士に、彼は抵抗しませんでした。
逃げて、と半狂乱になる私に、微笑みかけて。
『俺は死なんで。ちょっと長く眠りにつくだけや。なぁ、逃げへんからその子の命は助けてくれや』
『良いだろう』
騎士団長は、厳格ですが公正な人物です。
しかし、領主とともについてきていた娘が、彼に向かって勝ち誇ったように言いました。
『あなたが私のものになるなら、あなたの命も助けてあげるわよ!』
でも彼は皮肉な笑みを浮かべて、この間と全く同じ口調で言い返したのです。
『永遠を共に出来なくとも、私が愛している女性は、ただ一人だけです』
そして彼は殺され、私は暴れた為に牢に閉じ込められました。
憎しみで歯を剥く私に、格子の向こうから覗いた娘が『死ぬなら死ね』とナイフを投げて、嘲笑います。
そのナイフで私は、手の甲に彼と同じ印を刻み、自らの首に刃を立てたのです。
「私は、異形になりたい……」
彼と同じ、異形に。
そうすればこの館で、ずっと共に過ごせるでしょう。
館の入り口の前に立った私は、それが叶わない望みだと知っていました。
印を刻んだ手は既に骨が覗くほどで、腐臭がしています。
そろそろ、腕も紫に変色し始めていて、言う間に全身が腐れ落ちるでしょう。
私は死にました。
そして人の輪廻から外れ、【異形の印】によって館に導かれました。
与えられたのは、魂が瘴気によって腐れるまでのわずかな時間だけ。
私は腐っていないほうの腕で、洋館の扉を押し開きました。
この館で眠る彼を、今から見つけるのです。
せめて片手が腐れる前に会えれば、この手に抱くことが出来るでしょう。
せめて顔が腐れる前に彼の元へとたどり着ければ、微笑みかけることは出来るでしょう。
この胸の内にある愛という名の渇望は、私の心をただ一つの狂気に染めたのです。
―――彼に会いたい。
たった一目でいい。
私の愛した、優しい異形に。
その為ならば、死すらも厭いはしなかったのです。
肉体も、魂も、彼と同じにはなれないけれど。
この心くらいは、もしかしたら歪な異形になれたのかも知れないと、私は微かに笑い、足を踏み出します。
彼を探し、彼の姿を見つけ、愛を誓って傍に寄り添うのです。
―――この魂が、腐れ落ちる前に。