5話:給湯室にて
次の日は昨夜の計画通りの朝をこなしていく。
洗濯をしながら風呂掃除をして、うどんを煮ながらおじやの用意をしていった。
「そうだ、リンゴでお菓子を作ろうかと思ってたんだった」
昨日はそのまんま食べちゃったから、今朝は何か加工しようかな。
「おふぁようごじゃいまーふ」
「おはよう」
大きく口を開けてのあくびも可愛らしい後輩ちゃんは、寝起きも「誰!?」って別人にならない。
いいのかな。目の前にいるの、わたしなんだけど。
リンゴを見せながら、何が食べたいか訊いてみよう。
「うどんと、きんぴらごぼうだけじゃ足りないでしょ?パンケーキかクレープ作るけど、どっちがいい?」
「ふわっふわのパンケーキ!!」
「はいはい」
いえいっ!とガッツポーズも可愛い無茶振りをかます後輩ちゃんに手を振って、作ってる間に支度をするようにと言っておく。
ふわふわってことは、卵白を別に泡立てればいいかな。
昨日の残りのオレンジジュースは生地に練り込んで、細かく切ったリンゴと一緒に煮込んでいく。
生クリームなんてものは常備していない。
代わりにクリームチーズを牛乳で伸ばしながら温めていったら、ふんわりと良い香りが漂ってきた。
「うっわー、美味しそう!」
「先に昨夜の鍋を片付けるよ」
「はーい。いただきまーす」
卵を落としただけでも、出汁が染み込んでいる鍋の残りはとっても美味しい。
やっぱり、鍋は翌日に〆たほうが良いね。
「熱い……」
「あちちちっ」
ちょっと煮込みすぎたかも。火傷しそうなくらいに熱い。
猫舌ではなかったよなと後輩ちゃんを見たら、幸せそうな顔をしていた。
「美味しいぃ……」
まあ、いっか。
鍋の残りを平らげたら、今度はデザートをお皿に乗せていく。
うん、リクエスト通りのふわふわじゃない?
「プルプルですね」
瞳が輝いていることからも、合格をいただけたらしい。
「……さすがにインスタにあげる出来じゃないよ」
スマホを掲げたら、パシャパシャとあらゆる角度から撮っていく後輩ちゃん。
オレンジジュースで煮たリンゴと、クリームチーズを伸ばした即席クリームだけの中身なんだけど。
撮った写真を加工して、なんかこう……うまい具合に見せる気なのかな。
「こういうものは、あえて加工しない方が手作りってわかって騙しや……、誉められやすいんですよ」
「……あ、そう」
誰を騙す気なのかは知らないけれど、昨日の帰りに夕食を断った男の子とかには有効かも。
よく知らない人だけれども。
「ああ、そうだ。昨日の資料には、社長とかその周辺の情報はないんですか?」
何だかんだで、今のお偉いさんとは入社以来の付き合いだ。
たまにそっちのお茶も出していたなら、引き継ぎをすることになった佐藤さんも呼ばれるだろう。
後輩ちゃんのアドバイスに頷いて、付け加えることに決めた。
「それこそ、間違ったらダメな人たちだね」
「それもありますけど、先輩しか知らないネタが多そうじゃないですか」
わたししか知らないネタとは……。
「社長はコーヒーが苦手とか?」
でもこれも、みんなには知られているはずだしなあ。
最後の一口を食べながら、他のネタはあるかなあと考え込んだわたしの前で後輩ちゃんが固まった。
「え……はっ!?だってウチって、珈琲メーカーとも付き合いがありましたよね?」
あれ、知らないのかな。
いやでも、お茶出し以外の人は意識しないか。
少し首を傾げながらも、わたしが知ることになった経緯を話せば理解してくれるだろう。
「専務の時はよく飲んでたんだけど、社長になったらビミョーになったって言ってたよ」
「言ってたって……」
「だから珈琲メーカーの人が来たら、社長にだけはココアを出すの」
ものすごーく薄めれば、飲めないこともないみたいだけど。
飲んだ日は確実に体調を崩すと聞かされたら、色味が似ているもので誤魔化した方がお互いにいいでしょう。
うんうんと頷くわたしに、とても呆れた視線を向ける後輩ちゃん。
けれど彼女が気になったのは、コーヒーの代わりにココアを出すというところではなかったらしい。
「社長とそういう会話ができる社員て、他にいませんからね?」
「さすがに部長クラスは知ってるって」
末端のわたしが知っていることを、長い付き合いの部長が知らないわけがない。
