No(姉).3とNo(弟).7-4
対馬海岸から内陸に5キロメートルほどの場所に広葉樹と針葉樹が入り混じった小高い丘が存在する。その丘の頂上に建つ、旧時代のマンションに似た外観をした女子寮が、今まさに、水平線に沈みゆく太陽の赤色の光を全身に浴びていた。
20の窓が陽の光に照り輝くその女子寮は、外壁のコンクリートの所々がひび割れ、コケや蔦で覆われており、誰一人として住んでいなさそうな雰囲気すら醸し出している。
しかし、照りつける陽の光に抗うように、ある一室の窓に蛍光灯の明かりが灯る。
子守歌、落葉、イオンはその女子寮にある子守歌の部屋に来ていた。
部屋の中心に置かれた円卓を囲むようにして座る三人。円卓上に置かれた、落葉が張り切りすぎたがために、作りすぎた料理を囲む形で三人は座っている。
ドア側に落葉が座り、それを基準として時計回りにイオン、子守歌と座っている。
「ほら子守歌もイオンちゃんもたくさん食べて、僕は頑張りに頑張って料理を作ったんだから」
子守歌の部屋に三人が来てから、すでに二時間が経過していた。その間、何をするわけでもなく子守歌はボーと過ごし、イオンは黒猫と戯れていた。落葉はと言うと、料理に一人奮闘していた。
落葉に手伝いを見事に断られた子守歌は、二時間もの間、窓から望むことのできる、世界の暮れゆく姿をぼんやりと見つめることとなった。
夕暮れ時の、刻々と色を変える美しい空を見ていても、瞬きをするたびに、五日前に東校第一グラウンドに落ちた紫色の一筋の光が、視界に入る茜色の空と重なり、何度となくちらついた。
空、紫色の光、一筋の光、少なくとも3つの島を消し去った、大人達の裁きの光。セブン――。
連想に連想を重ね、思考は渦巻き、分裂、断裂をし、ふと息をつくと、窓の外は闇に覆われ、星が輝いていた。複雑な思考の迷宮に入り込み、迷い迷って、出てきたときには、自分が何故、迷宮に入って行ったのかすらわからなくなっていた。
ただ、握りしめた手を開くと、光り輝く黄金色の宝石がそこにはあり、空気に触れると、闇の中でパッとはじけ、砕けた宝石から零れ出た残響が、やがては言葉に変わり、子守歌にあることを告げていた。
セブンはあの紫色の光について、何かを知っている。
「…………」
子守歌は、透明感ある橙色をしたコンソメスープをスプーンですくい、何事もなかったように口へと運ぶ。玉ねぎの甘みとウィンナーの旨みをスープが包み込み、ピリッとした胡椒がアクセントとしてきいている。
調理技術をほとんど必要としないコンソメスープを、絶妙なバランス加減で舌の上にハーモニーを奏でるレベルへと昇華させる落葉に、料理において絶対にかなわないと、子守歌は毎度思わされる。
「ほら、子守歌、たらたら食べていないで、もっといきよいよく食べないと全部食べきれないよ」
円卓には間違いなく、三人では食べきれないほどの料理が所狭しと並んでいる。
トマト、ハム、チーズ、キュウリを主としたピンチョス、ドレッシングがふんだんにかけられたおしどりのサラダ、表面がカリッと黄土色に照り輝くカボチャのグラタン、数種のトマトが惜しみなく使われたトマトクリームパスタ、香草香り立つ、ニンニクと塩コショウで味つけされたスペアリブ。
他にもたくさん料理が並べられていたが、子守歌はその並べられた料理を一目見たときから、絶対に食べきれるわけがないと思っていた。
「どうしたの? 子守歌。もっと口を動かさないと満腹中枢に支配されて、食べられなくなっちゃうよ」
アンチョビ、マッシュルーム、エリンギ等が入ったアヒージヨを薄くスライスされたバケットにのせ、おいしそうに頬張る落葉。
「私はもともと少食なんだ。わかっているだろ」
「うん、わかっている。だから、子守歌の胸は小さいんだよね」
「胸の小ささと食べる量の少なさには、因果関係がないと思うが……」
胸が小さいと言われて子守歌はムッとなった。
