壊れてしまった自分-4
東校A棟三階にある301の教室から見下ろす景色は、落葉にとって三番目に好きな景色だった。
東校は、女子寮ほど小高い丘に建っているわけではないのだが、少なくとも海抜50メートルの位置に建っている、と落葉は分析していた。
海岸線から緩やか続く東校までの道のりを一歩一歩踏みしめ、データーが公表されてはいない東校の海抜を測ったのが、昨日のことのように落葉には思い出された。
10・0だった視力はすでに5・0まで落ち込み、窓際の自分の席から、景色を見渡すも、遥か遠方に存在する、海上に浮かぶブイなどはぼやけ、もうはっきりとは見ることができない。
嫌だよね、と落葉は思いつつも、未だ日常生活で視力低下がもたらした問題は何一つとしてなかったので、大嫌いなマイナス思考は、授業が始まってからずっと見ている、白銀色の輝く灰色の海へと溶けていった。
左腕に刻まれた、巻き付いた蛇を思わせる赤黒い痣を撫で、教室前面を見ると、黒板にはびっしりと複雑な記号と複雑な数式が書かれている。
その黒板内容である応用理論化学は落葉が苦手とする科目の一つだった。ただでさえイメージのしにくい数式に化学式が複雑に絡み合ったそれは、落葉にとって、何日も放置された、悪臭放つ三角コーナーの生ごみ同様に見えた。
個体ナトリウムが第一、第二、第三イオン化エネルギーを段階的に吸熱することで、一価、二価、三価のナトリウムイオンになることはわかる。ただ、人工的に作りだした八価以上のイオンを用いて、ありえない化学物質を作り出すことは、そこらへんに生えている雑草と土と石を混ぜて、新たなケーキを作り出すようなもので、どのような加工をし、どのような調理をし、どのように食べるではなく、どのように活用するのかまでは授業では教えてはくれない。
黒板の上で語られる、賢い大人たちが考え、発見し、正しいとされている、決して使うことのない知識を無駄に吸収することが、いったい何の役に立つのだ、と落葉はよく思う。そんな使わない知識を吸収するために、残り少ない時間を浪費するくらいなら、授業では絶対に教えてくれない、おいしいパスタの作り方をネットで探していたほうがいい、と思ったところでイオンの席が落葉の視界に入る。
もう四日間空席のその席を目に入れるたびに、落葉は心配になる。心配の種はそれだけではない。落葉の後ろの席の子守歌も四日間、学校に来ていないし、女子寮にも戻ってきていないのだ。
立派な口ひげを触りながら、黒板に書かれた内容を説明する、応用理論化学の先生の講義に、真剣に耳を傾けるクラスメートを横目に、落葉は小さなため息をつく。
二人に何かがあったことは、間違いなかった。
事実、四日前、子守歌がイオンを送って行ったのち、深夜になっても帰ってこない子守歌が心配になった落葉は、二人のあとを追いかけた。
何度も道に迷い、対馬海岸にたどり着いたとき、金色の光を放つ朝日が水平線から顔を出したところだった。
薄闇が少しずつ溶けてゆき、空全体を覆っている層状の雲が美しくも色づいてゆく。太陽の光が、海水に溶け込み、光の川が作られてゆくさまは、圧倒的だった。
しかし、
そんな美しい空、美しい海、そして、最後に対馬海岸を目に入れたとき、落葉は息が詰まるほどの恐怖に襲われた。
対馬海岸の地形が変わってしまっていたのだ。波際に打ち上げられていた漂着物の大部分は消え去り、加えて砂浜の大部分は海へと変わっていた。
それから四日間、落葉は子守歌とイオンを見ていない。
大丈夫だよね、と落葉は自分自身に言い聞かす。マイナス思考が大嫌いな落葉と言えど、その楽観的な思考が、気晴らしでしかないということは痛いほどわかっていた。
まだらに空席が目立つ教室を、落葉はチラリと見る。
