No(姉).3とNo(弟).7-1
アスファルトの地面にできた水たまりに、大粒の雨が打ちつけていました。
霞み揺らぐ視界の中、降りつける雨を全身に浴び、校舎から校門へと続く一本の道の上に、自分は倒れていました。
乾いた血のように赤黒く染まっていた視界は、すでに色を消し去り、狂おしいほど沸騰した思いも、雨で冷やされたのか、不思議と落ち着いていました。
アスファルトから頬を離し、空を見上げますと、夕暮れ時の赤い光が大地へと斜めに射し込んでいました。その光に沿い視線を上げてゆきますと、分厚い雲の一部分にだけにできた、渦巻く雲の隙間から、咲いたばかりの薔薇のように色鮮やかな赤色の空が見えました。
視線を落とし、グラウンドを見下ろしますと、校舎から校門へと続く道に沿うような形で存在する5つのグラウンドのうち、自分から最も近い位置にある、第一グラウンドに巨大なクレーターに似たくぼ地が開けていました。1周300メートルはあるトラックの白線を消し去る形で存在しているそのくぼ地の底には、人工島であるレモン島の骨格部分に当たる銀色の金属が輝いていました。
「雷が……また落ちた……」
鼓膜を突き破るほどの轟音が、耳の奥で残響のように響いています。そして、目の前のくぼ地に重なるように、降り落ちた紫色の光が何度となく自分の視界にちらつきました。
打ちつける雨を気にすることなく、体操座りをしながら、ぼんやりと目の前に存在するそのくぼ地と、残像としてちらつく紫色の光を自分は見つめました。
過去に自分へと降り注いだ紫色の光が自分の目と鼻の先に再び落ちたにもかかわらず、不思議と恐怖を感じませんでした。
一度死を体験したがために、魂の一部を死の世界に持っていかれてしまったからかもしれません。
――自分はどこかおかしくなっている――
ふと、雨を吸い込んだ半袖のワンピースを見ますと、白色から桃色へと色を変えていました。
ワンピースの襟から内側を覗きますと、亀裂の入った大地のように皮膚はひび割れ、血が流れ出ていました。しかし、その傷の痛みはほとんどなく、経験的にしばらくしますと出血は収まり、かさぶたが張り、もとの正常な皮膚が再生することを自分は知っていましたので、動揺はしませんでした。
降りしきる雨の中、どれくらいの時間、自分は座っていたでしょうか。
次に我に返ったときには、すでに夜の闇が世界を覆い、黄色い照明が自分を照らし出していました。どうやら、指先に感じたくすぐったさが自分を現実へと引き戻してくれたようです。
地面に置いた右手へ視線を落としますと、自分のように薄汚れた猫が指先を舐めていました。
「どうやら、君も生きていたようだね」
右腕前腕部に体をすり寄せてくる猫君は、心地よさそうに喉を鳴らしています。
「大丈夫だったかい? 大きな怪我はしていないかい?」
夜の闇で瞳孔が大きく開いた目を自分へと向ける猫君は、後ろ足で首筋を掻きながら、『大きな怪我を負わなくて済んだよ。ありがとう』と言ってくれたような気がしました。
「そうかい、よかったね」
と言い、自分は今住んでいる場所へ帰ろうと立ち上がりますと、少しだけクラリとふらつきました。それでも、数歩歩きますとそのふらつきは泡のように消えてゆきました。
自分の後ろを猫君がとぼとぼとついて来ます。首の長い照明で照らされた光の円の中を通りますと、その猫君が黒猫だとわかりました。
髪も肌も服もどれも白色の自分とは対照的な黒色をした猫君なのに、好感を抱けるのはどこか自分と似ているためなのだろうと思いました。
「君も自分の家に来るのかい?」
猫君は返事をくれませんでした。
校舎の横を通りすぎ、飛行場へと向かう道を右へと折れ、体育館の裏手側を沿うように歩きますと、校内に存在する墓地然に手入れされることなく放置された雑木林の中ほどに、今では使われていない体育倉庫があります。
そこで自分は一週間ほど生活しています。