「本当に子守歌は胸のことになると、ちんぷんかんぷんなことを言うよね。食べる量と胸の大きさには因果関係があるに決まっているじゃない」落葉は、皿に盛られたれんこんチップスを一つ取り、口へと投げ込む。「だって、僕はたくさん食べるから、子守歌よりも10センチも背が低いのに、子守歌よりも胸は大きいんだよ」
「ふっ」子守歌は息を吐く。「BカップもAカップも、近似的に見れば大差ないのではないかな? それにだ、確かに私は今、タンクトップを着ていて胸がないように見えるが、脱ぐと実はすごいのだよ」
落葉はジト目で子守歌を見る。
「胸のことになると本当にちんぷんかんぷんだ。まあいいや、僕が折れるよ。子守歌の胸はある。それでいいよね」
「折れるも何もないだろう。私の胸はあるのだから……」
「はいはい……ほらほら、もっと早く食べないと食べきれないよ。まだデザートのフルーツタルトが冷蔵庫に入っているんだから……」
子守歌は、口にふくんだレモンウォーターを吐き出しそうになった。それと同時に、目の前にある料理以外にも、まだデザートが待っていると思うと、気持ち悪くなり、食べたものをリバースしそうにもなった。
「ほら、子守歌もイオンちゃんを見習ってがつがつ食べないと……」
子守歌の正面に座るイオンは、取り皿いっぱいに料理を盛り、黙々と食べていた。口周りにトマトクリームパスタのソースをべったりとつけている。
料理をむさぼるように食べるイオンは、落葉と子守歌の視線に気がつき、食べるのをやめる。
「す、すみません。あまりにおいしくて、つい……食べ過ぎてしまいました」
フォークを取り皿に置き、俯くイオン。
「いいんだよ。もっと食べてよ。なんなら、全部食べてもいいくらいだよ。子守歌は全然食べてくれないし、僕としてもイオンちゃんがそんなにおいしそうにたくさん食べてくれるなら、頑張ったかいがあると思えるしさ……」
「でも……自分は……」
唇を噛み、頬を赤らめるイオン。瞳は揺らぎ、恥ずかしそうだ。イオンの横にいる黒猫は皿に盛られたスペアリブの骨をかじっている。
「ん、どうしたの? イオンちゃん」
「…………」下唇を強く噛むイオン。数秒後、意を決したかのように口を開く。「やっぱり、がつがつ食べるのは……女の子らしくないでしょうか?」
一瞬、空気が凍り付いた。
静寂が三人の間に入り込み、窓の外から、風に揺れる木々の葉擦れの音が生々しく響いてきた。
その静寂を破ったのは落葉だった。
「ふふふふふ」お腹を抱えて笑う落葉。それに対して顔を真っ赤にして俯くイオン。あひる座りをしたイオンは両手を両ひざの間に置き、ワンピースのスカートを強く握りしめている。「ごめんごめん……」目じりに溜まった涙を拭う落葉。「あまりにも意外な言葉がイオンちゃんの口から飛び出してきたからびっくりしちゃったよ。イオンちゃんって、自分の世界で生きているって感じだったけど、周りの目も気にするんだね」
「………………」
さらに言葉を失うイオン。蒸気が出そうなほど顔を真っ赤に染めている。
「……けど、まあ、がつがつ食べるのもいいんじゃないかな。僕は女の子らしさが何なのかについては自信を持って言えないけどさ、たくさん食べてくれる子は好きだな。子守歌のために料理を毎日作っても、ほとんど食べてくれないから、ちょっと悲しかったってのもあるんだけどね」
俯いていたイオンの体の震えが収まる。
「だからさ、イオンちゃんがたくさん食べているところを見て、すごくうれしかったんだ。ほら、トマトクリームパスタなんて、パスタを600グラムも茹でたのに、イオンちゃん一人で全部食べちゃったんだもの。僕と子守歌だったら半分は残しちゃうよ」
「す、すみません。おいしくてつい……」
「いいんだよ。なくなったらまた作ればいいんだし……あ、もっと作ろうか? トマトクリームパスタ?」
「いえ……あの……お、お願いします」
恥ずかしそうに小さく呟くイオン。その言葉を聞いた落葉は「よし、任せて」と胸を叩き、空になったトマトクリームパスタの皿を手に取って、再びキッチンに立つ。
子守歌はナッツクッキーを口へと運び、レモンウォーターで流し込んだ。
「たくさん、食べられるんだな」
「……す、すみません」
子守歌の言葉に、半ば反射的に謝るイオン。
