パン一片で金貨1枚
「おいリュウト、飯くいに行かねぇか?」
「あー、あと15分で昼休みだからそれまで待ってもらっていい?」
「なら向かいの店で買出ししてるから、終わったら声かけてくれ」
「わかった」
視線を向ける事も無く、ザックに慣れた会話だけを返して俺は手元の仕事を続けていく。
カリカリと右手で書類に文字を書きながら、左手で机の上の計器に銅貨を一枚ずつ乗せる。
「ん……? 規格外れ、じゃないな。これは……あの国の銅貨か。どうりで」
一定の基準に満たない銅貨は仕分け袋に避けて、後で別計算。
ぱっぱと手元のお金の分類が終わった所で、今度は基準を満たした銀貨、銅貨の枚数を数えていく。
「銅が768の銀が237だから―――」
机の上に用意した、書類作成用とは別の質の悪い紙。
いわゆるメモ用紙に俺が使用しているその紙に、数えた硬貨の枚数と、それを基準にした式を書き出していく。
正直、筆算なんて人生の役に立つのか? と小学生の頃は思っていたけど、まさか異世界で役立つとか世の子供たちも思うまい。
頭の中でそんな事を考えながら、黙々と仕事をこなしていた所。
「相変わらず早いねぇ。何で計算尺も無しでそんな早く計算ができるのやら」
俺の座っている机と丁度対面になる席から、一人の女性が声をかけてきた。
計算尺というのは、要するにソロバンの事だ。
「一種のコツとか技術みたいなものなんだけど、これは俺の飯のタネだから簡単には教えられないよ」
相変わらず視線は机の上の紙に向けたまま、特に強弱があるわけでもないトーンで俺は返す。
偉そうに応えてるけど、要するに九九と筆算が知識としてあるだけにすぎない。
異世界でそれが大いに役立つとは微塵も思ってなかったけどね。
「じゃあ……私が一晩、朝までデートするよ? って言ったら教えてくれる?」
言われた言葉に、俺の手がピタリと止まる。
インクが垂れない様、手にしたペンをペン立てに戻し、ゆっくりと視線を机の上、つまり向かいのデスクに座る女性の方へと向ける。
そこには栗色の長い髪を三つ編みにした、青い瞳の同い年くらいの女性が何かニヤニヤした顔でこちらを覗き込んでいた。
「あのなメアリ。思春期の男子高校生にそういう誘惑しないで。俺チョロいんだから」
彼女の名前は、メアリ・テーア。
俺が現在勤めているこの職場の同僚で、勤続年数的には俺の1年先輩にあたる。
同い年と言う事でよくこうして雑談したりもするのだが、どうにも彼女は俺をからかって遊ぶのが趣味になっているらしい。
「口でチョロいとか言う割に身持ち硬いくせにー」
「俺が本気で迫ったら真顔で拒否するくせにー」
「あの時は突然すぎて面食らっただけだってばー」
勘の良い方はお気づきの事かと思うけど。
知り合ってまだ3ヶ月くらいの頃に、同じ様なノリで彼女にデートに誘われたので思春期真っ盛りな俺は「春が来た!」と意気込んで出撃したのだが。
まぁ、うん。なんつうか「そこまで気合入れられると引く」と言われて涙目で帰ってきたのもいい思い出である。
とても恥ずかしくも痛い経験をした俺は一皮剥け、というか一段階捻くれ、少し強くなったというわけだ。
彼女とはそんな経緯もあって、同僚兼悪友といった間柄で上手く付き合えていると思う。
こんな軽口を言い合うのも、今の俺にとって大切な日常の一つなのである。
俺は再び机の上のペンを取り、作業を再開する。
カリカリとペンを走らせる音、チャリンという硬貨が跳ねる音、パツパツと計算尺を弾く音などが職場内に響き渡る。
「リュートとザックさんて仲いいよね」
ここで再びメアリの雑談が再会される。
あんまり私語ばかりしていると上司に怒られてしまうので、出来ればそろそろ付き合いたくはないのだが……
