閑話:沢村さんという人
こちらは主人公から引き継ぎを頼まれた、佐藤さん視点です。
正直、その日まで特に意識をしたことがない人。
それが、わたしにとっての沢村さんという人でした。
「佐藤くん。サワちゃんの仕事の一部、これからお願いね」
「はい、かしこまりました」
今日も大きな声の部長が、手招きをしながら話し掛けてきました。
部長の席に着く前に話し終えるので、いつも中途半端な位置で答えることは困ります。目の前で返事をしなければ、失礼ではありませんか。
誰に対してもこうなので、この部屋で気にする人などいませんけれど。
……それにしても、“サワちゃん“って沢村さんのことでいいんだよね?
一つに縛った黒髪、小柄で童顔な見た目からはおよそ三十五歳には見えません。
入社してからしばらくは、年下の学生かと思っていたくらいです。
そして、そんな沢村さんがしていた仕事とは……。
「何をしている人だっけ?」
同じ部屋にいるはずなのに、座っている姿を見たことがないのです。
首を傾げながらも次に呼ばれた時に尋ねようと、仕事に戻ることにしました。
「おはようございます、佐藤さん」
「……おはようございます」
そういえば、いつも一番に会社に来ていた人だったかも。
部署に入った途端に挨拶をされたことで、昨日の話を思い出します。
けれど挨拶だけの沢村さんに、何も聞いていないのだとわかりました。
ここでわたしから尋ねては、不審がられてしまうでしょう。
それに仕事を引き継ぐということで、早く辞めろと暗に言っていると思われても困ります。
ここは部長から伝えた方が正しいと、そのまま自分の席に座ることにしました。
「佐藤」
「はい」
もうすぐ辞める岸さんから声が掛かるなど、滅多にありません。
反対側の席に近付いたら、少し部長に視線を向けてから口を開きました。
「サワからお茶くみとコピーのことを訊くんだろ?」
「あ、はい」
どうやら沢村さんの仕事とは、お茶出しとコピーだったみたいです。
そこまで詳しく聞いていないとは言わずに頷いたら、岸さんも一つ頷きました。
「ただのお茶とコピーだと思ってるだろ」
「えっ」
顔に出さないようにと気を付けていたのですが、岸さんはわかったのでしょう。
確かに、「それってわざわざ引き継ぐこと?」と思ったのが正直な気持ちです。
何と言えばいいのかと固まるわたしに、岸さんは叱るわけじゃないと、軽く手を振ってくれました。
小さく安堵したら、いつも持っているメモ帳を指差します。
「悪いことは言わない。メモとペンは忘れずに持っていけ」
「え?」
「しっかり、全部引き継げよ」
「はい……」
言われた意味はわかりませんでしたが、営業成績は入社時からトップの岸さんの言葉です。
それでも首を傾げながらも、引き継ぐその日を待とうと席に戻ることにします。
「じゃあ佐藤くん。サワちゃんから訊いてね」
「よろしくお願いします、沢村さん」
今度こそ部長の前に立って、話を聞くことができました。
沢村さんは妙な顔なままですが、やっと木曜日に引き継ぎが始まります。
けれど話を聞いたのは月曜日です。……少し遅すぎないでしょうか。
沢村さんがいなくなる日は今月末です。
その前の週に岸さんが、その後にもう一人も退職し、来月にはこの部屋から三人がいなくなることになります。
のんきな部長に呆れながらも、給湯室にそのまま向かうことになりました。
「本日は寺田さんとその部下、林さんが来社予定です」
これはすでに朝に話したことなので、沢村さんも当然知っていることでしょう。
最初が肝心なのだからとわたしから伝えたら、沢村さんも頷いてくれます。
「それこそ最初だし、場所もわかんないよね?今日はわたしが淹れるね」
「わかりました」
給湯室など入ったことがありません。
部署の人へも社外の人にも、もしかしなくとも全部、沢村さんが出していたのでしょうか。
岸さんが言った「全部」はこの意味かと納得しながら、それでも沢村さんの動きから、お茶の場所を覚えようとペンを持ち直しました。
「は?」
……一体、沢村さんは何をしているのでしょうか。
知っている量よりも少ない茶葉を急須に入れたと思ったら、沸騰手前のヤカンのお湯を注いでいきました。
