4話:資料
「なんですか、これ?」
「個人情報」
辛口の白ワインをたっぷりのオレンジジュースで割って飲んでいる後輩ちゃんに、わたしは出来立てほやほやのとある資料を渡してみた。
本人が見たいって言ったこともあるけれど、第三者から見て必要かどうかの確認もしてもらわないと。
ほとんどジュースなワインを飲んでいる後輩ちゃんは、見た目通りにお酒が強いわけではない。
だからグラスの半分が過ぎる前にと、慌てて渡したんだけど……。
鍋の中身は明日のわたしのおじやと、後輩ちゃんのうどん分しか残っていない。
後輩ちゃんが買ってきたサラダは食べたし、わたしが作ったきんぴらもキレイに食べ尽くしたあとだ。
具が寂しくても、卵でとじるから朝食分はこれでいいかと蓋を閉じた。
酔い覚ましのリンゴをシャクシャクと食べながら、資料を見ている後輩ちゃん。
……無言だ。
もしかしなくとも、すでに酔いが回って眠いのかな。
リンゴとワインを交互に口に運んでいる後輩ちゃんを大丈夫かと見つめるわたしに、ふわふわの髪を横に揺らして変な顔をしていった。
どこか気になるところがあったのかな。
「先輩。この上の、不自然な空欄ってなんですか?」
ああ、そっちね。
よく呼ばれている名前と好みの間にある、妙な空欄が気になったらしい。
「それこそ持ち出したらヤバイ、超個人情報を書いたところ」
これはさすがにマズいだろうということで、印刷の前に削ったのだ。
だって家族構成や住所に実家は調べればわかることでも。個人所有のアドレスやIDまで書いたものを落としたり失くしたら、首が物理的に飛ぶではないか。
けだるげに髪をかき上げた後輩ちゃんは、「それもそうですね」と軽く頷いてくれた。
うーん、絵になる。何をしても可愛らしいとは、同じ人類なのだろうかと不安になるな。
まあわたしが後輩ちゃんのような可愛さをもらっても、使いこなすどころが結局埋もれてしまうだろうけれども。
そのまま資料をめくっていた後輩ちゃんが、「ふぅん?」と呟いたら小首を傾げて戻してきた。
「これは佐藤さんに渡さないと、ウチの会社は潰れますね」
「潰れる!?」
そ、そんな恐ろしいこと書いたっけ!?
慌てて見直しても、書いてある内容はお茶やお菓子の好みだけだ。社内の人たちは、ここにコピーの好みも書いてあるくらいのはず。
「脅かさないでよ」
「脅かしてません。真実です」
後輩ちゃんの言い方だと、紙とインクの無駄だと怒られる事態にはならなさそうで安心だ。
けれど渡さないと会社が潰れるとは、ちっとも穏やかじゃない。
「さすがに部長のコピーの好みとかは、まあまあいらない内容ですけど。この先も取引してくれる人たちの好みなんて、知っていて当然っていう内容ばかりじゃないですか。これは先輩がちゃんと引き継ぎしないと怒られますよ」
お茶くみとコピーは特にしつこく訊いとけと、岸さんが佐藤さんに言ってくれていたらしい。
けれどわたしにはとっても当たり前のことで、特に必要のない物だと思っていたことばかりだ。
真剣な表情の後輩ちゃんには悪いけれど、やっぱり必要なくないと首を傾げたら呆れた溜息を吐かれてしまった。
「はー……。ダメですよ、先輩。っていうか、そーゆーところが先輩の悪いところですよね。誰にも頼らないと・こ・ろ」
「……頼るような内容じゃないし」
お茶はお茶で、コピーはコピーだ。
それは誰がしても同じ仕事っていう意味で、それ以上でもそれ以下でもない。
「そんなわけないでしょ?今日来ていた寺田さんだって、せんべいが好きなことも梅味なら茎ワカメでもいいってことも誰も知らないんだから」
「有名じゃないの?」
「全然」
古い付き合いの寺田さんの好みを、誰も知らないと後輩ちゃんは言う。
「……じゃあみんな、取引先の何を知ってるの?」
「それこそ、ここに書かなかった超個人情報ですよ」
住所に家族構成、ペットの名前は普段の会話から知ることで。
それでも何度も、っていうか毎月来てる人のお茶の好みを何で誰も知らないの?
