「それならね。わたしとお友達になっちゃえばいいんだよ」
切っ掛け、なんてものは大抵取るに足りないものさ。
それはあたかも砂粒のごとく何処にでも転がっているけれど、その中から巧みに砂金を見付けて拾い集め、一つの形に組み上げられる人は、そうそういるものではない。
滅多にいないからこそ、風呂に浸かったアルキメデスが、湯船から溢れる水を見て浮力の原理を発見したという逸話が、まことしやかに語り伝えられるし、はたまたケントの花から落ちるリンゴを見て万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンが、今日に至って近代科学の父として持て囃されているわけだ。
別に科学に限らなくたっていい。
スポーツだろうがビジネスだろうが株の仕手戦だろうが、何でもそうさ。況んや恋愛だってな。
大切なことは二つ。砂粒と砂金を見分ける眼識力と、その作業を根気強く続けて精錬するひたむきな努力である。
もっとも、どこまでが砂金でどこまでがそうでないかの基準は、人によりけりだけど。
ドの付くロリコンだからこそ、その壁の高さに諦念を抱き、とうに上記二つを投げ出して久しいぼくが言うんだから間違いないね。
しかしながらと言うべきか、水無月さんほど諦念というものとかけ離れた人はいなかった。
あの赤髪娘の性格を簡潔に言い表すと、猪突猛進。
今のぼくなら、それを胸を張って証言することができる。
だけど言い訳に聞こえるかもしれないが、あのときのぼくは、水無月さんのことを何も知らなかったんだ。
まこと無知は罪であることだなあ。
とはいえ今更臍を噛んだところで、後悔先には立たないわけだが。
「ねえ。暑いね」
昼休みの教室。水無月さんが開口一番、そう話しかけてきた。
あの訳分からない抱き着き事件以来、この委員長気質の同級生は、こうしてぼくの机まで足繁く通い、何気ない会話を交わすようになっている。
「……うん。そうだね」
購買のパンを腹に収めたばかりのぼくである。暑さに茹だりつつも、せっせと胃の中のものを消化する作業に没頭しており、つまり端的に言えば暇だった。
水無月さんは、手を団扇の形にしてパタパタと扇ぎながら、
「早くプール開きになったら良いのになあ……」
まだゴールデンウィークが終わったばかりだ。
学校のプールが使えるようになるまで、二ヶ月は掛かるぞ。
「二ヶ月か、待ち遠しいね。でもわたし、夏は好きだけど暑いのは苦手。泳ぐのは好きだけど肌が焼けるのは嫌だから」
「小麦色の肌は、健康的で悪くはないと思うよ」と適当に答えるぼく。
「え。……そう言うならわたし、肌、焼いちゃおうかな。あなたって、そういう女の子が好みなの?」
別段、肌の色にこだわりはない。重視すべきはキメの細かさだからだ。
ぼくは幼稚園児や小学生のようなスベスベもちもちの肌が好きで、というか、子供そのものが好きだ。
もしひとクラス分の女子小学生全員と丸一日イチャイチャお触りするという、ぼくの儚い夢が叶うなら、その後ファラリスの雄牛で根性焼きさせられたって構わないさ。
「あ、そうだ。良いこと思い付いた」
水無月さんは、ポンッと手を叩いて、
「夏休みになったら、一緒に海へ行こうよ」
「は、海? どこの?」
来年の事を言うと鬼が笑うものだが、ときに、四半期先の事を言うとどんな顔になるのかね。ニヤケ顔かな。
「沖縄でも伊豆でもどこでもいいけど。オーシャンビューの出来るリゾートホテルに一週間くらい泊まって、朝から晩まで水着で過ごすの」
えぇぇ……心配だ。
「心配しなくても大丈夫。こう見えてわたし、結構お金持ってるから。あなたは手ぶらで来て良いよ」
なおのこと心配だ。
「ふふ。手ブラ、か。想像が広がっちゃうな。貸し切りの砂浜で二人は産まれたままの姿になって、恥ずかしいところを互いの手で隠し合うの。なんだかヤらしいよね」
この人の頭が心配だ。
「そういう訳だから今年の夏は海で決定。そうと決まったからには、水着を買いに行かなくちゃね。ふふ、何着てほしい?」
なぁんでも着たげるよ、と言って水無月さんは挑発的な笑みを浮かべた。
「あー……」
幾分、天邪鬼の気があるぼくである。つい「何でも」と言われたものだから、うっかり『ナザレのイエスを包んだ聖骸布』とか『稚日女尊が織っていた神衣』とかをオーダーしてしまいそうになるが、一応自粛。
というかだ。そもそも何故、既に行くことが決まったような話し振りなんだ。こっちはウンともスンとも言ってないぞ。
