「変態には社会的制裁が必要やからな」
――ダァンッ!!
さて翌日である。
水無月さんは、よほど昼休みを心待ちにしていたらしい。
チャイムが四限目の終了を告げた。まだ古文の内井が板書を取っているときだった。
チャイムは鳴れど、教室の空気は依然『休』ではなく『学』が支配するところであり、だからやにわに立ち上がった水無月さんが、大音立てて自分の椅子を蹴飛ばし、隣席のぼくのところまで華麗なサイドステップを決めたときには、クラス中の視線が一点に集中した。
盛大な反復横跳び。心待ちってレベルじゃないぞ。
「まだ授業終了の号令は済んでいませんよ」
と制止する教師の声なぞ何のその。
水無月さんはぼくの袖をむんずと捕まえると、チャリオットを牽く軍馬のごとき怪力で引き寄せた。
「わ、わっ……!」
一瞬だった。せめてもぼくに出来たのは、昼食代の入った財布を、机に置き去りにしないようにすることくらい。
クラスメイトたちの好奇の視線を背中に浴びながら、ぼくたちは教室を飛び出す。やめて皆、こっち見ないで。
「水無月さんっ。手、離してよ。袖が伸びるって」
「あ、そだね。じゃこっち、握ってもいい?」
ずんずん廊下を進みながら、水無月さんは一旦袖から手を離すと、改めてぼくの手首をぎゅっと掴みしめる。
痛くはないが、振り解くことも叶わなそうな握力。つとに受けた両手プレスを身体が思い出して、指の先がびくびく戦慄いた。
そんな震えに目敏く気付いた水無月さんが、
「もしかして寒いのかな。風邪でも引いた? 最近、寒暖差が激しいもんね。体調崩さないようにしないと」
むしろ暑いくらいです。背筋だけは寒いけどな。
「でも大丈夫っ。私の料理を食べたら、身体、すぐにぽかぽか温かくなるよ」
見れば、水無月さんは片方の手に、バスケットと魔法瓶を提げている。
なるほど、これがぼくのご飯か。今日は購買や学食に行かなくて済みそうだ。
わざわざ作ってくれたのは素直にありがたい。だけど、二人分……いや三、四人分くらいはありそうな、ちょっとした百科事典くらいの大きさのプラスチック製の容れ物であるのはどうしたことか。
もしやピクニックにでも繰り出すつもりではないだろうな。レジャーシートは携えてないようだけど。
「ピクニックかあ。それも良いかも。私、良いスポット知ってるから、今度一緒に行こうね」
まずい。変な入れ知恵をしてしまった。
これでは次の日曜日にでも、ぼくの家にずかずか上がり込んで、そこらの公園へずるずる引き摺りだしかねないじゃないか。
とびきり可愛い幼女のご相伴に預かれるならまだしも、何が悲しくてせっかくの休日を潰し、女子高生のママゴトに付き合わなければならないのかね。
人間に火の知識を与えたがために、ゼウスの怒りを買って酷刑を言い渡されたプロメテウスの気持ちは、きっとこのような感じだったに違いない。
「今からどこに行くのさ?」
ぼくの問い掛けに、頭半個分くらい低い旋毛は、嬉しげにバスケットを振り回して、
「二人きりになれるとこっ」
水無月さんはハレバレ笑顔。ぼくはドンヨリ苦笑。膝も笑いそうだよ。
「ほら、こっちこっち。早くしないと冷めちゃうよ」
まだ人通りの少ない廊下を、そこのけそこのけお馬が通るとばかりに駆けながら、運動不足のぼくはぜいぜいと息急き切る。もちろん手は水無月さんと繋いだまま。
流れていく窓と扉。ポスターと掲示板。走馬灯のように、という比喩表現はまさしく今ぼくが見ている光景のことだろうね。
速すぎて心臓がひしゃげそうだ。アウトバーンだってもっと徐行運転するぞ。
「すぐ着くからっ」
階段を三段飛ばしで降って東棟を後にし、ガザニアとペチュニアとマリーゴールドとがこれでもかと咲き乱れる黄金色のエクステリアを走り抜け、西棟の階段をまたもや三段飛ばしで駆け昇り、やがて廊下の行き止まりで急ブレーキ。
図書室にほど近い、ある扉の前で立ち止まった。
何かの部室だろうとは察しが付くけれど、部活名が掲げられるべきプレートは抜き取られ、寥々とした雰囲気を湛えている。
ぼくはふうふう酸素を肺に掻き込みながら、
「ここは?」
水無月さんは、見せびらかすようにジャラリと鍵を鳴らして、
「大丈夫よ。使用許可なら貰ってるから」
質問をはぐらかされた。しかも多分嘘だ。目の中で魚が泳いでいるからな。
「細かいことは気にしない気にしない。私がいる。あなたがいる。二人が一緒になれる場所があって、食べ物もある。それで充分でしょう?」
