壊れてしまった自分-9
気が付くと、自分は体育館裏にある、雑木林に隠れた体育倉庫にいました。
修繕されることなく放置された窓ガラスから時折入ってくる雨風は、マットの上で生きた屍のように横になっている自分にとっては心地良いくらいでした。
体育倉庫まで、副委員長の新宿さんが自分を運んでくれました。そして、優しい新宿さんは落ち込んでいる自分に対して、学校は休んでいいからと仰って下さり、さらには食べ物までもお持ち下されました。
マット周辺に散らばった、パン類、飲み物類、お菓子類等の食べカスやゴミ類を目に入れると、どうしようもないほど生に対する執着心が強い自分を意識せざるをえません。そのたびに、自分は涙を流します。
子守歌さんにひどいことをしてしまったあの日から、今日で三日目。自分は呆れるほど涙を流し続けました。そして、泣き疲れ、ふと訪れる空白の時間には、潮風と汗に汚れた自分の髪の隙間から見える、右目に映るノイズがかった世界が自分へとあらゆる種類の情報を伝えてきます。それが嫌で目を閉じ、埃と汗と涙の匂いが染みついたマットへと顔を押し当て、耳を塞いでも、ある情報だけはどうしてもシャットアウトできません。
それは、自分の体に鎖のように巻きつき、突き刺さった電波情報。遥か彼方の空へ、いえ宇宙へと自分から伸び上がっていっているあの電波情報が目を閉じ、耳を塞ぎ、深く孤独に沈み込もうとすればするほど、強く感じられてしょうがないのです。
そして、目を開け、雑多な器具類が収められた体育倉庫の割れた窓から見える空を目にするたびに、子守歌さんへと降り注いだ、いえ自分が子守歌さんへと降り落としてしまった紫色の光を思い出してしょうがないのです。そのたびに自分は声にならない声を出して泣きました。
自分がおかしくなっていることはわかっていました。胸の奥に感じる、絡みつくような違和感だけでなく、意識を失うたびに自分の周りで何かが起こっていることもわかってはいました。けれど、生来臆病な自分はそれを見て見ぬふりをしてきたのです。
初めて、意識を突然失ったのは、第三訓練島でした。
中心部に面積の半分を占める広大な湖がある、実践試験が行われたその島で、自分は愚かにも、湖のほとりで西校の生徒6人に囲まれました。それは、波一つない深い青色を称える湖の美しさに心奪われ、警戒することをほんのわずかな時間忘れてしまった自分の不注意によってもたらされたものでした。
自分が囲まれているということに気が付いた時にはすでに敵は隊列を組み、臨戦態勢に入っていました。大した能力も持たない自分は、敵の襲い来る攻撃をかわし、逃げ惑うことが精一杯でした。支給されたジャケットは破れ、露出した肌からは血が噴き出し、ボーガンから放たれた矢を左ふくらはぎに受けた次の瞬間、自分は湖の水を撒き散らし、前のめりに倒れていました。
「助けて……下さい」
醜くも命乞いをする自分の言葉に、自分を囲み、見下ろす西校の生徒達は、まるでこれから食する食材を吟味するかのような、生々しくも歪んだ笑みを浮かべました。
その時です、自分が意識を失ったのは。次に目を覚ました時、自分の周囲には意識を失った6人の西校の生徒達が倒れていました。
次に、突然意識を失ったのは、黒猫君がいじめられているのを目撃した時です。
夕暮れ時、校舎から一人、体育倉庫へと帰路につこうとした自分は、四人の生徒に脚蹴りをされ、いじめられている黒猫君を目にしました。
空には厚い雲が覆い、湿った風が自分の髪やワンピースを撫で、痛みに苦しむ黒猫君の恐怖と絶望に打ちひしがれた弱々しい鳴き声が、自分の耳に生々しいほど響いてきました。
その鳴き声を耳にするたびに、どうしようもないほど弱い自分を意識せざるをえませんでした。メロン島では誰一人として心許せる友人などいなかった自分は、その鳴き声に、ずっと孤独だった自分自身を重ねてしまったのだと思います。
だから、黒猫君をいじめている彼らに対して、話し合えばなんとかなるかもしれないのに、声一つすら出すことが出来ず、締め付けられる胸を押さえ、逃れるように内なる狂気に手を貸してしまったのです。