「ぼくと君は知り合って半日も経ってない。どうして知らない人と、バカンスの話で盛り上がれると思うのさ?」
ぼくは当然の疑問を発してみるけれど、水無月さんはさも不思議そうに小首を傾げて、
「時間は関係ないよ。半日だろうと半世紀だろうと、反りが合ったら友達だし、合わなかったら敵なだけ」
何故か、赤い糸の話が頭をよぎった。
「だってせっかくの高校一年の夏休みなんだよ。気が合う人と一緒に楽しまなきゃ、損に決まってるでしょう?」
確かに……そうかも知れない。
水無月さんの意見を、頭から否定する気は起きなかった。
ぼくだって仲の良い友達と一緒にいれば落ち着くし、ゆくゆくは恋人――もちろんロリロリの――を作って、グラブ・ジャムン並みに甘い時間をゆるりと過ごしたくも思うさ。
だけどそれは、二人の波長が合えば、という前提があったればこそだ。付け加えれば、ぼくは目の前のクラスメイト女の波長なんぞ全く知らない。
ナイン・インチ・ネイルズが務めるオープニング・アクト無しでのデヴィッド・ボウイがいまいちのコンサートしか開けないのと同様の理屈で、前座をすっ飛ばされていきなりメイン・アクトに入られても、困惑しか覚えないのは道理である。いや、これは例えがちと不適切だったかな。
ともかく、世の中は切っ掛けというものが大切なのだ。そしてそんな喋々しいものは、この二人の間には一切存在ない。
「だからだよ」
水無月さんはグッと握り拳を振り上げて、
「だから切っ掛けっていうのは、無かったら自分で作らなきゃいけないの。指を咥えて見ているだけじゃ、青い鳥は飛んでこないのよ」
そう言って笑う水無月さんの目はどこまでも真っ直ぐで、だからぼくは何だか気恥ずかしくなって、ついと目を逸らした。
ぼくがとうに諦めた大切な何かを、この人は今も強く持っている。その眩しさに気圧されたんだ。
「そういうわけだから近いうち、一緒に水着買いに行こう。あなたの空いてる日を、後で絶対教えてね。スケジュール帳には不滅インクで書くから」
チャイムが鳴って、水無月さんは白い歯を見せた。
さて、そんな彼女が予告した出来事が、その通りに実行の運びとなった。
七時間目が終了して、夕方のホームルームの時間である。
担任の教師(名前は内井と言ったっけ。スーツを着た没個性的な男だ)は簡潔に連絡事項を伝達すると、クラス委員――水無月さんを呼び出した。
席替えの始まりである。
水無月さんは、席番号を書かれたクジの束を、白い恋人の缶に詰めて、配って回る。
一番手は、窓際の最前列に陣取るぼく。
何をトチ狂ったのか、こんな教師の目に付きやすい椅子に何週間も席を置く事になったため、雨霰と質問を浴びせられ続けてきたのである。最初にクジを引く権利くらい、当然だと思うね。
ほどなくして菓子缶をクリスマスプレゼントみたいに抱えた水無月さんが、ぼくに歩み寄ってきた。
みんなに気付かれないよう、胸の前でひらひら小さく手を振っている。
水無月さんはぼくの目をそろそろと覗いて――ちょっぴり赤面。
何やら意味ありげな笑窪を浮かべつつ、ぼくにクジを差し出した。
「はいどーぞ。“良い席”になれるといいね」
午後にうたた寝くらい出来るポジションが良いなぁ。などと思いつつクジを引く。
次の人のところへ向かう水無月さんと、背中で波打つワインレッドの髪を見送りながら、ぼくは紙片を開いて、
「また窓際……だけど今度は最後列、か」
最前列でも中央でもなく、最後尾の席を得た。
教師の死角らしい、悪くない位置だ。しかも今の席から近い。
まあ、陽射しが強い日なんかは、顔の片方が焼けたりするかも知れないけどな。その時にはカーテンを閉めさせてもらうとしよう。誰も文句は言うまい。
やがてクジ引きが終わり、がやがや引っ越しが始まった。
コングは、ぼくの席から見て教室の反対側、遠くに移動することになったらしい。
「お前と離れ離れになっちまうなんて」だの「誰と筋肉談義すりゃいいんだあ……」だの泣き言を並べてくるけれど、ハイハイと等閑に対応しておいた。
コングの交友関係って意外と狭いのかもしれないな。お前が言えた台詞じゃないだろって? ごもっとも。
確かに友人と離れるのはちょっぴり寂しいさ。
しかし想像してみてほしい。もし君の隣に筋肉でできたクリスマスツリーみたいなのが居座っていて、しかもそいつは休み時間の度に、だしぬけにトレーニングチューブを取り出してはずっと広背筋を鍛え続ける、人間蒸気機関車みたいな存在だったとしたら?