なんだか語弊のある言い方だけど……まあいいさ。
パッと食べて、パッと出てしまおう。どうせ教室で膝を突き合わせ、バスケットの中身を広げようものなら、たちまち注目の的だろうからね。
先だって水無月さんが教室で見せた、体操競技じみた曲芸のせいでもある。
少しくらい反省の色は浮かんでいるかなと、鍵を回してドアノブを捻る白皙の横顔を観察してみるけれど……うん、一ルクスたりともなさそうだな。
「さ、入って入って」
ぼくの手をがっちりホールドしながら、水無月さんがドアを開けると……と、と。と――。
――時間が止まった気がした。
「……………………」
「……………………」
きっとこの時ばかりは、地球の歳差運動だって停止していたに違いないと思うね。
中は和室で、畳が敷き詰められていた、とか。
部屋は意外と広く、数人程度の部活やサークルなら部室に出来るかもしれない、とか。
そんなことは最早どうでもいい。
ぼくが思わず蹈鞴を踏んでしまったのも、無理からぬ話だろう。
何故なら和室の真ん中に、どこかのジャングルでひっそり原始生活を営んでいそうな珍妙な格好の女が、半裸で突っ立っていたのだから。
……ふ、不審者だああーっ!
「う、ぁ……」
その女はぼくと水無月さんの入室に気付くと、ギョッと凝固。
あたかも天敵のアオダイショウを目の前にしたひ弱なアマガエルが、死んだフリをすべきか跳んで逃げるべきか、決めかねているような表情である。
なんとか表情と性別は分かったものの、しかし顔から足の指先まで、これでもかと塗りたくられた茶褐色と白のボディペイントに、一体何の意味があるのだろう。
『チャーリーとチョコレート工場』という映画で、オーガスタスという少年が全身チョコ塗れになってしまうシーンがあるが、まさにそれだ。
「な、ななな何や、あんたら」
何やはこっちの台詞だよ。
ぼくと水無月さんと謎女。三人が仲良く共有するこの居た堪れない空気を、どうしてくれるんだ。
かろうじて下着と腰蓑は身に付けているようだけど、胸はブラが意味をなさないくらいにぺったんこ。
とりわけ首に提げられたカラフルな飾り羽付きの土面が、目前の女の変態性を更に引き立たせて、何やら近寄りがたい空気を放っていた。
どこか大陸奥地の原住民めいた民族衣装……と表現すれば良いんだろうかね。
「原住民ちゃうわ。あんたの目は節穴?」
なんか憤慨された。関西弁で。
「今日は石器時代ごっこをやっとっただけや」
目を眇めて観察してみるけれど、やっぱりジャングルだとかオーストラリアだとかいったワードを思い起こさせる格好にしか見えない。
「……ハァそっスか。楽しいっスか?」
「割とな。少年もやってみいへんか。衣装貸したるで」
遠慮しておこう。ぼくはまだ変態になりたくない。
ひょっとしてこの人は、毎日のようにこの茶室みたいな小部屋を占拠しては、一人パリ・コレクション・原住民版でも開いているのだろうか。
スポットライトはおろかキャットウォークすらない和室と、古式ゆかしいストーンエイジ・スタイルの組み合わせは、目がチカチカするほどのアンバランスさであるが。
扮装女は腰に両手を当てて、思わずチップを払いたくなるほどの太々しさで踏ん反り返りながら、
「なんか悪いか」
悪くはないさ。ここが神聖なる学び舎だということを除けばな。
ぼくだって、柳田國男や南方熊楠といった先達の築き上げた民俗学的、文化人類学的な著作の数々に、胸を躍らせる一人だから、貶すつもりは毛頭ない。寧ろ祖霊信仰の念すら覚えるね。
この人には覚えないし、覚えたくもないが。
ところでそこのコスプレ女。そんなに踏ん反り返って、さながら偉ぶったミーアキャットみたいだけど、腰蓑の隙間からパンツがチラチラ見えそうだ。っていうか今も見えてるぞ。
意外と大胆なパンツをお召しになってるんですね。とてもセクシュアルでコケティッシュな――
「み、見んなっ。見んなっ。このヘンタイ少年!」
見たくて見たわけじゃない、と反論しようとしたその時、
――ガコンッ
と鈍い音がした。何の音か。
何やら人の肘ほどもある飛行物体が空気を切り裂いて飛翔し、猛然とぼくの額に激突した音である。
その額をぼくは反射的に撫で、血は出ていないと胸を撫で下ろしたところで、余韻のようにじんじんと痛みが滲んできた。
痛っててて。ひょっとしてこれ、頭蓋骨が折れたんじゃない?
