互いに一歩前進
ちょっと寝不足気味。
次回は日曜までに更新したい(更新できるとは言ってない)。
朝起きると小さな女の子が俺のベッドの上で寝ていた。
なんだ!?
何が起こった!?
まさか……三十年遅れのクリスマスプレゼント?
サンタさんが異世界まで出張してきたのか!?
と、昔見たアニメ作品を思い出して混乱と興奮の渦にのまれ騒いでしまったが、よく見ると知っている顔をした女の子だった。
そういえば昨日女の子を拾ったんだったなぁと思い出しながらベッドの上で寝息を立てているサーシャちゃんの髪に触れてみる。
昨日触れたときと同じく気持ちのいい手触りだ。
別々のベッドで寝ていたはずなのにどうして同じベッドの上にいるのかと思わなくもないが気にするようなことでもない。
可愛い女の子がベッドに潜り込んできてくれたのだ。
こんなに嬉しいことはない。
そう思いながらサーシャちゃんの寝顔を眺める。
可愛い。
可愛すぎる。
手を動かし髪をかき上げるとチャーミングなおでこが見えた。
思わず頭をひと撫で。
サーシャちゃんの赤い髪が俺の手の下でさらさらと流れる。
「んぅ」
小さな声を上げながらサーシャちゃんの口元が少し緩む。
撫でられたのが気持ちよかったのだろう。
幸せそうな顔をしている。
とりあえずもうひと撫でしてからベッドを出る。
この世界に来てからの朝の日課。
ラジオ体操をしながら今後のことを考える。
保護者になったからにはサーシャちゃんのために色々としてあげないといけない。
金の心配はしなくてもいいだろう。
しばらく働かずとも生活していけるだけの蓄えはある。
となると、まずは安心感を与えてあげるべきだな。
俺がサーシャちゃんを見捨てることはないとサーシャちゃんが理解するまではサーシャちゃんとずっと一緒にいた方がいいだろう。
サーシャちゃんを置いて依頼に行くなんてのは絶対にダメだ。
俺に捨てられたと勘違いして思い切った行動をとってしまうかもしれないからな。
そんなことはないと思うが漫画なんかだとそういう展開が結構あるからな。
勘違いさせるようなことはしないように気をつけよう。
あとは、昨日決めたことをやってもらおう。
サーシャちゃんには俺の周りの世話をしてもらうと決めたからな。
しばらくはメイド見習いみたいな感じで俺と一緒にいてもらうことになる。
といっても、メイド長はいないし教えるのも漫画なんかから仕入れた俺の半端なメイド知識なんだが。
まぁ、俺が満足できるような仕事ができればいいだろう。
本格的なメイドになる必要はない。
俺としては、サーシャちゃんみたいな可愛い子がそばにいるだけで十二分に満足してしまう。
俺を満足させることがサーシャちゃんの仕事なのだとしたら、サーシャちゃんのメイドとしての仕事はもう完了しているとも言える。
なんてことを言うとメイド好きなやつらから苦情が来そうだが。
もともとメイドにするために雇ったというわけでもなし。
サーシャちゃんがメイドとして相応しいかどうかは気にしなくていいだろう。
さて、仕事も大切だが、生活の基本は衣食住だ。
住はこの宿で十分。
食も一日三食。
なんならおやつに間食も与えてあげられる。
となると、残りは衣。
昨日は服を買うような時間はなかったからな。
今日はサーシャちゃんの服を買いに行こうと思う。
この世界では地球の各種制服なんかも売られている。
買うのはもちろんメイド服だ。
「あれ? ここ……あっ、お、おはようございます!」
「おはよう、サーシャちゃん」
サーシャちゃんが起きたようだ。
身体を起き上がらせ寝ぼけた顔できょろきょろしていたと思ったら慌てた様子で急に挨拶をしてきた。