けれどこのお茶は二つだけしか淹れず、茶葉を追加したらまたヤカンも火にかけています。
「あの、何をしているんですか?」
わからないことは訊けばいいのです。
お茶出しを引き受けていた沢村さん以外は知らないことだろうと尋ねたら、手元から視線を外さずに答えてくれました。
「お茶を淹れております」
……それは、さすがにわかります。
どうして二つずつ別な淹れ方をしているのかと改めて尋ねたら、納得するように頷いてくれました。
説明を聞いても、訳がわかりませんでしたけれど。
それでも、それぞれに好みがあることは理解しました。
お茶菓子が入っている引き戸を開けた時にもよくわからない行動をしていく沢村さんに、メモを動く手が止まります。
これは終わった後に確認しましたが、やはり人によって好みが違うということを、頭では理解しても意味がわからないことだらけです。
岸さんはもしかして、こういうところを言ったのでしょうか。
「疲れた……」
たった四人だけのお茶出しで、とても疲れてしまいました。
いつもしている仕事など、生易しかったのではと思えてきたくらいです。
一緒に向かったことで、次からはわたしが出すと知られてしまいました。
今日の寺田さんは毎月来る方です。昔からのお付き合いなのですから、わたしに変わった途端に機嫌を損ねたら大変なことになるでしょう。
自販機の並べられている廊下の端のさらに端のソファに座り、落ち始めた夕日を眺めます。
沢村さんはせんべいの代わりのもので誤魔化しただけと言っていたことからも、自分が何をしたのかは気が付いていないのでしょう。
というかきっと、ただのお茶出しなのにとも思っているはずです。
「もう揉まれたのか?」
「岸さん……」
戻ってきた岸さんがポケットから小銭を出して、自販機の前に立ちます。
少し考え込んで、『ハチミツ柚子ティー ショウガ入り』のホットを押したら、わたしに視線を向けてきました。
「どうだ。ただのお茶だったか?」
「いえ」
少し意地悪そうな顔で笑った岸さんが、同じく意地悪な言葉を投げてきました。
そのままソファの脇に立っている岸さんを見上げて、同じ部屋の人たちのことも知らなかった自分にガッカリしたと伝えます。
「まあ、佐藤はまっすぐ過ぎるからな。いい機会だから、テキトーなところもサワに学べ」
「はい。……はい?」
あれだけキッチリ細かく、お茶とお茶菓子の好みや温度に気を付けている人の、どこらへんがテキトーだと言うのでしょうか。
「見てればわかる」
「はあ……」
今まで、存在自体も自分の中では希薄だった人です。
けれど、お茶の好みも何も知らなかったのはわたしの方です。
わたしこそ知らないことだらけなのだと、わかっただけの日でした。
手元で冷めてしまったコーヒーを飲み干したら、もう少し周りを見てみようかと立ち上がることにします。
「……」
どこにいるんだろう?
岸さんの言葉で、次の日は朝から普段の沢村さんを見ようかと探し始めたのですが……。
まったく見つかりませんね。本当に、どこにいるのでしょうか。
「サワー」
「なんですか、岸さん」
「!?」
朝礼が終わったと同時にどこかへ消えた沢村さんでしたが、岸さんの呼び掛けにどこからか現れました。
ど、どこから出てきたんだろう。
その見た目から座敷わらしっぽいなと思いながらも、手元のお盆に乗ったカップを見て、給湯室に行っていたことがわかりました。
しまった……。これは今日から、わたしがするはずだった仕事の一つです。
もう済んでしまったことは仕方がないと諦めて、順番にお茶を置くついでにそれぞれからコピーの原本を渡されながらも、岸さんのデスクへ向かう沢村さんを目で追います。
「これなんだけどよ」
「んー……五分。いま電源入れてきたから、三分で持ってきます」
「頼んだ」
「……?」
数枚の紙を渡された沢村さんは、三分で何かを持ってくると請け負いました。
電源という言葉から、機械か何かのようですね。
「森田、お前もついてけ」
「ういっ!?」
「サワ、つれてけ」
「はいはい」
「??」
岸さんの引き継ぎをしている森田さんと一緒に、どこかへ行ってしまいました。
幸い、わたしがすぐにしなければいけない仕事はなさそうです。