「ふん。シドニー空港の免税店で買ったブーメランや。変態には社会的制裁が必要やからな」
無い胸を張って、得意げに得物を説明する旧石器女は、
「ふひひ。これな、280ドルもしてんで。初めて役に立ったわ。ただの飾りやなかったんやな」
ブーメランを回収すると、まるで凶悪な指名手配犯に45ロング・コルト弾を一発お見舞いしてやった新米保安官のような顔をして、キッとぼくを睨んだ。
やっぱりそれ、石器時代ではなくアボリジニとかそっち系の格好なんじゃ……?
格好といえば、畳にはこの女が先刻まで纏っていたらしい制服が無造作に散らかっていて、そのリボンの色を見るに上級生で決まりだろう。
まったく、何者なんだろうね。この唐変木な趣味の持ち主は。
「あー、水無月さん。先客がいるようだよ」
女の姿をしたブーメラン投射機よりかは信頼できるだろうと、ぼくの隣に立つクラスメイトに視線を転じてみると、
――パシャリ。
当の水無月さんは携帯を取り出して、コスプレ好き変態女をパシャパシャ撮影していた。
ここはいつの間にコミケ会場になったんだろう。
「さっ撮影は禁止! 撮んな。頼むから」
自分の顔と身体を両手で隠して恥じらう上級生だが、構わず水無月さんは無表情でシャッターを切り続ける。
「そこの少年。アーヤを止めてくれへん?」
アーヤって誰だ。……ああ、水無月綾音をもじってアーヤか。
どうやらこの女子二人は知り合いらしい。それも渾名で呼び合う程度にはフレンドリーみたいだ。
とはいえ初対面の人間に狩猟投具をブチ当てちまう人に従う義理は、毛頭ないね。鈍く痛むおでこだって、そう訴えてるさ。
そもそも目の前の偽先住民だって、好きで半裸になったんだろうよ。
だったら写真くらい良いじゃないですか。後で素晴らしい記念になりますよ。
「素晴らしいわけないやろ!」
ぼくの隣からは、なおも電子的なシャッター音が続く。
その水無月さんだが、しかしよくよく見てみると、どこか不穏な雰囲気を湛えていた。
あたかも大事にしていたオヤツを、近所の泥棒猫に奪われたドラ猫のように、不愉快さを隠そうともしていない。
おやや、水無月さんってこんな表情もするんだな。いつも微笑のイメージだけど。
「うぁぁ……恥ずかしくて死にそう。アーヤほどエゲツないクラス委員は見たことないわ。しかも初対面の少年にも目撃されるしな。しんどいわもう」
とは似非石器時代ガールの嘆き。うるうる目である。
水無月さんは、失態を演じた上司を気が進まないながらも仕方なく案じてやる部下のような声で、
「会長ー。また石器時代ごっこしてたんですか?」
「ま、な。家には両親とチビッ子たちがおるんやし、しゃーないやろ? 自分の部屋がない以上、この部室を拝借したってわけや」
拝借と言えば聞こえは良いが、とどのつまりただの不法占拠じゃないか。
そんな破茶滅茶な主張が認められる可能性なんぞ、シーランド公国が独立承認されて、国連安保理の常任理事国入りを果たすのと同じくらいの確率に違いないね。
本当に誰だろう、この人?