昨日俺に保護されたことを忘れていたみたいだ。
おそらく「ここどこ?」とでも言おうとしたところで俺の姿を見つけ自分が保護されたことを思い出したのだろう。
慌てたサーシャちゃんも百点満点な可愛さだった。
「調子はどう? よく眠れた?」
「は、はい! よく眠れました!」
「それはよかった」
俺の質問に対し緊張したようなサーシャちゃんの声が返ってくる。
表情も固く、身体も背筋を伸ばした状態でぴしっと固まっている。
俺はというと、できるだけ優しい笑みを浮かべるように意識しながらサーシャちゃんに声をかけている。
サーシャちゃんが可愛すぎるせいで、意識していないと気持ち悪いにやけ顔になってしまいそうだからな。
これでも十年以上働いてきた身だ。
何種類かの笑顔を意識的に使い分けるくらいはできる。
「もう少ししたら朝食にしようと思うんだけど何か食べたいものはあるかな?」
「い、いただけるなら何でもうれしいです!」
出会ってから一日も経っていないから仕方ないとはいえ、まだ遠慮があるな。
苦手な食べ物とかないのだろうか。
それを訊くとさらに恐縮しちゃいそうだから質問しないが。
もし食べにくそうにしてるものがあったらさりげなくもらってやればいいだろう。
今日の朝食はこの宿の隣の食堂でいいか。
この時間ならもう開店しているはずだ。
「今日はこの宿の隣の食堂で朝食をすませようと思う。もう少ししたら部屋を出るから準備しておいてね」
「わかりました!」
サーシャちゃんの声から固さがとれない。
ずっとこの調子だと話し辛いから早く普通に話してもらえるようになりたいと思う。
しかし哀しいかな。
今まで子供の相手をしてきた経験がないせいでどうやったら子供と打ち解けられるのかわからない。
地道に仲良くなっていくしかないだろう。
準備しておいてね、とは言ったもののサーシャちゃんの支度はもう終わっている。
サーシャちゃんは昨日追い出された店に住み込みで働いていた。
食と住を保障してもらうかわりに賃金の支払いはなし。
家族がいなくなり、着の身着のまま夜空の下に放り出されたサーシャちゃんは物を買う余裕なんてなかった。
つまり、サーシャちゃんの持ち物はいま身に付けている服と昨日俺が購入してあげた生活用品数点だけだ。
着替えも持っていないため準備するようなことはない。
強いて挙げるならしっかりと目を覚ますことが準備になるだろうか。
「じゃあ行こうか。はぐれないように手でも繋ぐ?」
「はっ、はい」
サーシャちゃんがおずおずと右手を伸ばしてくる。
手を繋ぐというのは冗談のつもりだったんだが。
少し驚きながらも左手でその手を握り返してあげる。
温かい。
緊張したりすると手が冷えると聞いたことがある。
ということは、サーシャちゃんは実は緊張していないのだろうか。
いや、やはりどう見ても緊張している。
身体の動きも表情もぎこちない。
子供は体温が高いから温かく感じるのだろうか。
それとも緊張すると手が冷たくなるというのは嘘だったのだろうか。
緊張している人の手なんか握ったことないからわからないな。
「ど、どうかしましたか?」
繋いだ手を見つめたまま一歩も動かない俺を見て不思議に思ったのか、サーシャちゃんが見上げるように質問してくる。
見上げるように、というか実際に見上げられているのだが。
サーシャちゃんの背丈はまだ低いからな。
「いや、なんでもないよ。それじゃあ行こうか」
「は、はひっ」
何気なく頭を撫でながら返事をしてしまったらサーシャちゃんが変な声を上げてしまった。
それが恥ずかしかったのか顔を赤くして斜め下を向いたサーシャちゃんが可愛くてさらに頭を撫でてしまう。
サーシャちゃんの顔がどんどん下を向いていく。
