8話:最後の帰り道
無事に岸さんともう一人を見送ったら、今日はわたしの番だ。
「たこわさ、気に入るといいんだけどな」
岸さんにはリクエスト通りのたこわさで、もう一人にはお茶を贈った。
毎日、何杯も飲むくらい気に入っているお茶の葉は、あんまり他では売ってないんだよね。
「このお茶も、取引先の商品の一つでしたね」
ちょっとお高いお茶は、部署のみんなからということにしてもらった。
出資者の一人である佐藤さんが給湯室のお茶を見ながら、そんなに貴重だったのかと首を傾げる。
「取引先から直買いしてるから、外で買うよりは安いけどね」
一人では買いにくい金額だから、みんなが賛成してくれて助かった。
「岸さんのたこわさだって、沢村さんだけが出すつもりだったなんて」
「個人的に約束したことだから」
これも途中で訊かれて、考えていたところよりもイイ店のたこわさに変更できたのは助かった。……味見をする為の自腹は、ちょっと痛かったけれども。
「経費で落とせば良かったんじゃないですか?」
「さすがに無理でしょ」
事業を縮小する会社の経費を使ったら困るはずだ。品目がたこわさって、絶対に経理の人が困惑するだろうし。
わたしの送別会も一緒にやってもらって、会費が浮いたのは良かったな。日本酒が美味しい店っていうのも、さすがの佐藤さんチョイスだよね。
「それも、沢村さんのメモ通りですよ」
「?」
あの店は良かったなあと振り返っていたわたしに、佐藤さんが何かを呟いた。
「何か言った?」
「これから頑張ります」
「うん、よろしくね」
さて、最後の日もいつも通りに過ごしていこうか。
給湯室も机周りも片付いたけれど、コピー室はまだだったな。
紙は足りるかインクはどうかと調べているところに、ふわりといい香りが漂ってきた。
「先輩、今日の夕飯はどうするんですか?」
今日も大きい瞳にくるんとカールした完璧睫毛の後輩ちゃんが、ふわふわの髪を揺らしながら尋ねてくる。うーん、今日もいい香りを纏っているなあ。
私物はそんなにないかと思っていたら、十年以上いた場所にはそれなりに荷物があった。
コピー室も片付けるわたしに声を掛けてきた後輩ちゃんに振り向いたら、夕飯のメニューを教えようではないか。
「白米に味噌汁。メインはエビフライと唐揚げに、漬物」
エビフライも唐揚げも、ちゃんと自宅で揚げる。
熱々を食べたいっていうこともあるけれど、残ったエビと鶏肉を別に使う目的があるのだ。
最後の晩餐がそれでいいのかと引いていた後輩ちゃんが、前に食べた鍋みたいなものかと納得してくれたらしい。
「それに、これから電気代がかかるでしょ?ちょっとでも作り置きして節約しないと」
「電気代?……ふぅん」
実家暮らしの後輩ちゃんは、電気代ということも節約という意識もないらしい。……うらやましい。
「エビは、エビチリとか?」
「うん。鶏肉はほら、それこそ色々使えるし」
結構大きめの塊肉を買ったから、ミンチにしてそぼろもいいかもしれない。
「鶏肉のミンチなら、そぼろよりも肉団子派です」
「それもいいね」
玉ねぎだけじゃなくて、春雨を入れて水炊きも良いかな。
後輩ちゃんの言葉に、これから先のメニューを組み立て直しながら。
コピー機本体も磨いて、紙の在庫をメモったらここも終了だね。
よし。自分の痕跡はこれでまったくどこにもないことだろう、完璧。
「何か犯罪でもあったんですか?」
「ないよ」
あまりにも綺麗にしていくわたしに、後輩ちゃんがもっと物理的に引いていく。
犯罪ってなんだ。あるわけがないだろう、失敬な。
「だって、あまりにも掃除が念入りだから……」
「そりゃあ、お世話になった場所の掃除は念入りにするよ」
給湯室もコピー室も、ほとんど毎日、過ごしていた場所だ。
意外とあちこちに自分の物が置いてあったなら、回収しないと困るでしょ。
「クリップとかペンくらい、残しても良いと思いますけど?」
「会社の備品なら返すけど、自分で買ったものなら残しちゃダメだよ」
マーキングとか思われても困る。それに文房具なら次の職場でも使えるだろう。
「ああ、そっか。先輩は来週からいないんでしたね」
「うん」
ポケットの中も机の引き出しも、もちろんロッカーだってスッキリだ。
「ふぅん……」
一人分しか用意していない夕食なら、鍋の時のようについていくことはダメだと判断したらしい。
落ち着いたらご飯に行く約束だけして、後輩ちゃんはサッサとコピー室から出て行ってしまった。
「何の用だったんだろう?」
まあいいかとコピー室をぐるっと見回し、一礼をしたら扉を閉めた。
「それでは、お世話になりました」
朝礼でも伝えたけれど、退社時間の鐘が鳴ってからも部屋に残っている人たちに挨拶をする。
タイムカードに時間を押したら、このまま経理の所まで持って行くことになっている。残業になるけれど、それが仕事なら仕方がない。
キッチリと今日も同じ時間にタイムカードを押して、軽く手を振っている人たちにお辞儀をして。
そのまま部屋を後にしようと、回れ右をする為に足を動かす。
花束と同じく、見送りも何も必要ないと伝えてあるからアッサリだ。
「元気でね、サワちゃん」
「はい。部長はもう少し痩せてください」
「……う、うん」
視線をさ迷わせていることからも、今日までに三キロ痩せることは叶わなかったらしい。むしろ肥えたみたいだもんなあ。
「佐藤さんにまで叩かれないように気を付けてくださいよ」