「何もこんなところでやらなくたっていいじゃないですか、会長」
「昨年度に華道部が解散してな。ちょうど一つ空き部屋ができて、誰も使わんようやし、んじゃあたしが有効活用してやるわと思ったわけよ。これもエコ、エコ」
不法占拠者が、自慢気にVサインをしてみせた。エコじゃなくてエゴだろ。
二人の会話に疑問を覚えて、ぼくは水無月さんに訊ねてみる。
「会長だって?」
「そう。この人、こう見えてうちの高校の生徒会長なんだよ。ゴールデンウィークの前の生徒会選挙、覚えてない? 壇上で演説してたのが、この人」
覚えてないね。いや、選挙というイベントそのものの記憶はある。
全校生徒の集う体育館で、各候補者の長ったらしい演説をうつらうつらと聞かされたあと、しめやかに行われた投票作業の記憶が。
その時、確かにぼくも有権者の一人として票を投じたはずだ。
怠惰な生徒連中を気遣ってくれたのか、投票用紙はマークシート式だった。そんな用紙作成者の厚意に感謝しつつ、ぼくは鉛筆を転がして投票先を決めた。
当然、顔や名前なんて、この鈍い脳ミソをたとえアンモン角まで掘り返したところで、見付かりはしないさ。
「ううん……?」
いや待てよ。このコスプレ女の顔、そう言えばどこかで見かけた覚えがある。
そうだ。確かいつぞや中庭でバッタンバッタン魚みたいに跳ねていた……。
「ええと、ケムシ先輩、ですかね?」
段々思い出してきた。
つい昨日、襟元に入り込んだ一枚の葉を、毛虫と勘違いした大騒ぎ。
一頻りドタバタ劇を演じた後、目出度く保健室だかどこだか、退場を余儀なくされた上級生は、まさにこの人だったはずだ。
「うががー。……見られてたんやな。恥ずかっちぃ……」
コスプレ衣装のまま頭を抱えるケムシ先輩である。
やめて下さいよ、仮にも上級生じゃないですか。見ているこっちが恥ずかしいです。
もしここに針の筵があったなら、ケムシ先輩はぐっさぐさ穴だらけになっていたに違いない。
「君たち二人はどんな関係なのさ?」
ぼくは年季の入った掛け軸やら床の間やらに感心した風を装って、キョロキョロしながら、気詰まりさを和らげようとしてみる。
ケムシ先輩と水無月さんは仲良しみたいだが、ぼくは蚊帳の外だからな。
「僚友や」とケムシ先輩は答えて、「うちの学校、定期的に会報を発行しているんやけど、締め切り時期は毎度ヤバイんよ。もうてんてこ舞い。それでアーヤたちクラス委員にもヘルプ頼んだりしてな」
つまり仕事仲間というわけか。お忙しいこって。
「こっちからも質問」とケムシ先輩は優等生然とした挙手をして、
「少年は、アーヤとどんな関係なん?」
今度はぼくが質問された。
ケムシ先輩はギョロリと目玉を動かして、ぼくに刺すような視線をくれる。
人を虫ケラのように睥睨することに慣れた立ち居振る舞い。そして頭に立ち昇るエリートウーマン的なオーラ。おまけに関西弁の詰問にはドスがあった。
さぞ有能な御仁なんだろうな。頭二つ分低い身長と、突飛なコスプレのせいで、いまいち締まらないけれど。
ジオングに生えた足と同じで、つまり蛇足なのだ。然るべき格好をすれば良いのに、もったいないと思うね。
「こんなところに出張ってナニする気なん? 学校の部室を汚すマネは、くれぐれも慎んでくれや」
ナニって何だ。
「人目を忍んで公共施設に入り込み、こそこそ逢引するつもりやったんやろ。生徒会長として、不純異性交遊を前に、見て見ぬ振りを決め込む訳にはいかへんな」
ケムシ先輩にはそのように見えるのか。早とちりも過ぎる。
やむなくぼくはバスケットを指差して、
「違います。ぼくたちはただ昼食を摂るためにですね……」
「なぁアーヤ。その少年は彼氏なん?」
必死の抗弁を東風のごとく流しながら、ケムシ先輩はぼくの隣人に水を向けた。
いやあ、実はぼくたち、昨日まで面識の無かったアカの他人デシテ。このほどお友達になったばかりで、今から一緒に弁当を摘むんデスヨ。
……なぁんて弁明したところで、男女二人が並べばヘチマもナスビもカップルに見える年頃の高校生は、納得しないだろうさ。
「やいのやいのー。やいやいのー。彼氏なん? カーレシなぁん??」
うっざ! 毛虫好きのコスプレ女のくせにウザっ!