いやでも、わたしが社長に呼ばれた経緯は知らなかったな……。
「秘書しか知りませんよ、そんな情報。ネイルに入れてもらったスワロフスキーを賭けてもいいです!」
「……う、うん」
ビシッと整えられている爪を差し出されては、どんな返事をすればいいのやら。
とりあえず、こくこくと何度か頷いておこう。うん。
朝から呆れた顔を向けている後輩ちゃんは、ふわふわパンケーキ二枚をペロッと食べ終えたら立ち上がった。
そうして今度は、ビシッと人差し指を向けてくる。
「人を指差したらダメだよ」
「それは置いといて。だーかーらー、そーゆーとこですって」
「……何が?」
「もー!!」
ジタバタと地団駄を踏んだら、「遅刻しますよ!」と言う後輩ちゃんに腕を引っ張られながら会社に向かうことになった。
昨夜といい今朝といい、どういうところを言っているのかわからないな。
「??」
軽快に駅の階段を駆け上がる後輩ちゃんにつられて、わたしも勢いよく走り抜けていく。
いつもと同じ時間の電車に乗ったら、改めて昨日とは違う隣りを見やる。
「何ですか、先輩?」
「いやぁ……、昨日と違うなあって」
服はもちろん、一つにまとめた髪型も、メイクだって変わっているのだ。
全体の色味が落ち着いてるのに、アイラインがワインレッドってだけで華やかだなあ。
わたし?わたしはアレですよ。茶色の髪ゴムで一つに縛って、焦げ茶のフレーム眼鏡のベージュ系メイクです、はい。
くいっと眼鏡を上げながら見つめるわたしに、すでに諦めているような顔を向けて、それでも言ってくれる後輩ちゃん。
「眼鏡は仕方がないとしても、もう少し色を入れた方がいいですよ?」
「まず、そういう服を持ってない」
「部屋着がジャージじゃないだけマシですけど、パーカーっていうのも大概ですからね」
「……あったかいんだもん」
パーカーを馬鹿にしてはいけない。
何にでも合うし、そのまま上着がなくても外にも出られるくらいにあったかいのだ。つまり最高。
「美容室では嫌がられるみたいですね」
「シャンプーの時に面倒だから着ていかない」
「そういうところが……」
「?」
はーっという溜息にかき消されて、何を言ったのか聞き取れなかった。
「何て言ったの?」
「何でもありませんよ、もう」
「はあ……」
途中でやめられると気になるじゃないか。
あれか。これが小悪魔というやつなのか。さすがだ。
「違います」
「あ、そう」
違うらしい。……難しいなあ。
会社に着いたら、いつものようにお湯を沸かそうと給湯室に向かう途中。
通りすぎる前に止まって振り返り、ついでに声をかけた。
「佐藤さん。十分……五分の時間ができたら、給湯室に来てくれる?」
「わかりました、今すぐ行きます」
給湯室という場所を指定したことで、昨日の続きだと思ったらしい。
すぐに立ち上がって、メモを片手に律儀についてきてくれた。
真面目だなあ……。
「沢村さんがお茶を出していた人はまだいますし、寺田さんだけがお付き合いしている取引先じゃないですからね」
何やら興奮気味の佐藤さんは、メモを取る格好のまま、すぐさまわたしに迫って来た。
昨日は先生と生徒のようだったけれど、情熱的すぎてマスコミに追いかけ回されてる気分になるなあ。
それならとマイク代わりのペンに向かって、コホンと一息吐いたら紙の束を渡していくことにしよう。
「なんですか、これ?」
「個人情報」
昨夜の後輩ちゃんと同じやり取りを、今日は給湯室で佐藤さんと繰り返している。
首を傾げている佐藤さんには、ありのままを伝えよう。
「わたしが知っている限りの、社内外の超個人的情報です」
「超個人的情報……」
「はあ……」から「はあ?」となっている佐藤さんに、とりあえず部長について書いた紙を指差した。
「部長は、相手にチョコを出す時は必ずダイエットチョコを出すようにって伝えたでしょ?でも、どこのものでもいいわけじゃなくて。このメーカーのカカオ80%は一番カロリーが低いのに、甘く感じるの」
「はい」
怪訝な顔をしていた佐藤さんも、ようやくどんな資料かわかってくれたみたい。
真剣な表情に変わって、じっくりと紙の上の文字を追い始めた。
いやこれ、部長のチョコレートの好みだからね?