さすがに堪忍してくれと悲鳴を上げるのではないだろうか。とりわけこの季節には。
「これ。俺の形見だと思って受け取ってくれ」
そう言ってコングが手渡してくるのは、なんだか鎌倉武士が着る腹当のような形をした謎の器具だった。端からコードが伸びている。
コング曰く、EMSマシンとか言うらしい。
ボクサーのチャンピオンベルトのようにお腹に巻くと、電気による筋肉収縮活動で腹筋を鍛えるのだとか。うわぁ、要らねえ……。
「持ってるだけなら損はせん。マッスルを手に入れろよ」
暑苦しいサムズアップを残して、コングは去っていった。ぼくは手持ち無沙汰に立ち尽くす。
これ、どうしろと。捨てちゃっても良いかな。いや一応、好意ではあるんだろうし……鞄に突っ込んでおくか。嵩張るなぁもう。
「さてと」
ふんわり教室を包む昂揚気分に混じって、ぼくも数席分、後ずさりしただけの椅子に、どっかと尻を下ろす。
はてさて、ご近所さんはどんな人かな? と、ぼくはぐるりと首を一巡させてみた。
教科書を忘れたときなんかに、快く見せてくれる人だと嬉しいが。
左手は窓。
前席は、バスケットボール部のノッポ少年、高橋くん。右斜め前の席は、声楽部のアルト歌手、ジャバ・ザ・ハットさん(体型的に。失礼)。
この二人のタッパは凄かった。うむ、こいつは素晴らしい。教師の目を阻んでくれる、良い壁になってくれそうだな。
幾らでも眠り放題、サボり放題だぞ。
お次。ぼくの右隣に着いたのは誰だろうね?
そう視線を巡らせて……思わず舌を巻いた。なんとそこに鎮座ましますは――
「お隣同士……お隣同士。これは正当なクジ引きの結果なんだから仕方ないよね。うんっうん」
ロダンの考える人みたいな格好をした水無月さんが、机の端と睨めっこしながら、なんかぽつぽつ呟いている。
と思いきや、マリオネットのごとくクイッと首が九十度回転。ピシッと背筋を伸ばして、ぼくの目を食い入るように見つめ始めた。なんだか怖い動き。
「ふつつか者ですが、これからよろしくね。ふふ、ふふふふ……」
II型超新星爆発並みの明るさを放つ、謎めいた笑みだった。
水無月さんは、輪切りしたオレンジみたいな瑞々しい唇に、そっと人差し指を当てて、悪戯っぽい口調でぼくの名を唱える。
「あ、あー、お手柔らかに」
ぼくはぎこちない笑顔で、生返事してしまう。
お手柔らかにの用法が微妙に間違ってるような気もするけれど、先立って起きた窓際密着事件(仮称)が脳裏に張り付くせいで、他に上手い挨拶が浮かばなかった。
「ふふっ。おかしな人」
席替えは月に一度というルールが、いつの間に決められたらしい。
だから今後、ぼくは最低でも一ヶ月は、起き上がり小法師よろしく、水無月さんと毎日顔を突き合わせることになる。
そういえばどこかの誰かが言ってたっけ。スクールライフを快適に過ごす秘訣は、周囲との仲を良好に保つことだ、と。
取り敢えず、何か話しかけてみるか。
「水無月さん。そういえば君って、どうしてクラス委員になろうと思ったの?」
水無月さんは、文房具ケースから色々な道具を取り出す。
持ち手がふわふわシリコンのシャーペン。表紙にゴシック調な数字のフォントが並ぶ数IAの教科書。定規と数学コンパス。
もうすぐ終業のチャイムが鳴るのに、何のつもりだろう。
「んー、まぁね。本当は委員になるつもりはなかったんだ。実を言うとね、この学校に来たとき、陸上部に入ろうと思ってたの。中学でもそうだったから」
「体育会系に? ああ、確かに君、活発そうな性格に見える」
「だけどその……色々思うところがあってね。そうっ。たまには責任ある役職に就いてみるのも良いかなって思ったんだ」
「へえ、そうなんだ」
「なにしろこの仕事、結構見返りがあるからねっ」
「見返りって……?」
またまた思わせぶりな微笑である。
謎めかして人差し指を伸ばす水無月さん。白魚のような指の先端が、教壇で空を晒す菓子缶に向けられた。はて、どういう意味だろう。
水無月さんは、分かんなくてもいいよ、むしろ分かったら困るかな、と言いたげに手首をぶんぶん振って、
「それよりね。せっかくお隣さん同士になったんだしさ。携帯のアドレス、交換しようよ」
席が隣合わせってだけで連絡交換?