可愛すぎる。
マジ可愛い。
なんだかさっきからずっと可愛いと思い続けているような気がする。
というか、可愛い以外の感想が出てこない。
語彙が貧弱になっているな。
まぁ仕方ない。
実際に可愛いのだから。
サーシャちゃんの可愛さを前にしたら可愛い以外の言葉は出てこないのだ。
俺の語彙力が低下した原因はサーシャちゃんの可愛さだ。
何が悪いかと訊かれたら「サーシャちゃんの可愛さが悪い」と答えるが『可愛いは正義』という標語もある。
三段論法を用いるならば、
可愛いが悪い。
しかし可愛いは正義。
ゆえに正義が悪い、となる。
つまり正義は悪だったのだ。
この世界には魔王と勇者がいるらしい。
世界的には勇者が正義で魔王が悪ということになっている。
しかし正義は悪だ。
ということは本当は勇者こそが悪者ということになる。
そして俺は神様的な存在から『君が何もしないと二十年以内に世界が滅びるから。もし長生きしたいなら頑張ってね』と言われている。
俺に都合の良いように世界を調整したり俺にチート能力を与えたりした影響が世界の滅亡という形で現れることとなったらしい。
要するに俺が転移してきたせいで世界が滅びそうになっているのだ。
世界が滅びる理由として考えられる一番の理由。
それは魔王と勇者の存在だ。
魔王と勇者の存在。
正義は悪。
ここから導き出される結論はただ一つ。
勇者をぶっ殺せばいいということになる。
正直に言ってしまうと世界なんてどうでもいい。
滅びるなら勝手に滅びろという感じだ。
しかし、俺が誰かと恋愛をしてDTの称号を捨てるまでは滅びないでほしいとも思う。
そしてその称号を捨てたのなら称号を捨てさせてくれた相手の未来を守るために世界の滅亡を止めようとするのではないかと考えられる。
俺が本当に恋や愛を求めるのであればいつかは勇者を倒すことになる。
ならば今から対勇者戦に備えて鍛えておくべきだろう。
そもそも俺が勇者を倒さないとサーシャちゃんの未来がなくなってしまう。
なんということだ。
俺はもうすでに勇者を倒す理由を手に入れてしまっていた。
なんて馬鹿なことを考えてるうちにいつのまにか食堂に入り注文も終わっていた。
目の前のテーブルの上には二人分の朝食が並べられている。
「さあ頂こうか。いただきます」
「いただきます」
二人そろって両手を合わせ挨拶をしてから食べ始める。
勇者をぶっ殺す云々は後回しだ。
世界を救おうだなんて考えは俺にはまだない。
恋愛をすることで頭がいっぱいだからな。
世界を救うかどうかなんてのは恋愛を経験した後に考える話だ。
今はどうでもいい。
ちなみに俺の価値観では『可愛いは絶対』だ。
可愛いは善悪を超越した絶対正義として君臨している。
絶対正義は正義とは違うから悪にはなりえない。
よって、サーシャちゃんがいくら可愛かったとしてもその存在が悪になるなんてことはない。
可愛いは正義。
正義は悪。
ゆえに可愛いは悪なんて論法は俺には通じないのだ。
そもそも、可愛いは悪なのであればこの世界の女性は全員悪ということになってしまう。
「お、このサラダ美味いな」
「はい、おいしいです」
サーシャちゃんと仲良くなりたい。
しかし、何を話せばいいのかわからない。
ということで、とりあえず朝食の味を話題にしてみた。
しかし話は続かない。
上司、同僚、後輩、取引先なんかが相手ならここからどうとでも話を広げられるんだが、さすがにこの年頃の子相手の話のつなげかたなんてわからない。
子どもとは無縁の生活をしてきたからな。
俺が七歳くらいのときはどんなことを話していたっけか。
薄っすらと思い出せるのは男友達とのくだらない会話だけだ。