一つ一つを説明しても、わたしはやっぱり「いるのか、これ?」っていう気分にしかならない。
けれど真面目な佐藤さんは違うのか、何度も何度も頷いてくれる。
こうなると、偉いなあと思ってくるよね。
わたしも真面目だろうけれど、それだけだもん。そりゃあクビになるわ。
社内外の知りうるすべてが書いてあるから、逐一説明するには時間が足りない。
あとは暇な時に見て、わからないところがあったら訊いてと伝えたら通常業務に戻ることにした。
「わかりました。ありがとうございます、沢村さん」
わたしが勝手に想像していた顔を引きつらせることはなく、今日も最敬礼をしていく佐藤さん。
わたしも戻るかと振り返ったら、逆に訊きたいことがあると言われてしまった。
「なに?」
「その、給湯室に似合わない三十センチ定規って何に使うんですか?」
「ああ。……それは、ねっ!」
話している最中に、ちょうどよく定規の使い道がやってきた。
これ幸いと定規をつかんでバシンッとイイ音を鳴らしたら、小さな悲鳴とカエルを潰したような声が給湯室に響いていった。
「勝手にお菓子をつまむな!」
「ぐえぇっ!!」
「きゃっ!?」
パシンと定規を自分の手のひらに叩きつけたわたしと目をまん丸くした佐藤さんに、震えながらのけぞっている部長。
「……って、部長!?」
「ひどいよ、サワちゃーん」
「このお茶菓子は、お客様優先っていつも言ってるでしょう!?」
何でここに部長がと固まる佐藤さんを無視して、「フーフー」と叩かれた手の甲をさすりながら涙目の部長に、容赦なく定規を突きつけるわたし。
「佐藤さん」
「はい!」
部長から目を離さないまま佐藤さんを呼んで、ちょうどいいから実戦もかねようか。
「さっき渡した資料の部長のところ。太字で書いてあるのは、こういう意味です」
どんな時でも真面目な佐藤さんは、「少しお待ちください」と断ってから手元の紙の束をめくっていった。
「なに、資料の部長のところって?」
ジトッと恨めしげな部長の問い掛けには、律儀に佐藤さんが答えてくれる。
「では、読み上げます。『部長は給湯室のお菓子を狙ってくるので在庫管理を徹底すること。現場を見つけたら、ええと手の甲の、親指と人差し指の間を叩きつけると腕が痺れます』??」
うむ、佐藤くん。よく読み上げてくれましたね。
もう一度、パシンと自分の手のひらに定規を叩きつけて、まだ痛がっている部長に向き直って、しっかりと引き継ぎをしていきましょうか。
「家でもダイエットと言われて、甘い物は一切与えられていない部長です。しかしこの会社には鍵のかかっていない戸棚に、あらゆるお菓子が入っています。なので我慢できなくなると、こうして狙ってくるんですよ」
部長の目の前で「必ず金曜に来ます」と言ったら、来週から変える恐れがある。それでは引き継ぎの意味がない。
せっかく今のところ守り続けているのだからと、そこは口に出さないでおく。
注意事項の最後まで読み込んでくれた佐藤さんに視線を向けたら、小さく頷いたので伝わったみたいだ。
そろそろ免許皆伝ならぬ、お払い箱だね、わたしは。
武器である定規も手渡していくわたしを、まだ残っていた部長が「ひいぃっ」と縮み上がって首を振る。
「ダメダメ!お茶係は頼んでも佐藤くんまで定規を振り回すまでは頼んでないよ、困る!」
部長命令というには情けない内容を、堂々と言ってくる太鼓腹のオジサン。
そっちには両手を腰に当てて、ジロッと思いっ切り睨んでおく。
「部長が意地汚く、会社の経費で買ってるお菓子まで狙わなければいいんですよ」
「だってサワちゃん、ちっとも甘いものくれないんだもん!」
昨日だって苦いチョコだったと、なるべく甘い口当たりを選んだのにこの部長は、まったく……。
「その腹を引っ込めたら、自腹でホールケーキ買ってくるっていう約束、ちっとも果たせないまま何年経ったと思ってるんですか」
今度はわたしと部長の言い合いに、間に立ってる佐藤さんがオロオロし出した。
でもこれもいつものことで、ここまででワンセットなんだから問題ない。
「わたしが退職する月末まで、せめて三キロは痩せてくださいね」
「……頑張るよ」
それでも今日は別な捨て台詞を言ってやったら、さすがに部長もしょんぼりしてしまった。
まったく……。
最初に約束してから、何年経ったと思っているんだか。
果たされないまま去りそうってことに、今頃、気が付かないでほしいよ。
遅い!