ぼくは水無月さんがどう思っているのか気になって、目玉を転がしてみると……ありゃどういうわけか。ポッと顔を赤らめながら、胸の前で両手組み合わせて、いじいじしていた。
まるでご機嫌を伺うかのように、ぼくにチラチラと流し目を送って、ひたすら無言の体である。
何だろうね、この曰くありげな視線は。
「ぼくと水無月さんは、ただの友達ですよ」
口を『~』の字にしたまま沈黙を貫く友達に変わって、ぼくはそう答えた。ただの、を強調して。
聞いた水無月さんは、あたかもクレシダに裏切られたトロイラスのような表情で憮然としているが構うまい。
「昼食を食べたら即座に出て行きます。ぼくたちにこの部屋を貸してくれませんか。先輩」
「むー。今日はうちが使う予定やってんけど……」
この期に及んでケムシ先輩は、まだ石器時代ごっことやらを続けたいらしい。その悪たれぶりときたら、頑固な幼稚園児以上である。
こんな無味乾燥な和室の何が、かくも彼女を惹きつけるのかと、一風変わった上級生のシリアスな顔とシュールな衣装を、蚤取り眼でしげしげ観察してみるが、さっぱりだった。
ふと我に返った水無月さんが、携帯端末を握りしめながら、ボソッと呟いた。
「会長のこの写真。印刷して、学校のあちこちにバラ撒いちゃおうかな……」
「なっ! このうちを脅すつもりなんか……!」
ケムシ先輩が口角泡を飛ばして抗議する。
しじまに目を伏せている水無月さん。しかしその瞳は瞳孔が開いていて、深海魚のように暗黒の中を揺蕩っていた。
「わたしがいつ脅しましたか? ただ先輩の姿があまりにカッコよかったから、みんなに教えてあげよっかなって」
「それが脅しやって言ってんねん。リベンジポルノかなんかか」
沸騰したやかん以上に真っ赤になって、怒り心頭に発するケムシ先輩だった。
彼女にしてみれば、せっかく安寧の地で心地良く自分の世界に浸っていたところに、闖入者がずかずか入り込み、自分の恥ずかしい写真を盗撮した挙句、強請りたかり同然の要求を突き付けてきたわけだから、詮方もない。
「ネットにアップするのも良いかも」
水無月さんが畳み掛ける。
「やめてや。マジでやめろ」
「コラージュで裸にひん剥いて、デジタル世界に燦然と聳え立つ永遠のタトゥーにするとか」
「あばばばばば!」
それはもう犯罪じゃないのか?
だがこの鬼気迫る恫喝は、さしもの生徒会長には効果覿面だったらしく、たった今までぷりぷり怒りを露わにしていた真っ赤な顔も、いまやすっかり土気色だ。
はあはあと息を荒げて、過呼吸になりかけてるけど大丈夫かな。この痴態上級生は。
「わたしのお願いはたった一つです、会長。この部室を使わせてくれませんか?」
ついにケムシ先輩は、弱々しくホールドアップした。
「……しゃーないな。今日のところは使ってええわ……」
しかしそこで手打ちにする水無月さんではない。
彼女は、まるで捕らえた敵将を打ち首にすべきか鋸引きにすべきかを選びかねた武将のように、サディスティックな笑顔を浮かべて、
「毎日」
「んっ?」
「毎日、昼休みと放課後。ここ、使っていいですか?」
暫し逡巡していたケムシ先輩だったが、ふりふりと携帯を見せびらかす水無月さんを見るや、あえなく陥落。
「……ちぇっ。好きにしろ」
ヘナヘナと畳に座り込むケムシ先輩には、不憫すら感じるね。同情心は湧かないが。
要するに学校の空室の無断使用を試みる、自分勝手な利己主義者二人が対峙して、一方が敗れ去ったというだけの話だ。
ぼくは本日の昼飯にありつければ充分なので、椅子取りゲームの拡大版みたいな様相を呈し始めているやり取りを、ボサーッと眺めるのみに徹しておこう。
「ではでは。会長はさっさとお引き取りを」
「分かったって。そう急かさんといてや」
水無月さんは、ケムシ先輩の制服やら化粧鞄やらブーメランやらを乱雑に拾うと、持ち主に押し付けた。
肩を叩かれて出口に促されるケムシ先輩は、しおしお負け犬の雰囲気を背中に貼り付けている。
後ろ姿は相変わらずアボリジニだけど、これからトイレででも着替えるんだろうかね。
「アディオス」と関西風味の捨て台詞。
そしてバタンと扉が閉まり、ついでに水無月さんが内側から鍵を閉める音が響く。
しかして部室には、空腹を持て余す男女二人が残された。
「邪魔者がいるなんて思わなかったよ。でももう大丈夫。わたしが追い出したからね」
水無月さんが手を後ろに組みながら、ぱあああっとダリアのような笑顔を咲かせた。
仕事仲間を陰で邪魔者呼ばわりかい。女同士の喧嘩(か?)には怖いものがあるね。ぼくは男に生まれて良かったよ。
「それじゃ、ご飯にしよっか」
そこまでしてぼくに食べさせたいらしい料理なんだ。
さぞかし頬が落ちるほどの佳肴なのだろうさ。存分に期待しようじゃないか。
何故って? ぼくが一口でも手を付けないと、教室に帰してくれなさそうな雰囲気だからさ。
未だに痺れの消えない額を摩りつつ、錠で固く閉ざされたドアを見ながら、ぼくはこくりと首を縦に振った。
もっとも、結論から言うと。
その期待は儚くも潰えることになるのだが。