男同士ですら滅多にしないのに、まして男女間でそれは性急に過ぎないかね。
「ええとほら。どっちかが休んだときとか、ノートの見せ合いっこ出来るでしょう?」
「ぼくはいいよ。友達に見せてもらうから。……コングとか」
体育と保健以外はオール2のコングが、真面目にノートを取ってるとは思えないので、アテにはしてないけどさ。
対して、ぼくは予習復習をきっちりこなすタイプだから、一日二日くらい休んだところで、どうということはないのだ。
いや正直に明かそう。ただ予習復習と読書の他に、時間の潰し方を知らないだけである。
ああ、趣味をろくに持たず友人にも乏しい、悲しき男子高校生の性よ。
「じゃあ今日から、わたしたちもお友達になろうよ」
お友達、だって?
「そう。授業中にひそひそ話をしたりね。ノートに落書きしながら筆談したりね。お昼休みに一緒にご飯食べたりね。一緒にトイレ行ったりね。色んなコトするお友達」
メッシーナ占領を決意したばかりのパットン将軍だってこんな表情はしなかっただろうというくらいの、悪巧みの笑顔をした水無月さんは、そう宣った。
まるで「ねえ○○くん、おともだちになーりましょ」「うんいーよ、●●ちゃん。なーりましょ」と意気投合するさまを想像させる気楽さである。
いやまあね、小学生同士ならそれでも良いんだけどね。さすがに高校生にもなると、恥ずかしいっちゅーか何ちゅーかですね。
あまつさえ連れションとは。冗談ですよね。
「本当はね。お友達じゃなくて、もっと先の関係が良いんだけど。でもこれから何十年もの付き合いになるんだしさ。まずはゆっくりステップを踏んで行くのも良いかなって」
何十年とな。一ヶ月の言い間違いじゃなくて?
「とにかく最初はお友達から始めようよ。ね? まずはほら。アドレス交換しよっ」
「うーん……」
ぼくが腕組みしながら躊躇っていると、そのとき。
水無月さんがぼくを眼光鋭く睨み付けていることに気付く。
「……もしかしてあなた、わたしと友達になりたくないの?」
地の割れ目から這い上がるような声が響いた。
蚊が鳴く程度の声量だが、しかしナイフよりも鋭く、しっかり根の張ったボイス。
この声を聞いてなんだかぼくは、うっかり他の女神に花冠を捧げる姿を目撃されたがために、女神アフロディテの嫉妬を買ってしまったヒッポリュトスみたいな気分になる。
「わたしがあなたの傍にいたら迷惑なの? わたしは邪魔者なの……?」
水無月さんのただでさえ白い顔が、いっそう青白さを増していた。心做しか、水無月さんの瞳から生気が消えたような。
津波の前兆めいて血の気の引いた目が、じっとぼくを見据えている。ひぃぃ。
「それともわたし、資格がないのかな? 資格がないから、あなたの電話帳に載ることすら出来ないのかな……」
ぼくの全身で、ぞぞぞっと鳥肌が立っていく。
水無月さんがぐっと身を寄せてきた。近い近い。
思わず身を縮めるぼく。と、いきなり水無月さんに両手を乱暴に握り締められた。
指の骨がギシギシ言って痛たたたたたギャーー。