無視したら無視したで「あの日の気合の入れよう」をネタにされるので、俺は諦めて雑談に付き合う事にする。
なるべく小声で。
「リュートじゃなくて、リュウト、な。ザックはこの世界に来て最初の友人だから、そういう想い入れみたいなのもあるかもね。あと単純にウマが合う」
「ザックさん、見た目が怖すぎて友達少ないって言ってたから、そういうの気にしないリュ―……リュウトを気に入ってるのかも」
自覚があるならその見てくれを直せよとも思うけど、人の外見にどうこう言うのは宜しくないとも思うので未だに何も言えてない。
てかあの見た目で28歳だと言われた時には年齢詐称も大概にしろ! と思ったものだ。どう見ても40手前だろう。
世紀末を生き抜いたモヒカンの蛮族達も、もしかしたらあの外見で実は10代という設定だったりするのだろうか。
それはそれでちょっと気になるけど、ネットの無いこの世界ではグーグル先生に聞く事も出来ないか。
「俺も初対面のときは、どこの蛮族に絡まれたのだろうって思ったし間違いなく身包み剥がされて殺されるって思ったよ」
「それはさすがに酷すぎる……」
「異邦人なら9割が同じ印象受けると思うよ、マジで」
むしろアレを見て蛮族じゃなくて聖人だと思う奴がいたら、そいつは今すぐ眼科か病院に行くべきだろう。
あの見てくれで生きているザックが悪いのだ。
「異邦と言えば―――人間しか種族がいなくて、しかも70億人とか人間が居るってアレマジなの?」
ザックをネタに会話するのに飽きたのだろう。
唐突にメアリは話題を切り替えてきた。
この脈絡の無い話の振り方が何というか女子高生に通ずる感じがあり、俺が彼女に親近感を覚えている要因の一つかもしれない。
出来れば彼女がギャル化だけはしない事を祈ろう。
「マジだよ。そもそも異邦の事に関してメアリに嘘をついても、俺に何の得もないっしょ」
異邦人という特殊性。それは様々な人の興味を惹く話題ではあったのだろう。
最初の内は。
実際に話してみると普通の青年という事でガッカリした人も少なくないだろうが、メアリは未だに異邦に興味があるらしい。
彼女自身が田舎から単身この街に出てきて仕事をしているという辺りからも、未知に対する好奇心の大きな人物であると知れる。
ただ、都会に憧れるみたいなノリで異世界に憧れたりしていると俺みたいな目に遭うぞ? とは言わない。
それを言っちゃうと俺が悲しくなってくるんだ……あぁ、日本に帰りたい。
「ななじゅうおく……今この世界で人間がそんなに増えたら、即日食糧難に陥ってパン一片で金貨1枚とかになりそう」
「……パン一片が金貨とか、想像したくもないな」
大恐慌にも程がある。
そんな事になったら、俺みたいな慎ましい生活をしている平民は1週間と経たずに餓死しそうだ。
一応そこそこの貯金は出来つつあるけど、金貨1枚は日本円にすると10万円に近い価値がある。
パン一片10万円とか、米1合に置き換えたら一体何円になるのだろうか……
「でもそうなったら、小麦農家をやってる私の実家は大金持ちになりそうだね。来ないかな大恐慌」
変な不安を煽るだけ煽っておいて、たどり着いた答えがそれか。
ある意味逞しい女性だなと思う反面、この人と結婚する男性は中々に苦労しそうだなと思った。
口には出さないけど、マジで苦労しそうだなと心のそこから思った。
「両替屋が口にしていい台詞じゃねぇな―――よし終わった。じゃあ俺は昼休憩いってくるわー」
「あっずるいー! 私まだ終わってないのにー!」
ダラダラと雑談ばかりして集中力を欠いているからそういう事になるのだよフフフ。
時間は丁度お昼の12時を過ぎた頃。
気が付けば昼休憩を告げる鐘の音が街の中に響いていた。