「定規まで引き継がせないでって言ったのに……」
「金属じゃないだけマシでしょ」
ちょっと痺れるだけの威力しかない、プラスチックの柔らかめにしてあげたじゃないか。
「絶対に優しさの方向が間違っていると思うよ」
「部長が痩せればいいだけですよ」
お腹を指しながらも、最後までアッサリめな挨拶を交わしたら。
部長の後ろでニコニコと定規をつかんでいる佐藤さんに後は任せて、もう一度、お辞儀をして今度こそ部屋から出て行くことにした。
「お疲れ様でした。元気でね、沢村さん」
「遅くなってすみません。お世話になりました」
タイムカードを渡したら、経理の人たちにも挨拶をしていく。
年末が近いからか結構な人が残っているなあ。お疲れ様です。
「離職証明書と一緒に、源泉徴収の用紙も送りますね」
「わかりました。お手数おかけします」
社名が入っている保険証も返したら、これで本当に退職が完了だね。
「市役所に行けば、保険証を作ってもらえます。同時に年金の手続きもしてくると良いでしょう」
保険証がないと、色々困る。
退職してから二週間以内に諸々の手続きをするように言われ、明日からの予定が決まっていく。
「離職票がないと、ハローワークに行っても手続きができません。なるべく早めに届くように頼みますが、委託先の経理事務所から送られることになります。二週間前後でしょうか……」
「は、はい」
メモも何も全部処分した後に、こんなに言われると混乱してくるな。
なるべく覚えて、わからなくなったら調べよう。
やることを考えながら指を折りながら頷いているわたしに、ここで言い過ぎても困るだけだと気付いたらしい。小さく微笑んだら、保険証と年金の手続きの書類はここにまとめてあると封筒を渡してくれた。
……助かった。
「退職金や失業保険など、振り込まれていなかったり減額されていたら連絡をください。すぐに処理をしますので」
「はい、ありがとうございます」
ニコリと微笑んだ経理の人の、処理という言葉がちょっと気になる。
まさか社長室に乗り込んで、ネクタイを締めあげたりするんじゃないだろうか。
それでもこれから冬に入ることで、電気代が心配だ。振り込みが遅いのも減額も困る、非常に。
何かあったら頼ると言って、一礼をしたら経理の部屋からも静かに出て行くことにした。
「遅かったじゃないですか、先輩」
「タイムカードを渡しに、経理の部屋まで行っていただけだよ」
まだ着替えていないことから、後輩ちゃんも残業らしい。みんな忙しいね。
経理なら仕方がないかと納得した後輩ちゃんは、髪も睫毛も艶々だ。さすが。
「落ち着いたら、ご飯を食べに行きましょうよ」
「……後ろで見ている男の子はいいの?」
いつかもじとっと睨んでいた別な部署の男の子が、今日もじいいっと柱の影から見つめている。
まったく振り向かない後輩ちゃんはふんわりカールをかきあげたら、キッパリと言い切った。
「誘っているのは先輩なんですから、他の人はいりません」
「それはどうも」
またしても誤解が生まれそうな言葉だな。しつこい誘いを断る口実になるなら、いいか。割り切ることにしよう。
わたしは今日でいなくなる人だ。この先の後輩ちゃんが過ごしにくくないなら、いいってことにするよ。
声が聴こえたのか、すごすごと男の子が背中を向けた。
それでもまったく視線を向けない後輩ちゃんは、わたしに向かって袋を差し出してきた。
「なに?」
「餞別です」
花束も何もいらないと言ったことで、その分、退職金を上乗せしてもらえることになったはずなのに。
「聞いていますし知っています。でも、それだけじゃダメじゃないですか」
「はあ……、ありがとう」
「他の部署の人たちにも声を掛けたんですよ」
フフンと少し得意そうな顔の後輩ちゃんから受け取ったら、何が入っているのか中身を見ることにする。
わたしからのお礼も、伝えてもらえるように頼もうか。
「ん?」
有名な旅行会社のロゴが見えたことから、大体の想像はついたけど。
「ちょっと、これは多すぎない?」
「旅行代金全額分の商品券は無理でしたけど、少しは足しになるでしょう?」
「なるけど……」
丁寧に包装された箱の中身は、旅行に使える商品券で。
さすがにヨーロッパ一周できる金額ではないけれど、一万分も入っていれば困惑してくる。
「声を掛けたと言ったでしょう?先輩は長かった分、無駄に知り合いが多いんですから、こういう時に使わないと」
「いや、でも」
誰が出してくれたんだろう。聞いてないぞ。
十人なら一人千円だし、二十人なら五百円で済むと言っても、軽く受け取れない金額ではないか。
「餞別なんだから、黙って受け取って使ってください。どうしても気になるなら、お土産話を聞かせてくれればいいですから」
物じゃなくて話だけでいいと言って、グイグイと背中を押していく後輩ちゃん。
「……」
ここでグチグチと言ったら、最後の最後に格好悪い。
「わかった。ありがとう」
「ご飯、忘れないでくださいね」
「うん」
軽く握手をしたら、いつものようにふんわりといい香りとカールをなびかせる。
背中を向けた後輩ちゃんにも、一礼をしたら扉に足を向けていった。
商品券が入った袋の中には、ハンドクリームも入っていた。きっといつも使っているお気に入りの、花の香りがする物かもしれない。
「花束はいらないって言ったのに」
餞別が入った袋を揺らしながら、最後の帰り道を歩くことにしよう。