紫色に染まる過去と未来7
8限目の授業も終わり、誰もいない教室で子守歌は黒板を消していた。
傾いた陽の光が窓から斜めに射し込み、教室を赤く染め上げている。窓の外から聞こえるヒグラシの鳴き声が、静寂に包まれた、物音一つしない教室に響き渡る。
机と椅子を規則正しく並べ直し、床に落ちているゴミを拾い集め、最後に黒板をチョークの消し跡が残らないほど綺麗に消すことが、子守歌の学校での一日の最後の仕事だった。
誰に望まれるわけでもなく、誰に支持されるわけでもなく、子守歌はこの作業を日課としていた。
新品同様とまではいかないまでも、綺麗になった教室を見渡し、そっと後にする。
子守歌の足音のみが木霊する廊下を歩き、階段を下り、昇降口で靴を履き替え、子守歌は校舎から出る。
日中とは違い、わずかばかり気温が下がった外気は心地良く感じられた。遥か遠方へと目を向けると、分厚い雲が空を覆っており、雲間に走る白色の稲妻が視認できた。雨が降りそうだな、と子守歌は思った。
特に急ぐわけでもなく一定の、むしろ遅いくらいの速度で子守歌は歩きだす。
コンクリートの箱を思わせる校舎は背後へと遠ざかり、左側に連なる、形の不揃いな5つのグラウンドを見下ろしながら歩く。
基礎体力強化のために用いられる、校舎に一番近い位置にある第一グラウンド、アスレチックや障害物が雑多に置かれた、実践に近い訓練を行う第二グラウンドがその横に連なる。そして、校門に一番近い、校舎から最も離れた場所にある、予備の第五グラウンドまで、10万平方メートルの広さはあるであろう5つのグラウンドが、まるで堤防から5つの湖を見下ろすかのように子守歌の左側に連なっていた。
一定間隔で植えられている、桜の木々の向こう側に見えるそのグラウンドを、感慨深い何かを抱くことなく、ぼんやりと見下ろしながら子守歌は歩いた。
普段なら、グラウンドの向かいにある、子守歌のちょうど右側に存在する場所など目にすることなく、校門を出るのだが、何故だか、今日はふと、右側を目に入れてしまった。
少しばかり落ち込んだ気分だったがために、視界に入れてしまったのだ、と子守歌は自己分析をした。
校舎から校門へと続く、一本の舗装されたアスファルトの道を挟む形で存在する5つのグラウンドと、亡くなった東校生徒たちの墓地。赤褐色のそびえ立つ校門へと続く道を歩く子守歌の右側には、雑多な木々と好き放題に伸びた藪に隠れる形でその墓地は存在していた。
一メートルほどの長さの石の棒が何十本、何百本と地面に突き刺さった墓地には、亡くなった東校生徒の魂は存在していない。それなのに、彼らが身に着けていた物だけが埋められたその場所を視界に入れるだけで、子守歌はいたたまれない気持ちにさせられる。
救えたかもしれない仲間に対する罪を強く意識してしまうので、子守歌は普段からその墓地を目に入れないようにしてきた。
なのに、今日は目に入れ、そして、それと同時に藪の間から覗く二つの目に気がつく。
骨と皮しかないほどやせ細った猫が、子守歌を見つめている。黒いであろう毛は土で汚れ、まだ生まれて一年足らずの若い猫なのだろうが、その面影は見る影もない。
普段なら、猫を見たとしても、素通りする子守歌だったが、このときは立ち止まり、ポケットからあんぱんを取り出し、封を開けた。
目を細め、子守歌を警戒していたその猫は、子守歌の手に持ったあんぱんを見て、藪の間から顔を少しだけを出した。だが、身に沁みついた警戒心を解こうとはしない。
「イオンのようには、私はいかないか……」
猫が逃げないぎりぎりの範囲を見極め、道のすみにあんぱんを置き、子守歌は校門へと歩いて行った。
そびえ立つ校門の前まで来て、振り返ると、猫がちょうどあんぱんを口にしているところだった。
その姿を見て、子守歌は意味もないことだとわかってはいるが、何か自分はためになることをしたのだという錯覚を抱くことができ、小さく微笑んだ。
校門を潜り抜け、幾つもの枝分かれした道を選択し、寮までの帰路を歩く。周囲には樹齢何百年を思わせる太い幹をした木々が生い茂っている。上を見上げると、緑の葉をふんだんにつけた梢の向こう側に黒々とした雲が見えた。
ちょうどそのとき、子守歌の頬に一滴の雨粒がかかった。それを皮切りに、大粒の雨がまるでシャワーのように降り注いだ。
数秒足らずで、雨で全身を濡らすも、子守歌はペースを乱すことなく淡々と帰路を歩く。
濃厚な植物の香りと土の臭いが生ぬるい空気の中に立ち込め、打ちつける雨音を切り裂くように、雷鳴が轟いた。
連続的に鳴り響く雷鳴。分厚い雲に太陽の光が遮られたためか、周囲が薄暗くなる。
闇を切り裂く白色の雷光が何度となく瞬く。
空を見上げると、黒色の雲間に走る稲妻を、数秒ごとに確認することができた。
雷の粉を振りまいたようなパチパチパチとした音がしたかと思うと、世界を震わすかのような轟音が何度となく響いた。
雲から大地へとかかった、白色の雷による架け橋を子守歌は無表情に見つめた。いつの間にか立ち止まり、全身びしょ濡れの姿で空をじっと見つめていた。不揃いの前髪は額に張り付き、頬を伝う雨水が顎から地面へと流れ落ちていた。
そして、ふと、雷が止む。
樹木の梢に覆われ、すでに見ることのできない東校が存在する方角の雲が、渦を巻きながら消えてゆく。時計回りの渦。次第にその大きさを拡大してゆく渦の間から、一筋の赤い夕陽の光が薄暗くなった世界に射し込んだ。
渦の中心の拡大に伴い、線のように細かった夕日の柱が、次第に太くなってゆく。
そのとき、突如、機械的な耳をつんざくような破壊音が子守歌の全身を震わせた。黒板を爪でひっかいた音を何千倍も拡大したかのような破壊的な轟音。
木々はざわつき、大地は微かに振動し、子守歌は、「ぐっ……」と声を漏らす。
耳を押さえ、足元をふらつかせ、そして、瞬きをした次の瞬間。
一筋の紫色の光が、消え去った円形の雲間から大地へと、一直線に降り注いだ。夕日と重なり、その紫の光は、外側をぼんやりと赤く染めていた。
息を飲み硬直する子守歌。目を大きく見開き、無意識のうちに、左手に握っていた学生カバンを落とした。
その大地へと降り注いだ光の柱は、何度となく夢に見た光、現実にメロン島を消し去った光、
そして、大人たちによる裁きの光だった。