女の子と会話した記憶はない。
そうか。
俺はこの頃から女子との関わりが希薄だったのか。
当然、サーシャちゃんとの会話の糸口になりそうな思い出はなかった。
俺が知ってるサーシャちゃんの情報と言えば家族がいなくなったことと住み込みで働いていた店を追い出されたことくらいだ。
どちらも朝食の席で話題にするには重すぎる。
「あの、私、いいんですか? こんなによくしてもらって」
こちらの顔色を窺うようにたどたどしい口調で訊いてくるサーシャちゃんが可愛すぎて辛い。
俺はテンションが上がると大胆な行動をとってしまうことがある。
今もなんとか堪えられてはいるが、本当なら「サーシャちゃんマジ可愛い!」と叫びながらサーシャちゃんを両腕で持ち上げてそのままクルクルと回りたい。
しかし、これまでの人生における苦い記憶の数々が俺を踏みとどまらせる。
衝動的に行動して失敗した経験は数えきれないほどある。
もしここで堪えられなければ俺はサーシャちゃんから怯えられ、気持ち悪がられ、そして、最終的にはサーシャちゃんは俺の元から去っていくことになるだろう。
その後のサーシャちゃんはロクに働くこともできず、食事すらままならない。
もしかしたら奴隷にされるかもしれないし、もっとひどい目に遭うかもしれない。
結局のところ、サーシャちゃんの行き着く先は死だ。
俺から離れたサーシャちゃんは九分九厘、死んでしまう。
俺はサーシャちゃんを死なせないために保護したんだ。
サーシャちゃんが死ぬなんて未来は認められない。
だから我慢する。
「あ、ありがとうございます。おいしかったです」
俺が内なる衝動を抑え込むために内心で身悶えしているうちにサーシャちゃんは朝食を綺麗に食べ終えていた。
先ほどの質問には返答していないが、俺のにやけるような笑顔を見て肯定と受け取ったのだろう。
俺もすぐに食べ終え、サーシャちゃんと手を繋いでから店を後にする。
「これからサーシャちゃんの服を買いに行こうと思う」
「私の服、ですか?」
俺の言ったことの意味がわからないかのように訊き返してくるサーシャちゃん。
まさか服を買ってもらったことがないということはないよな。
今サーシャちゃんが着ているワンピースは近所の子のお古かなにかをもらった物なのだろうか。
「そうだよ。サーシャちゃんの服を買いに行くんだ」
「服を、買う?」
おいおいおいマジかよ。
まさかサーシャちゃんの来てる服って盗品か?
いや、そんなことはないはず。多分。
そうだ。
きっと、両親が服を作ってくれていたに違いない。
だから服を買うという発想がないんだ。
サーシャちゃんにとって服は買うモノではなく作るモノなんだ。
「サーシャちゃんは服を買ったことない?」
「いつも気付いたらテーブルの上にありました」
「ん? ……ああ、なるほど」
おそらく、サーシャちゃんのお父さんかお母さんがサーシャちゃんの服を用意してテーブルの上に置いていたのだろう。
サーシャちゃんは服をプレゼントされたことはあっても買いに行ったことはなかった。
だから、服はプレゼントされるモノであって、買うモノという認識はなかった。
もしかしたらテーブルから服が生まれてくるとでも思っているのかもしれない。
服屋を見たことはあっても入ったことはないに違いない。
今日がサーシャちゃんの服屋デビューということだな。
いや、服屋デビューだとなんか微妙だから、ブティックデビューと言っておこうか。
今日がサーシャちゃんのブティックデビュー日だ。
「いらっしゃあい」
行きつけのブティックの扉を開けると妙に間延びした気だるそうな女性の声が聞こえてきた。
声の主はこの店の店主だ。