そっちの方が意味がわからなくて首を傾げるわたしに、「だからこの資料が必要なんでしょ」と、タンッと叩いて言いきった。
「はあ?」
「先輩にとってはイマサラな内容だから、不思議でしょうけれど」
呆れているような諦めているような、そんな溜息を吐いたら資料をずいっと戻してきた。
「どうせならその空欄に、先輩がいらないと思ってることも書いてみたらいいんじゃないですか?」
「これ以上にいらないこと……。森田くんが方向音痴とか?」
でもこれは、営業のサポートをしている佐藤さんは把握していることだろう。
「営業が方向音痴って、周りが知っていないとフォローできないじゃないですか」
「うん。だから新しい取引先に挨拶に行く前とか、久しぶりの場所に行く時には、必ず詳しい地図のコピーを渡しているの」
あ、わたしが用意していたら佐藤さんは知らないか。
考え込んだわたしに、後輩ちゃんがもっと顔を歪ませてしまった。
「そーゆーのをもっと付け加えたら佐藤さんは助かりますよ、きっと」
何とも言えない顔をしながらも、まだ資料として不十分だと言われてしまう。
それでも追加すれば使えると言うのなら、後輩ちゃんがお風呂に入っている間、空欄を埋めてみようか。
でもきっと、部長のチョコレートの好みはこれ以上詳しく書かなくてもいい気がするけれども。
「わぉ……。なかなかカオスな資料になりましたね」
「うん、まあ」
お風呂上がりでスッピンのはずなのに、それでも髪と睫毛のカールはそのままな後輩ちゃんは、もしかしなくても最強なんじゃないの?
マジマジと見つめるわたしの視線を無視して、残りのワインにオレンジジュースを勝手に入れて座り直した。
え、待って。肌がツヤツヤなんだけど。それは化粧水と乳液だけなの?
二十代の自分と比べても違う艶に、思わず頭を抱えたくなってきた。
……今日はコットンに化粧水をたっぷり染み込ませたパックをしよう。それなら少しはもち肌になるはず。
新しく書き足した資料を見直した後輩ちゃんを置いて、今度はわたしがお風呂に入る。
後輩ちゃんにカオスだと言われてしまった資料を、佐藤さんは何て言うかな。
「んー……まあ、いいか」
お風呂の中からしていたパックのまんま戻ったら、ものすごく爆笑された。
顔面コットンで覆われたわたしは、我ながら面白いと思う。
「それ、外でやったらダメですからね。特に男の人の前!」
「そんな状況はこの先もないから問題ないよ」
このコットンパックをするってことは、かなり気が緩んでる場所に相手ってことで。
それはつまり結婚手前かその辺りの関係になっているってことだろうから、この先もまったくないと言い切れる。
「あるかもしれないじゃないですか」
「万が一にでもないよ」
「そうですか?億が一くらいなら……」
「もっとないじゃん!」
万が一でも控えめな言い方なのに、億ってなんだ、億って。
「あー笑った」
「はいはい」
明日も仕事だから、そろそろ寝ようと布団を敷いていく。
「そっか。先輩って畳アリ物件探してまでの敷き布団でしたね」
「うん。丸洗いしたいから」
それでも明日の朝に洗う予定だったから、リネン類は三日目なんだよね。
シーツの上にバスタオルを敷くのはどうだろうかと考えていたら、後輩ちゃんが素早く潜り込んでしまった。
「あっ、まだタオル敷いてない!」
「一ヶ月じゃなくて三日くらい、綺麗ですって」
そういうものかと電気を消して隣りに入る。
手を繋いだこともだけれど。
家で誰かとご飯を食べたことも、こうして一緒に眠ることも久しぶりだなあ。
えーと、とにかく明日の朝は洗濯をしながら風呂掃除をしよう。
朝食の用意もいるから、順番を間違えないように効率よく動かないと。
目を閉じながら朝の予定を組み立てていたら、隣りが少しだけ動いた。
暗闇で大きな目が向けられると、ちょっと怖いな。
「そういえば、なんで先輩には社長が直々に伝えたか知ってました?」
「ううん。部長も誰も知らなかったよ」
わたしも心当たりがないと首を振ったら、逆に小首を傾げていった。
「先輩の入社の時の面接担当、当時はまだ専務だった社長だったからですって」
「え?」
そんな理由で?
直属の上司がいないからかと思ったら、採用したのは自分だからと社長が名乗り出てくれたとは。
「変な社長だね」
「そうじゃなくて……、まあいいや。先輩が他の人の好みを知ってるように、周りの人だって先輩を見ていたってことですよ」
やっぱりちょっと呆れながら、静かに後輩ちゃんが眠りについた。
「ふぅん?」
岸さんが、わたしがたまに飲んでいたココアを餞別でくれたように。
後輩ちゃんの言葉で、もうすぐやめる会社について初めて考えてみた。