「いや、いいんだ。どんどん食べてくれていい。どうせ、私も落葉もこれほどの量の料理は食べきれない」
子守歌は、普段の夕食の二倍以上に当たる1000キロカロリーものエネルギーを摂取してしまったことで、胸やけすらしていた。
「す、すみませんでした」もう一度謝るイオン。「あまりにおいしくて……つい」
「レモン島に来てから、あまり食事をとっていないのか?」
「い、いえ……」イオンが首を振ると、肩にかかるイオンの後ろ髪がなびいた。「食べるには食べているんですが……既製品ばかりで」
「ああ……」
子守歌はコンビニで買ったあんぱんを思い出す。もし、落葉が毎日料理を作ってくれなかったら、恐らくは子守歌も既製品ばかりの食事をしていただろう。
「それに……」イオンは言葉を切る。そして、ぐっと言葉を溜め込み、内にため込んでいた淀んだ思いを吐き出すかのように、ゆっくりと言葉を吐き出した。「どこか、自分はおかしくなっているんです」
グラスに入った氷がカラリと音をたてた。
「どういう意味だ?」
目を泳がせながら、イオンは言う。「最近、ずっとおかしいんです。どこかおかしくなっているんです。食事だって昔はこんなにも必要ありませんでした。けど、最近は食べたくて、食べたくてしょうがないんです」
子守歌は横目でキッチンを見ると、沸かしたお湯へとパスタを楽しそうに入れている落葉が映った。
「それは……」子守歌はイオンのその言葉にひっかかりを感じた。そして、ある言葉を思い出した。だが、それは極めて例外中の例外に発現するものなので、すぐに除外をし、普通に返した。「ただの成長だと、私は思うのだが……」
「成長……ですか?」
「ああ、成長だ。私たち女は、ある年齢になったら劇的に体が変化する。まさに劇的にだ。コピードールと言えど、その変化は普通の人間と何ら変わりない。それが来たのだよ、イオン」
「でも……」
「第二次成長期というものがあるだろう? 見た限りイオン、君はまだそれが来ていないかのように見える」
身長140センチ、体355キログラム、バスト68センチ、ウェスト52センチ、ヒップ65センチと記録されたイオンの身体情報の一部を、子守歌は記憶から呼び起こす。ただ、第二次成長期だとイオンに自信を持って言ったにもかかわらず、子守歌自身どこか違和感を拭えなかった。
「そうでしょうか……自分はまだ成熟した女にはなっていないのでしょうか……」
「……深く考えすぎる必要はない。おかしくなることは誰にだってあるものだ」
子守歌は自らの手のひらを見る。やけに生命線が短い、細くしなやかな指を持ったその手のひらが、ふと粘り気のある血に汚れているように見えた。
何百人もの能力者を手にかけ殺してきた瞬間、あの生々しくも肉を貫き、血が両手へと滴る瞬間ほど、生きている実感が持てることはなかった。生温かく、粘り気のある鮮血、悲痛に満ちた能力者の表情とかすれるような断末魔の叫び、生命を握りつぶした恍惚感、そして遺伝子にコードされた殺戮を求める狂おしいほどの欲求。
表面的には平和を望みつつも、争いをどこか求める本能を抱え、その両者の矛盾を強く感じながらも、どうすることもできない自分をおかしくないと言えるのだろうか、と子守歌は思う。
「そんなことは、誰にだってある」
子守歌はもう一度同じ言葉を吐き出す。血に汚れて見えた両手を握り絞め、再び両手を開くと、細くしなやかな、簡単に折れそうなほど繊細な指を持った両手がそこにはあった。両手から滴り落ちていた赤黒い血は消え去っていた。
「すみません。つまらない話をして……」
長いまつ毛を蓄えた瞼を何度かパチパチと閉じ、本当に申し訳なさそうにイオンは謝る。
「いや、いいんだ。こちらこそすまない。らしくもなく、自分の世界に入り込んでしまった」
「自分の世界?」
「いや、気にしなくていい。そういえば、まだトマトクリームパスタはできないのか?」
落葉を見ると、すでに皿に盛られたトマトクリームパスタは調理台に置かれていた。にもかかわらず、落葉はスライスしたにんにくとベーコン、玉ねぎをフライパンで炒めると同時に、ボール入れた生クリームに卵の黄身とチーズ加え、混ぜ合わせている。どうやら、カルボナーラも作るつもりらしい。