腰くらいまである長い茶髪をぼさぼさにして、いつも目の下にクマを浮かべている推定年齢三十中盤の女性が店の奥のテーブルの上に身を乗り出すようにして寝そべりながら声をかけてきている。
その顔はこちらを向いていない。
俺たちに見えているのは頭頂部だ。
その頭頂部の持ち主はテーブルに左頬を載せるようにして横を向いている。
「アンナさん、この子に合うメイド服を何着か、それと下着を数枚お願いします」
店主のつむじに向かって話しかける。
行きつけの店と言ってもここで服を購入したのは三回ほどだ。
この世界に来てからはこの店でしか服を購入していない。
とはいえ、こっちに来てまだ日が浅い。
何度か依頼を受けて服の素材を納品に来たこともあるが、実際のところ行きつけと言えるほど利用していない。
店主のアンナさんも見た目は悪くない。
身だしなみが整っていなくても綺麗だと思えるくらいには容姿が良い。
しかし、中身が残念すぎる。
最初に見たときは恋愛対象の候補にも入っていたのだがその後のやりとりですぐに考えを改めた。
アンナさんは服のことしか頭にない。
常にコーディネートや新しい服のデザインのことばかり考え、そのせいで睡眠時間までも削ってしまっているような人と恋愛は無理だと思った。
ただ、一所懸命なところは尊敬しているし、服に対しての知識や感性は信頼している。
恋愛対象としては見れないがその性格や考え方は嫌いじゃない。
そんなアンナさんは俺の言葉にガバッと身体を起き上がらせるとすぐにこちらに近寄り、サーシャちゃんの頭から足の先までを眺めたあとサーシャを連れてバックヤードへと消えていった。
しかも、「ヨシトくん、閉店の看板立てといて」という言葉を残して。
不安そうな顔で連れ去られていくサーシャちゃんに「ここは服を買うお店でその人は店主だ。ちょっと危ない人だけど怖い人じゃないから大丈夫だよ」と伝えはしたが大丈夫だろうか。
心配になってきた。
たぶん、着せ替え人形のようにされるだけだとは思うが。
本当に大丈夫だろうか。
サーシャちゃんを品定めするように眺めたあとらんらんと輝きだしたあの瞳が思い出される。
明らかにテンションが上がっていた。
アンナさんも俺と同じでテンションが上がると暴走しそうだからなぁ。
この店にはあまり子どもは来ないと聞いているし、久しぶりの子どもを相手に興奮し、暴走してしまっているかもしれない。
そんなことを考えながら待つこと一時間、二時間、三時間。
いや、これ本当に大丈夫か?
全然帰ってこないんだが。
「アンナさん?」
あまりよくないことだとは思いつつも勝手にバックヤードに入る。
思っていたよりも広い。
奥に進んでいくと一つの扉に突き当たった。
その扉を開ける。
「ぐへへへ、その服もいいね。可愛いよサーシャちゃん。それじゃあ次はこっちの服に着替えてみようか」
聞こえてくるのはそんな声。
目に入るのは部屋の中心で疲れたような目をしている赤ずきんのような装いをしたサーシャちゃんとその周りに散乱している大量の衣服の山。
そして、新たな服を嬉しそうにサーシャちゃんに差し出す危ない目をした女。
黒っぽい怪しいオーラを放ちながらサーシャちゃんへとにじり寄っていくその女は明らかに正気じゃなかった。
ハァハァと息を荒げながらサーシャちゃんに近づく女とサーシャちゃんの間に身体を割り込ませる。
背中にはサーシャちゃんからの助けを求める視線と「たすけて」という、か細い声が届いている。
「アンナさん。アンナさん!」
正面にいる女に声をかける。
結構大きな声を出したつもりだったが聞こえていないようだ。
焦点の合っていない目でサーシャちゃんに近づこうとしている。
「アンナさん! アンナさん!!」