そして、三度目に突然意識を失ったのは、黒猫君が撃たれた時でした。
実を言いますと心のどこかで、自分が圧倒的な力へと手を貸し、裁きを下しているという事実に気が付いていたのです。深海から世界を覗き見るような淀んだ意識の中、自分の暴力性に従い、力を振るっているという事実になんとなく気が付きながらも、受け入れることが出来ず、自分は自分自身の狂気ともいえる暴力性をずっと否定し続けてきたのです。
あの時、身の内に潜む暴力性に手を伸ばした後も、子守歌さんが「イオン」と叫ぶ声は聞こえていました。紫色の光に両の手を伸ばし受け止める子守歌さんも見えていました。しかし、胸の奥から湧き上がる、殺戮を求める快楽じみた欲求に自分は抗うことが出来なかったのです。
彼はこう叫びます。「消し去れ、殺せ、殺戮を楽しめ、憎しめ、怒れ、存在するすべての存在をこの世界から……抹消せよ」と。
自分はどうしようもなく愚かです。自分を殺すことも出来ずに、ただこうしてマットの上で俯せになり、泣き続けているだけの弱い存在なのです。
誰か助けてください、何度も何度も心の中で叫びました。
「誰か……自分を……助けて」
と零れるような声を呟いたその時、体育倉庫の入り口がガラッと開き、光が差し込みました。涙に汚れた顔を上げ、そちらを振り向きますと、太陽の光を背景に、新宿さんが立っていました。
「新宿さん……」
「イオン……さあ、君が世界の女神となる時が、とうとう来たんだよ」新宿さんはパチンと指を鳴らしました。
「何を言っているんですか?」自分は目尻に溜まった涙を指で拭いました。
「わからないのも無理はないね」新宿さんはゆっくりとした足取りで自分へと近づいてきます。「この新宿高貴は、君の圧倒的な真なる力に惚れ込み、君を使う時を今か今かと、うずうずしながら、ずっと待ち続けてきたのだよ」
「自分を……使う?」
息が詰まり、歯がガタガタと震え出しました。
「そうだよ。イオン……君は何のために存在しているんだい?」
「自分は……」
自分は何のために生きているのかよくわかりませんでした。だから、新宿さんのその問いにすぐに答えることが出来ませんでした。
「答えは明快だよ。この新宿高貴に使われるために生きているのだ。圧倒的な力を持つ、君の理不尽極まりない真なる力による破壊こそ、この新宿高貴が求めてやまなかった憧れそのものだったのだ。だから、さあ、共に行こう」
新宿さんが自分へとさし出した手に対し、自分は首を振り「嫌です」と拒否をしました。
「残念だよ。イオン」
うなだれた新宿さんは肩を震わし大きく笑い、それが収まりますと、差し出していた右手を何かを握るような形へと変え、自分へと向けました。瞬きをした自分が次に目にしたのは、黒色のハンドガンを握った新宿さんでした。
「本当は、こんなことはしたくなかったんだ。でも仕方がない」
ハンドガンの銃口は自分へと向けられていました。その銃口から飛び出す弾丸が自分の額を貫き、この辛い世界から安らかに消え去れるのならば、それも悪くない、と思いました。
しかし、
そうは思いつつも、体が半ば自動的にそれを拒否します。
息は詰まり、体は震え、胸は締め付けられ、右目の奥を握りつぶされたかのような、あの激しい頭痛が再び襲い掛かってきました。そして、本来そこにあるはずもないのに、自分の目の前にねっとりとした闇が広がり、まるで自分が殺めてきたコピードール達が地獄からはい出てこようとしているかのように、何本もの腕が闇の底から伸び上がってきました。
「そうだ、それでいい。力を解放して、この新宿高貴の前にあの神々しい輝きを放つアルティメットライフルを再び連れてこい」
新宿さんがそう叫んだ次の瞬間、銃が跳ねあがり、薄らと煙を上げた銃口から飛び出た弾丸が自分めがけて直進してきました。
ドンッと体育倉庫へと響く銃声が引き金になったとは言えませんが、自分は深い闇の奥から手招きをする何百本、何千本もの手に向かって、気が付くと手を伸ばしていました。
そして、次の瞬間、自分は意識を失いました。
もう自分は壊れていたのです。