「ねぇ、教えてよ。どうしたらわたしをお友達にしてくれるのかをさ。どうしたらその資格を手に入れられるのかをさ」
「……」
「何かわたしに嫌なところがあるの? 駄目なところがあるの? 足りないところがあるの?」
「…………」
「言ってくれたら、わたし、受け入れるよ? 全部。あなたの傍に寄り添えるように、ちゃんと駄目なところは直すし、足りないところは埋める」
「………………」
「わかった。他に女がいるんだ。ふふ、なるほど。その女にくだらない讒言を吹き込まれたせいで、わたしはお邪魔虫扱いされてるんだ」
「……………………」
「その女、嫉妬深くて醜い性格だね。あなたに釣り合わないわ。駄目だよ、そういう猜疑心の塊みたいなクソ女と付き合ってちゃ。醜い毒が伝染っちゃう」
「…………………………」
「でも大丈夫。わたしがあなたを守ってあげる。そのクソ女と“話し合い”して、跡形もなく解決してあげる。全部わたしに任せて、あなたは何も心配しなくていいよ。だからそのクソ女の住所、教えて欲しいな」
怖い怖い痛い怖い。何なんだこの人。
清楚な顔をして、やにわに血腥い台詞を吐き出したぞ。
クソ女だって? ぼくにそんな知り合いはいない。
なんならここで携帯の電話帳を見せてもいい。ナミブ砂漠以上にスッカラカンなのは一目瞭然だ。
登録されている女性といえば二人だけ、母親とアンさんくらい。
「み、水無月さん。落ち着いて。突然アドレス交換を持ち掛けられたから、ちょっとビックリしただけ」
「そうなの? クソ女に絡まれて困ってるんじゃなくて?」
「違う違う。ほらぼく、友達とかあんまりいないからさ」
気を取り直したのか、険しかった水無月さんの表情が、ホッと緩んだ。ぼくから手を離して、一つ咳払い。
指を見ると軽く鬱血していた。ぼくをみっしり包む紫色の、水無月さんの手の跡。
さしずめ獰猛な野生動物にマーキングされたようである。ここはわたしのテリトリーだから誰も近付くな、と。
手の甲に浮かぶ血管がヒリヒリした。
「それならね。わたしとお友達になっちゃえばいいんだよ」
水無月さんが数学コンパスをチャキチャキと弄ぶ。鋭い針。
数学の授業ならとっくに終わりましたよ。そのギラギラした物体で、一体どこに円を描くつもりなんですかね。
「あっはい。お友達になっちゃいたいです。ぼく、水無月さんと仲良くなります。約束します」
「うんっ。約束だからね。いっぱい仲良くしようね。ずっと。ずぅーっと」
あー諾々。首振り人形めいた動きで首を振る。ぼくってヘタレなんだな。
嬉々として鞄から端末を取り出す水無月さん。
ぼくと同じ機種だった。驚いたことに、保護ケースまで同じ。凄い偶然もあるんだこと。
「でも水無月さん。もうすぐ帰る時間だから。携帯、仕舞った方が良いよ」
「大丈夫大丈夫っ、すぐ済むから。あなたも携帯、持って来てるよね。いつもズボンの左ポケットに入れてるもんね?」
「そりゃ持って来てるけどさ……」
何だってこの人は、ぼくの携帯の仕舞い場所を知ってるのさ?