「うわ! ヨシトくん!? どうしてここに?」
よかった。
今度は正気を取り戻せたようだ。
目の焦点もしっかりと合っている。
声量の調節を誤ってサーシャちゃんとアンナさんを殺してしまうということもなかった。
「どうしたじゃないですよ。もう三時間も経ってますよ」
「え、そんなにかい!?」
「ええ、そんなにです。メイド服を数着と下着を頼んだだけなのになんですかこれは?」
そう言って部屋の中を見回す。
どう見てもメイド服ではない衣装が大量に転がっている。
どこかの民族衣装っぽいものからスモックやカーテンじゃねぇのかそれと言いたくなるようなものまで本当に雑多だ。
「言い忘れてましたがメイド服の丈はロングで。ヘッドドレスはカチューシャタイプとキャップタイプの両方を用意してください。色はブラック、ブラウン、ベージュ、グリーンの四種類をお願いします。エプロンも何種類か欲しいです」
このままだといつまで経っても着せ替えが終わりそうにないと思い少し細かく指定させてもらった。
本当はもっと細かく指定した方がいいのかもしれないが三時間も経ってしまっていることを反省しているようだしこのくらいでも大丈夫だろう。
服を購入できたのはそれから二十分後のことだった。
「いやー、ごめんねー。子どもが来ることなんて滅多にないからチャンスだと思って。サーシャちゃん、本当にごめんね?」
アンナさんがやっちゃったという顔をしながら謝るもサーシャちゃんは俺の背中に隠れてしまっている。
先ほどまで虚ろな目をしていたし精神的に相当きつかったのだろう。
服の好きな子ならともかく、サーシャちゃんは服には興味なさそうだったからな。
三時間の着せ替えは苦痛でしかなかっただろう。
アンナさんの顔も見たくないほどのトラウマになってしまったのかもしれない。
「俺ももっと早く様子を見に行くべきでした。アンナさんはちゃんと反省してください」
「はい、すみません」
「サーシャちゃんごめんね。怖かったよね」
俺の腰を抱きしめてくるサーシャちゃんを抱きしめ返して頭を撫でる。
「こわ、かった……です」
サーシャちゃんは俺の胸に顔を埋めたまま静かに泣き出してしまった。
顔だけ動かしアンナさんに白い目を向ける。
いたたまれないように身体を小さく縮こまらせるアンナさんを見ていると嗜虐心がそそられる。
この人はこういうタイミングでもないと人の話を聞かないからな。
今のうちに責めまくった方がいいかもしれない。
普段は一つの物事に集中していて他人の話なんて聞かないような人をイジメることができる。
そう考えると胸に湧き上がるものがある。
しかし、俺はいまサーシャちゃんの保護者だ。
サーシャちゃんのいる場で教育に悪いことをするわけにはいかない。
「じゃあ俺たちはもう行きますけど。もうこんなことはないようにしてくださいよ」
「はい。もうしません」
最後に釘を刺してからサーシャちゃんを抱き上げ店を出る。
アンナさんは今はしおらしい態度を見せているがしばらくしたらまたやらかしそうな気がする。
今後は気をつけておくか。
「もう大丈夫だからね。食べ物でも買って帰ろうか」
俺の胸元をきゅっと掴みながら頷くことで返事をするサーシャちゃん。
声は出さないのか、出せないのか。
まさかアンナさんがあそこまでおかしな人だったとは。
マッドサイエンティストみたいだったからな。
サーシャちゃんには申し訳ないことをしてしまった。
あとで何かお詫びをしないと。
いや、今でいいか。
「サーシャちゃん、何かしてほしいことはないかな? 怖がらせちゃったお詫びになんでもするよ」