錠が壊れた重い引き戸を開けますと、埃とカビの混じった重たい空気ではなく、普段よりも軽い空気を感じました。
倉庫へと一歩足を踏み入れますと、10畳にも満たないその一室が荒らされていることに気がつきました。
「……ついてないね。でもこんな場所でいいなら、どうぞ入って、猫君」
散らばったシャベル類や折れたハードル類、崩れ壊れた跳び箱を重い足取りで乗り越えた自分は、倉庫の奥に広げられた、敷布団として利用しているマットの前で立ち止まりました。
倉庫の入り口から見て右側にだけ存在する窓ガラスは割られ、マットの上にガラスの破片が散らばっていました。痛みに鈍感になっているとはいえ、さすがにガラスの破片でさらに肌を傷つけるのもあれでしたので、モップを使い、マットの上に散らばったガラスを払いのけました。それから、斜めに立てかけられた平均台へと濡れたワンピースをかけ、マットへと腰を下ろし、嵐の後であるかのように散らかった倉庫内を静かに見つめました。
ふと、割れた窓へと視線を向けますと、その遥か向こう側に見える雲の間から、月が顔を出したところでした。
黄色い月の光が倉庫内に注ぎ込み、浮遊している埃まで見えそうな気がしました。
気がつくと、自分の体にすり寄る形で猫君は眠っていました。
猫君の濡れていた体はすでに乾き、背中を優しく撫でますと、心地よい毛触りとぬくもりを感じ、微笑んでいる自分がいることに気がつきました。
「どうしちゃったんだろうね。自分は」
猫君に語り掛けても、眠っているので、もちろん返答はありません。けれど、規則正しく上下する猫君の体に触れていますと、あらゆる事が些細に思えてきました。
猫君の体から手を放し、右目を隠すようにかかった前髪をかきあげます。
すると、
視界に映る世界が激変しました。
空間がノイズがかり、色の異なる何十本、何百本、何千本もの波打った線が縦に横に斜めに縦横無尽に、どこからどこへと勢いよく流れてゆく光景が自分の右目に映ります。
この右目だけが見せる世界を初めて目にしたとき、激しく動揺したのを自分は覚えています。
大小さまざまな太さをした、習字紙に描いたかすれた筆線にも似た数え切れないほどの波の流れ。蜘蛛の巣状に世界に絡まり、また重なりながら飛び交うそれらが電波なのだと気がついたのは、それに触れたときでした。
この右目は電波を可視化し、さらに読み取ることができるようなのです。目の前に流れる電波の残像に意識的に触れることで、脳へと映像なり、音声なり、文字なりが直接送り込まれ、その電波が運んでいる情報を自分は解読することができるのです。
――自分はどこかおかしくなっている――
右目の視界に自分の体が入りました。
緑色をした何十本ものクラゲの触手にそっくりな何かが全身から生え、割れた蛍光灯が取りつけられたままの天井へと、そして天井を突き抜け、視認できないほど空高くへと伸び上がっていっています。
割れた窓ガラスに残ったガラス片を見ますと、片側だけ赤く発光した目を持つ自分がそこに映っていました。
「自分はどこかおかしくなっている」
メロン島を消し去ったあの紫色の光に飲み込まれ、生き残ったときから、自分はどこかおかしくなっているのです。
死を経験し、死から舞い戻った自分は、魂の一部をあの世に置いて来た代償として新たな真なる力が発現したとでもいうのでしょうか? ただ生きているだけだった自分に、新たな力を神が与えたというのでしょうか?
天井を突き抜け、どこまでも伸び上がってゆく何十本もの触手に似た何かは血管に流れる血液の如く、自分から空へと何かを供給しているように見えました。
それが何を意味しているのか、自分にはわかりません。
輝く右目を前髪で隠しますと、ノイズで淀んだ世界は月明かりに照らされた薄黄色の世界へと変わりました。
そして、猫君の背中を撫でながら自分は呟きました。
「猫君も自分と同じで一人なんだね……寂しいよね」