このまま後ろからついていこうと、こっそり追いかけることにします。
ピッピッ ウィィー……ン
「……」
「これ、森田くんの今日回るところね」
「ありがとうございます」
コピーをしていることはわかりましたが、これも岸さんから引き継ぐ資料だったのでしょうか。
けれどコピーの途中なのに、受け取った森田さんはすぐに部屋から出ていこうとしています。
「そうだ。次から佐藤さんになるから、早めに言った方がいいよ」
「うわっ、そうでしたっけ!?……まいったなー」
「知られたくないなら自分でしなよ」
「うえーい……。わっかりました」
「???」
わたしの名前が出たことで手近な扉に慌てて隠れましたが、謎のやり取りということしかわかりません。
その後は三分以内に岸さんへ原本とコピーと何かを渡した沢村さんは、またどこかへ消えてしまいました。
きっと残りの人たちのコピーでしょう。
岸さんからしか特に言われていないので、先に手渡したら戻ったはずです。
これも自分が引き継ぐ仕事だったことを忘れたままに、先程の森田さんとの会話を思い浮かべました。
沢村さんからは、すでに社内外の人の“超個人情報“を渡されています。
その中に書いてあった森田さんの項目は、本人には内緒と書かれていた注意事項を思い出しました。
「方向音痴の森田さんで、岸さんの跡継ぎって大丈夫なんですか?」
お昼はいつもお弁当の沢村さんをつかまえて、朝の疑問を尋ねることにします。
少し上を見た沢村さんが、朝のやり取りを思い出したようです。止まっていた箸を動かし直しながら、小さく頷きました。
「だからコピーした地図を渡してるの。でもまあ左と右はわかるし一度行った場所はまあまあ覚えてるから、たぶん大丈夫じゃない?」
「あまり大丈夫には聞こえませんが……」
一応、森田さんを引き継ぎ役に選んだのは岸さん本人です。
朝のことからも知っているようならば、たぶん大丈夫なのでしょう。たぶん。
沢村さんのことを知ろうかと思ったのに、余計にわからなくなりました。
午後からどうしようかと座り直したわたしに、お弁当を片付けた沢村さんが立ち上がります。
「コピーについても渡した紙に書いたけど、何かわからないところはあった?」
「コピー……」
「今日いなかったから教えられなかったでしょ」
お茶とお茶菓子の好みは見ましたが、コピーの好みはわかるところがありませんでした。
そのままを伝えたら、とても不思議な顔をされてしまいます。
「じゃあ午後からか、明日の朝にでもしようか」
「はい、お願いします」
もう一度、資料を読もうと手に取ったわたしとは逆に、立ち上がった沢村さんは部屋から出ていきました。
「……」
歯磨きかなとは思いましたが、午前中だけでも色々あったのです。昼休みこそ、他の部署の人たちとの交流があるかもしれません。
少し時間を置いてから、わたしも部屋を出ていくことにします。
「ああ、やっぱりここだった。沢村くん、ちょっといいかな」
「見てわかんないんですか」
「……うん。歯磨きが終わってからでいいから」
今日イチ、というよりも、この会社で一番偉い人が登場してしまいました。
それなのに歯を磨く手を止めずに振り返り、泡だらけの口元のままで返事をするとは……。
社長は顔を引きつらせながらも、終わってからでいいと遠慮がちです。
自分がクビを言い渡したからでしょうか?それにしては、なんだか気安い空気の二人ですね。
しっかりと洗面台の掃除までしてから、やっと沢村さんが動き出します。
社長室なら、外からも声は聴こえません。それでもと、こっそりついていったら自販機の前で止まりました。
沢村さんも意味がわからなかったらしく、少し首を傾げて社長に話し掛けます。
「いま、歯を磨いたところですよ」
「知ってる。でもほら、前に手ぶらで社長室に行ったら桑山くんの仕事が増えるって怒ったじゃないか」
「そりゃそうですよ。社長室に入ったら、自動的に秘書の桑山さんがお茶を出してくれるんですから」
「……?」
前にもあったのでしょうか。そして社長にも怒ったと言ってますが、怒った内容がおかしいです。
秘書が社長室に来た人にお茶を出すのは、とても当たり前のことなのでは……?