高価すぎる物をねだられたり家族に帰ってきてほしいとか言われたりしたらどうしようもないが、サーシャちゃんはそんなことは言わないだろう。
俺のできる範囲内でならなんでもしてやるつもりだ。
「……」
何かしてほしいことがあるのか、サーシャちゃんの口が動くが音は出ない。
その後も宿に着くまでの間に何度かサーシャちゃんの口が開閉したが、その口から声が発せられることはなかった。
宿の部屋に入り、買ってきた透明なパックに入ったチャーハンと餃子をテーブルの上に置く。
神様的な存在の調整のおかげでこの世界でも地球の料理を食べることができる。
今回買ってきたのは材料から調理方法まで地球のものと全く同じチャーハンと餃子だ。
もちろん、この世界にしかない材料でアレンジなどされているものもあり、地球では食すことのできない味を楽しむこともできる。
この透明なパックがなんなのかはよくわからない。
見た目はほとんどプラスチック容器と変わらないがプラスチックではないらしい。
魔物から採れる素材で作られていると聞いたような覚えがある。
昼食をテーブルに置いた後は左肩にかけてあった鞄を床に置く。
この鞄の中にはサーシャちゃんの着替えのメイド服が入っているから踏んだり汚したりしないように部屋の端に慎重に置いた。
そして最後に、右腕に抱いているサーシャちゃんをベッドに下ろす。
両腕でサーシャちゃんを抱き上げていると金を支払ったり買ったものを持つのが難しかったため、昼食を買う際に右腕の上に座るように乗せることになった。
七才の子を片腕で抱いたまま長時間移動できたのは身体能力が向上したおかげだな。
地球にいた頃じゃこんなことはできなかった。
たぶん両腕で抱いていたとしても数分でギブアップだっただろう。
解放された両肩を片方ずつ回してみる。
特に凝ったりはしていないがなんとなくだ。
地球にいた頃の癖かもしれない。
「昼食にしようか」
「うん」
怖い目に遭って弱気になっているのか、それとも少しは打ち解けてくれたのか、先ほどからサーシャちゃんの敬語が崩れている。
良い傾向だと思う。
敬語が標準装備なのであれば問題ないが、そうでないのならずっと敬語というのは息が詰まるだろう。
たまにでもいいから本音で話してくれると俺も嬉しい。
「さっき言った何でもしてあげるって話だけど、今すぐ言わないとダメなんてことはないからゆっくり考えていいよ」
チャーハンを乗せたスプーンを右手に持ったサーシャちゃんがまだ少し赤い目でこちらを見ながら首を傾げる。
まさかさっき俺が言ったことを聞いてなかったのだろうか。
一瞬そう思ったがすぐにどちらでもいいかと思い直した。
聞いてなかったのならもう一度伝えればいいだけだ。
「サーシャちゃんのしてほしいことは何でもしてあげるよ。何かしたいことやしてほしいことがあったら言ってくれていいから」
これだと一回だけという文言が抜けているがまぁいいか。
もともとサーシャちゃんの望むことはできるかぎり叶えてやろうと思っていたんだ。
一回だろうが百回だろうが大した違いじゃない。
「俺とサーシャちゃんはこれからずっと一緒にいるんだから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」
そう言ったところでサーシャちゃんの手からスプーンが零れ落ちた。
テーブルの上にチャーハンが散らばり、スプーンの落ちた音が部屋中に響く。
続いて、滴がぽたり。
サーシャちゃんの目からまたも涙が溢れ出していた。
頬から顎を伝い零れ落ちていく涙の量が少しずつ増えていく。
え、なにか泣かせるようなことしちゃったか俺?
と困惑してる間にもサーシャちゃんの顔の上を涙が滑り落ちていく。
どうしよう、どうすればいい?