誰かが生き、誰かが死ぬのはしょうがないことだ、と落葉は何度も自分に言い聞かせてきた。しかし、知っている誰かがいなくなってしまうのはやはり悲しい。
前回の実践試験で、クラスメートの飯坂さんとメルトダウン君が死んでしまったときも悲しかった。二人とも落葉にとってはクラスメートであるというだけの関係だったが、同じ教室で授業を受け、様々な検査や実験を受け、さらに訓練を共に乗り越えてきた間柄というだけで、不思議と悲しくなってしまうのだ。
落葉も多くの仲間との別れを経験してきた。その中には親しかった友人もいれば、大好きだった人もいる。胸を裂かれるほどの苦しみに耐えきれずに、何度も何度も涙を流し、それでも、今を生きている。
誰かの仲間を殺し、誰かの友人を殺し、誰かの愛する人を殺し、それでも、落葉は今を生きている。
生きていたい、と強く思い。生きたい、と強く願い。今を生きている。
白色のカーテンを揺らし、窓から入ってきたさわやかな風が、落葉の長い後ろ髪を揺らす。
窓から見下ろすことのできる景色へと視線を移すと、そこには生きるに値するほどの素晴らしい世界があった。
遥か彼方に見える灰色の海、海岸線から内陸にかけて立ち並ぶ雑多な建物、東校を囲む濃緑色が印象的な障壁の森、錆が目立つ10メートルはある校門、連なる湖のように見える第一から第五グラウンド、東校の多くの生徒の魂が眠る墓地、ビルを思わせる15階建ての東部能力者病院、とそこまで目にしたとき、
落葉の目に白衣を身に着けた女性が映った。
桜の木々の梢越しに見えるその姿を、落葉は見間違うはずはなかった。
落葉は、思わず叫びそうになった。口をあんぐりと開け、椅子からわずかに腰を浮かすも、何とか踏みとどまる。
青のジャージ姿の応用理論化学の先生は、立ち上がろうとした落葉に気がつくことなく、黒板に書かれた難しい数式と化学式を説明している。それを見て、ホッと息をついた落葉が校門へと続く道に再び目を向けると、子守歌はもうそこにはいなかった。緑色の葉をふんだんにつけた桜の木が、アスファルトへと影を落としているだけだった。
幻覚だったかもしれない、とは落葉は全く思わなかった。ただ、子守歌の脚や腕や手に包帯が巻かれ、心なしか足取りが重たそうだったのが気になった。
でも、生きていてよかった、と落葉は思った。
話したいことはたくさんある。伝えたいこともたくさんある。
そして、子守歌が生きていたのだから、イオンちゃんも生きているよね、と落葉は訳もなく思い込む。
黒板上部に設置された時計を見ると、午後二時三十分を指し示している。早く授業が終わらないかな、と落葉は思う。早く女子寮に帰り、子守歌が生きていたことを盛大にお祝いするのだ。恐らく、子守歌は表情を変えずに、「なんでお祝いをする必要があるんだ」と呟くだろう。で、次にこう言うのだ。「たくさん料理を作られても、私は多くを食べられないんだ」と。
くすっ、と落葉は小さく笑い声をこぼす。
今日はいいことばかりだ、と落葉は思う。だって、名前も知らないあの子がごはんを食べられるようになったし、歩けるようにもなったんだもん。
微かな振動が教室を包み、8枚の翼を持った白銀色のジェット機が校舎をかすめるように、飛び立っていった。先生を乗せたジェット機は、飛行機雲の軌跡を残し、やがて遥か彼方へと消えていった。
重々しい静寂に包まれた教室から、目をそらすように落葉は淡く消えてゆく飛行機雲を見ながら思う。
たぶん、明日はもっといい事がある。いいことばかりで、人生は彩られてゆくんだよね、きっと、と落葉は強くそう信じ込もうとしていた。
しかし、落葉が右手でさする、左腕に刻まれた痣はすでに肘まで達していた。