「まだ……のようですね」イオンも落葉を見ながら呟く。そのとき、アナログテレビ脇に置いてあったファミコンが、イオンの目に入ったらしい。イオンはファミコンに差さっているカセットをじっと見つめている。「これって……ドラゴンファンタジーⅢですか?」
「ああ、そうだが……それがどうかしたのか?」
「自分は……」口元をキュッと結び、子守歌を真剣な眼差しで見つめるイオン。その瞳はまるで宝物を見つけた子供のように輝いている。「初めて、初めて自分は……DFⅢを見ました」
「ああ……レトロゲームとしてかなりレアだからな。私も多くのゲームショップを見て回ってきたが、このゲームを今までに三度しか見たことがない」
「じ、自分は初めてです」イオンの声が上ずっている。顔が微かに上気し、普段の無表情とは打って変わり、自然の笑顔がこぼれている。「どこで、見つけたんですか?」
「ああ、このDFⅢは、北エリアのコオロギ商店街裏街道3にある『麦わら帽子』という名の店で買ったんだ」
「そう……ですか……」
「ああ、そうだ。学校ごとの委員長の集いがあり、たまたま北エリアに立ち寄った機会に、そのDFⅢを見つけた」
「北エリアですか……」
イオンの表情が曇る。
エリアをまたぐということは、他校の生徒に狙われるという危険を孕んでいる。それ故に、よほどのことがない限り、このレモン島においては、能力者が所属するエリアから出ることはない。
「……レトロゲームが好きなのか?」
「え? あ、はい、好きでした」
「好きでした?」
「はい。メロン島にいたときはよくレトロゲームで遊んでいました。自分の場合はファミコンではなく、スーパーファミコンでですが……」スーパーファミコンはファミコンの後継機にあたる。「メロン島が消えてしまったときに、集めたカセットもろともすべて消えてしまいましたが……」
食事を終えて寝転がる黒猫のお腹をイオンが撫でると、気持ちよさそうに喉を鳴らし、黒猫は身をよじった。
「それは、残念だったな」
「はい……けど、怪我の功名ではないですが、こうして子守歌さんや落葉さんに仲良くしていただいて……決して悪いことばかりではなかったような気がします。メロン島では自分はずっと一人でしたから……」
ずっと一人で生きてきたイオン。その人生がどれほど辛いものであったのか、子守歌は想像することができなかった。子守歌自身孤独は嫌いではなかったし、どちらかと言うと好きだったせいかもしれない。
孤独でいれば、誰に邪魔されることなく静寂の中で生きてゆくことができる。つまらないいさかいや怒りや憎しみに紛らわされることはない。だが、それは常に誰かがそばにいたからこそ言えることなのではないだろうか、と子守歌はふと思う。
子守歌のそばには常に誰かがいた。
敵であろうと味方であろうと、常に寄り添ってくれる誰かがいた。
セブン――彼も落葉と同じように、過去に子守歌のそばにいた一人だった。
「ほらほら、僕を放置して、二人でいい雰囲気になっていてずるいなあ~」落葉は円卓にカルボナーラとトマトクリームパスタがふんだんに盛られた二皿を置きながら言う。「それにしても、二人とも全然食べていないじゃない。二人だけの世界でイチィチャするのはかまわないけどさ、僕の料理もちゃんと食べてよ」
子守歌は落葉の言うイチャイチャには突っ込まずにさらりと、
「もう、私はお腹がいっぱいなんだ。すまないな」と返す。
落葉は、子守歌の言葉に頬を膨らませ、「もう!」と言う。
イオンはと言うと、再び料理を食べ出していた。すでに普通の人の5倍の量の食事をたいらげている。その機械的に黙々と食べている姿を見ていると、ある種の真なる力を使用した代償――エネルギーを大量摂取する必要性――が思い浮ぶ。
しかし、子守歌はイオンがどんな真なる力を持っているのか全く知らなかった。そして、それは、イオン以外にただ一人を除いて、誰も知らないことだった。