そんなことばかり考えて何もできないでいる頼りない俺。
テーブルの上に置かれたままだった俺の右手の上にサーシャちゃんの両手が重ねられる。
その手は冷たい。
緊張、とは少し違うようだが、精神的な影響で手が冷たくなるという話は本当だったらしい。
俺の右手を少し持ち上げ、両手で包み込むように持ち替えたあとその手を自分の右頬に当てるサーシャちゃん。
その表情は不安そうで、涙がたまっているせいか、瞳は大きく揺れているように見える。
「ほんとに、本当に、ずっと一緒にいてくれる?」
小さい声だったが確かに聞こえた。
強化された俺の耳はどんな音も聞き逃さない。
「ああ。ずっと一緒だ。どこにも行かないから安心してくれ」
唇をきゅっと引き結び、懇願するように問いかけてくるその瞳をしっかりと見つめ返しながら口にする。
口にした言葉は本心だ。
俺はサーシャちゃんを見捨てるつもりはない。
「ほん、と? ほんと、に?」
まだ不安なのか、サーシャちゃんはもう一度確かめてくる。
何度訊かれたとしても俺の答えは変わらない。
空いていた左手とサーシャちゃんの両手に包まれている右手でサーシャちゃんの右手を包み込む。
そして、言う。
「本当だ。ずっと一緒にいる。どこにも行かない」
サーシャちゃんの両手が少し温かくなり、俺の右手が一瞬強く握られた後、サーシャちゃんの両手が俺の右手からはがれていく。
解放されたばかりの右手と左手の手のひらをサーシャちゃんの両頬に当てる。
サーシャちゃんの頬は熱く、しかし、涙の通った跡だけが冷たかった。
今度は俺が両手でサーシャちゃんを包む。
涙の通った跡に俺の体温を移すように、冷え切った心を温かさで埋めてあげられるように優しく包み込む。
「何度でも言ってやる。俺とサーシャはこれからずっと一緒だ。俺はサーシャを一人にしない」
サーシャちゃん、ではなく、サーシャ。
自然とそう口にした。
再び流れ出る涙。
しかしその涙は俺の両手の親指を伝い、手の甲を伝い、そしてそのまま、サーシャの頬を濡らすことなく床に落ちていった。
サーシャの頬に冷たい部分はもうない。
俺は安心して両手を離す。
そして、抱き着いてきたサーシャを受け止めてあげる。
サーシャの顔に浮かんでいるのは笑顔だ。
えへへ、と嬉しそうに笑っている。
どうすればいいのか全くわからなかったが、俺は間違えなかったようだ。
しっかりとサーシャを支えることができたらしい。
家族がいなくなり、一人で頑張って、店を追い出されて。
サーシャがどれだけ張りつめていて、どれだけ辛かったのかは俺にはわからない。
けれど、もう大丈夫だと思った。
俺がいる限り、サーシャは大丈夫。
最初は漠然とそう思い、次第に確信に変わっていった。
しばらく抱き合った後、どちらからともなく離れた。
サーシャの気持ちも、どうするのが正解だったのかも、俺にはよくわからなかった。
俺の行動が満点だったのか、及第点だったのかもわからない。
わからないことだらけだ。
それでも、サーシャを悲しませる結果にはならなかった。
胸に押し寄せる満足感と安堵が、これでよかったのだと教えてくれる。
サーシャの笑顔が、俺の行動は間違っていないなかったと証明してくれていた。
今まで友達はそこそこいたが、親友と呼べる者は一人もいなかった。
女子と仲良くなれたこともなかった。
その理由がいま、わかったような気がする。
なんとなく、今まで上れなかった階段を一段、上がれたような気がした。
この世界に来て、サーシャと出会って、人と関わるということがどういうことなのか少しわかった。
何十年も踏み出せなかったその一歩を、やっと踏み出すことができた。
歩みを進められたという安心感と達成感。
そして、まだまだ先は長いなという思い。
そう、先は長い。
俺はまだ、恋愛のスタートラインにすら立てていなかった。
しかし、悲観的にはならなかった。
むしろ、長い長い道の先に何があるのか楽しみになった。
挑戦してやるという気持ちが湧いてきた。
とにかく今日、俺は一歩進めた。
その達成感を与えてくれたサーシャに感謝しつつサーシャの頭を撫でる。
出会ってから一日も経っていないが、俺たちの間ではこれが一番のスキンシップとなっている。
出会ってから一日も経っていないが、俺たちはもう親友以上の絆で結ばれている。
俺に撫でられて笑っているサーシャに俺も笑みを返す。
落ちたチャーハンを片づけたあとスプーンを綺麗にしてから食事を再開。
冷めてしまったチャーハンも餃子も美味しさは損なわれてしまっていたが、サーシャは幸せそうに食べていた。