紫色に染まる過去と未来1
おとぎ話で聞いた話だが、この日本という国は昔、北海道、本州、四国、九州の四つの島で構成されていたらしい。そのことは、現在細切れの108の群島と、それよりも大きな23の島で構成される日本という国に住む子守歌には理解しがたいことだったが、自分が今いる場所が、およそ100年前に陸続きだったと想像するだけで、なんだか不思議な感じがした。
100年前に愛知県であった場所――大部分は海なのだが――に存在する4つの島。その最も東にある第4果物島――またの名をレモン島――のとある海岸の砂浜を、子守歌は鼻歌を口ずさみながら歩き、南から吹きつける生暖かい海風を全身に浴びながら、二週間ぶりの休日を堪能していた。
包帯が幾重にも巻かれた左前腕部は、先日戦った、名前すら知らない麻痺系統能力者によって傷つけられた毒のせいで、ほとんど動かすことができないが、DNAをデザインされて生産された子守歌たち――『作られた子供達』は一般的に回復力も優れていることから、一昨日と比べると、多少気になる程度でしかなくなっていた。
「油断か……」子守歌は包帯が巻かれた左前腕部に口づけをしながら呟く。
少しばかり強い海風が吹き、黒のシャツの上に羽織っている白衣の裾と、眉毛にかかっている不揃いに切り揃えられた前髪が後方へと流れる。
擦れた白ペンキのように見える雲の間から顔を出す太陽。その光に照らされ、白銀色に輝く砂浜を、裸足で歩きながら、海の遥か彼方を子守歌は見つめていた。
この第四果物島南西50キロメートルに位置する第一果物島――またの名をメロン島。その島は、およそ一か月前に消え去った。そして、その残骸が波に乗り、この対馬海岸にも多く漂着していた。
砂から顔を出している、宝石のような輝きを放つ、無数のガラスの破片、もとは建物の一部であったのであろう木片や鉄骨、そして、メロン島に血管や神経のように張り巡らされていた電線や電信柱、さらにはもとが何なのかわからないものすら、空からこの対馬海岸を見下ろせば、ゴミの廃棄場所と見間違えるほどに、メロン島からの漂着物で溢れかえっていた。
その幾つもの漂着物を軽々と飛び越え、塗装がはがれたバンのルーフに飛び乗った子守歌は、腰を下ろす。太陽の光で温められたルーフの熱を、デニムの短パン越しに感じながら、メロン島があった方向へと目を凝らす。
視力20・0の子守歌には、海上を飛び交う、点描ほどの大きさにしか見えないカモメの群れですら、はっきりと目にすることができたが、それらの遥か遠方にあったはずのメロン島は目にすることができなかった。
両肩を抱きしめ、子守歌はブルッと震えた。
一か月前まで、はっきりと目にすることができたメロン島。中心部に高さ600メートルの高さを誇る、太陽に照らされた時に青銀色に輝く、大地に突き刺さった剣を連想させるあの電波塔を見つめながら、子守歌は何度となく外にある世界を想像した。
しかし、
今では、その大地にそびえ立っていた電波塔どころか、その下部に広がっていた緩やかな傾斜に生い茂っていた木々や、島の外縁部にドーナッツ状に立ち並んでいた研究施設、能力者養成機関、名前すらわからない数々の建造物、さらにはメロン島の大地すらも消え去り、白い波が刻まれた灰色に汚れた海しか目にすることができない。
「大人たちによる裁き……か……」
大人たちによる裁きの雷について、子守歌は多くのことを知っていた。特別な権利を持っている子守歌は、同じ学校の生徒たちが手に入れることのできない多くの情報を、ネットを介して手に入れることができる。それは、人工的に作られた存在ではない『大人たち』が日常的に触れている情報であり、日本各地に細切れに存在する108の人工島に住む子守歌たち――『作られた子供たち』が基本的に手に入れることのできない情報でもあった。
「2212年7月14日AM03時未明、老朽化した、2021年に建造された名古屋スカイツリーを含む第一果物島を廃棄処分にした」子守歌はネットを介して見つけた情報をつらつらと口ずさむ。「2212年7月7日AM02時未明、火災事故によって使用不可になった火力発電所を含む第六深海魚島を廃棄処分にした。2212年6月30日AM03時未明、横倒しになったまま放置された中央高速道路を含む第十一建造物島を廃棄処分にした」
記憶にとどめられた情報を口ずさむだけでも、子守歌は吐き気を伴った気持ち悪さに襲われた。
大人たちは島だけでなく、作られた子供たちもろとも処分している。それもここ三週間で、世の中に公開されている情報だけでも、3つの島が消されている。
今日は2212年7月20日。
大人たちによる裁きは7月1日、7月7日、7月14日と一週間ごとに行われている。ということは、明日の深夜未明、つまりは7月21日深夜未明に、おそらくは四度目の裁きが行われる。
子守歌は自分がアクセスできうる範囲で情報を掻き集め、次の標的になっている島を予測しようとした。しかし、その無意味さに打ちのめされ、途中でやめた。
「神に祈るしかない悲しき存在の私たち……」
空を見上げた子守歌の目に、薄らと白く輝く月が映った。
後方へと伸ばした、上半身を支える両手。そのルーフについた右手指先が、バンのフロントガラスに触れる。熱伝導率の低いガラスはバンのルーフに比べ、ひんやりとしていた。子守歌は手のひらで、砂埃に汚れたフロントガラスを撫でる。
そして、
子守歌はゆっくりと息を吐き、触れていたフロントガラスを、まるで水をすくい上げるかのようにすくい、握りしめた。
青白い燐光をまとった手のひらがフロントガラスから離れると、子守歌の触れた部分だけが綺麗に消え去ったフロントガラスがそこにはあった。対して、子守歌の手のひらの上には、野球ボールほどのガラス玉が乗っていた。
砂埃が内部に入り込んだ濁度の高い、球形というよりは楕円形に近いそれを子守歌は握りしめ、立ち上がる。
過去の動画でしか見たことのない野球。その過去の遺物ともいえるゲームで投げていた、名前すら知らない投手の投球フォームを思い出し、分析し、子守歌なりのアレンジを加え、最も効率のよい投げ方を、子守歌はごく自然に行う。
高々と振り上げた左足、滑らかな前進移動と重心移動、それに伴うテイクバックからゆったりと振り上がってゆく右腕。振り上げた左足がルーフに着地した瞬間、ぎりぎりまで開きを押さえた上半身が、エネルギーを溜めに溜めたゴムのように一気に解放され、上半身の回転に遅れ、肘が、そして、ガラス玉を握った右手が前方へと押し出されてゆく。
風の音と潮騒に混じり、空気を切り裂くような音が響いた直後、太陽の光に照らされ、ダイアモンドの如き輝きを放つガラス玉が高々と弧を描く。遥か上空に舞い上がったそれは、空から流れる一縷の涙のように流れ落ち、やがて波際に散在する数々の漂着物の一つである、子守歌が立っているバンから、500メートルほどの距離にある波間へと消えていった。
そして、波間に消えたガラス玉を見つめながら子守歌は小さく呟く。
「私達は作られた子供達。だから、神――大人たちに従うしかないんだ」