柱の影から見ているわたしの前で、「昼休みに仕事を増やさないように」とだけ言った沢村さんが、自販機に向かって指を向けていきました。
「わたしにはココアください」
声を掛けたのは社長です。そして桑山さんにお茶を出させないために、自販機に来た理由もわかりました。
けれどそこで社長に買ってくれというのは、少し違うのではないでしょうか。
何か言った方がいいのかとウロウロするわたしに気付かずに、社長は普通に小銭を入れていきます。
……買うんですか。
「社長は会食続きでしょ?野菜ジュース……は冷たいものしかないから、ハチミツ柚子ティーショウガ入りのホットか甘酒がオススメです」
「野菜ジュースからの、その二つの流れがよくわかんないけど……」
「風邪対策ですよ。甘酒はアルコール入ってないので安心です」
微妙に納得しきれない社長は、それでも素直に岸さんと同じ甘そうなお茶を選びます。
そして、二人はやっとその場から動き出しました。
「そうだ、サワちゃんは飲めるんだっけ?」
くいっと飲む仕草をした社長には、呆れた視線を向けるだけの沢村さんです。
「セクハラとパワハラとアラハラの三重苦ですよ、社長」
それでも諦めない社長は、いつもの部長のような軽口で続けていきます。
「ザルって聞いたはずなんだけど、通ってるとこでもあるの?」
「回らないお寿司屋さんで日本酒を嗜む程度です」
「……相変わらず趣味が渋いね」
社長がまだ専務の時代から、沢村さんは知っているそうです。
部長や岸さんみたいに二十年近く勤務している人から見たら、戦友というか同期みたいな関係なのでしょうか。
相変わらずという言葉からも、急に“ちゃん“付けになったことからも、ちっとも社長と社員という二人には見えません。
「……また、何かあったのか?」
自販機の、端の端のソファの隅っこでボーッとしているわたしに、岸さんが声を掛けてきました。
岸さんとはそろそろお別れです。
送別会は三日後だったなとぼんやり思いながら、そういえば岸さんは甘いものは好きじゃなかったと書いてあったことも思い出しました。
「もう辞める、オレのことまで話したのかよ」
「はい。ですから岸さんの送別会の会場は、日本酒とつまみが揃っているところに変更しました」
「……そうか」
微妙な顔ながらも、小さく微笑んでくれました。
これも、会場を任されたわたしと森田さんは知らなかったことです。森田さんは一応、岸さんから引き継ぎをするために二ヶ月近く一緒にいたはずなんですけど。
「オレの酒の好みなんて、この会社で知ってるヤツは五人もいねえよ」
気にすんなと言われましたが、その数少ない人たちに沢村さんが入っていることが不思議でなりません。
「あー……サワとは飲んだことあるし、そういう話もたまにしてるしな」
「そうなんですか」
会社には仕事に来ているのだからと、そういう話はしたことがありません。
いつもどこかに行っている沢村さんは、あちこちの部署にいる人たちといろんな話をしているのでしょうか。
「つーか、あれで十五年目だからな」
手を振りながら、長いなら知り合いも多いだろと簡単に言っていきます。
わたしはこの引き継ぎ作業がなかったら、部長がダイエットを頑張っていることも、森田さんが方向音痴だということも知らないままだった気がします。
「そんな肩肘張るもんじゃねえよ。テキトーなとこも学んどけって言っただろ?」
「はい……。でも、岸さんが風邪気味なことは気付きませんでした」
「……サワめ」
コピーと一緒に渡したものがのど飴だと聞いて、甘いものが好きじゃない岸さんが選んだお茶の意味を知りました。
これは知られたくなかったのか、「そーゆーとこは黙っとけよ」と小さく呟いたことからも、森田さんに地図を渡していたことと同じ理由なのかもしれません。
「変なとこまで引き継ぐなよ」
少し苦い顔をした岸さんに言われましたが、すでに部長を叩くための三十センチ定規は受け取ってしまいました。
「もう、遅いですよ」
全部、引き継げと言ったのは岸さんです。
最後の忠告は聞かなかったことにして、残りの時間でしっかり全部、引き継ごうと思います。