ぼくはぽりぽり頬を掻きながら、端末を取り出す。
先刻、水無月さんの両手でプレスされた指先が、じんじん痺れるけれど、どうにか堪えて暗証番号を入力。
ロック画面を解き、アドホック通信の準備を進める。
その指先を水無月さんは、マジシャンの種を見破ろうとする観客さながらの真剣さで見つめながら、
「そういえばあなたって、SNSとかやってたりする?」
「突然何の話?」
「わたし、ネットで探してみたんだ。丸一日かけて、あなたのアカウントを。でもラ○ンもフェイ○ブックもインス○グラムも見付からなかった」
よくもまあ進んで骨を折り、くたびれ儲けをしたものだ。
「どんなワードで検索しても空振りだったし、もしかして私、あなたに避けられてるのかなって。過呼吸になりかけたくらいだよ」
白い歯を零して、平然とおどけて見せる水無月さん。
でも目が全然笑ってない。怖えぇ。
「ぼくはその手のソーシャルサービス、使ってないよ」
「じゃあわたしと一緒に始めてみる?」
「やめておく。誘ってくれたのは嬉しいけど」
実を言うと、ツイ○ターとpix○vはやってるがね。
アカウントを一つ二つ持っておけば、アニメや漫画の情報を集めるのに便利なのである。とはいえ友人知人に知られると、翌日から登校拒否待ったなしの性癖全開こっ恥ずかしい書き込みばかりしてるので、誰にも教える気はないがな。
実生活と電脳空間はきっちり分けたい。ぼくはそんな性分なのさ。
「じゃ、電話番号とアドレスだけ交換しよっか。こっちは準備万端。そっちは?」
「うん。ぼくも出来たよ。水無月さん」
「よーし、行っくよー。さーん、にー、いーち……」
――ピロリン♪
と、水滴みたいな軽やかな電子音が鳴った。
「はーい。お疲れ様でした」
スマホを見ると、『水無月 綾音 **** こんにちは』の表示。テスト送信だろう。
【これでわたしたち、いつでもどこでも連絡が取り放題だねっ。声でもメールでもテレビ電話でも】
乾いた笑いが漏れる。
やれやれ。そこまでして一体、この人はぼくと何をやり取りしたいんだろうかね。
こちとら、趣味もろくに持たないぼっち人間なんだ。
話題を長続きさせる自信はない。年頃の女子を満足させる自信もない。
「それからさ、先刻からずっと気になってたんだけど」と水無月さん。
顔はニコニコと笑みを絶やさず、しかし口調はめっと子供を優しく叱る感じで、
「あなた、水無月さん水無月さんって呼んでるよね。あの、それ、ね。ちょっとやめて欲しい、かも」
え。自分の苗字が嫌いとかか?
「そうじゃなくってさ。苗字にさん付けって、なんだか他人行儀だよ」
「何と呼べば?」
「綾音。綾音ちゃん。アヤ。アーたんでもいいよ」
いやいや、それはちょっと……。
正直、この人のことを、ぼくはつい先刻まで知らなかったんだ。名前すら。
特徴的な髪と白い肌を持つ、クラスメイトの女の子。
ぼくの中の水無月さんは、そんな位置付けだった。昨日まで赤の他人だった。
なのにどうしてこの人は、水溜りをぴょんと飛び越えるがごとく、簡単に人との距離を縮めることが出来るんだろうね。
「わたしもあなたのこと、名前で呼ぶから。ね?」
「あー、水無月さん」
「だから名前で呼んでってばーっ」と水無月さんは抗議がましい目を向けながら、
「もうっ。本当に水臭いなぁ。わたしたちはもうお友達。フレンド。パートナーなんだから。朝から夜まで一緒で家族同然なんだよ? だから綾音って呼んで」
「……水無月さん」
水無月さんは、人差し指と中指で額を抱える。
何かに思い至ったのか、テル・ブリュッヘンが描くマグダラのマリアめいた憂い顔で、「そう。今日はこのあたりが限界なのかな……」ぶつぶつ独り言ちた後、
「じゃあ今は名前で呼ばなくてもいいよ。その代わり一つお願い、聞いてくれる?」
「良いよ」
ぼくに出来ることなら、な。水着だの何だの電波なお願いをされたら、すぐさま逃げを決め込んでやる。
「明日のお昼ご飯、一緒に食べて欲しいな。私と」
それくらいならお安い御用さ。いや、諸手で歓迎してもいいくらい。
いつも昼はコングと机を合わせて食べるけど、さすがに真夏ばりの季節に、筋肉談義はキツいものがある。脱水症状で死んでしまいかねない。
エベレスト登頂装備に身を包みながらサウナ我慢大会に出場するのと、どちらがマシだろうか。どっちも嫌だ。
水無月さんは、ぱああっとハイビスカスみたいな笑顔を咲かせて、
「場所は私に任せて。あなた、いつも購買部のパンだったよね。学食組や弁当組と違って、どこでも食べられるでしょう?」
お、おう。ぼくが普段、昼に何をパクついているのか、よく知ってるんだな。
「あまり暑くないところで頼むよ」
「しかと頼まれましたっ。えへへ。大船に乗った気持ちで楽しみに待っていてくれたまえ」
水無月さんがエッヘンと胸を逸らして、請け負った。
ずいとブラウスを押し上げる、メロンみたいな二つの肉の塊がふりふり揺れて……意外とデカいんだな、この人って。
さすが学校で一番の美人と評されるだけのことはある。プロポーションはかなりのものらしい。
あいにくぼくはロリコンだから、女子高生のバストに興味は無いけれど。あんなのただの自動ミルク噴出機だろ。
「は、ははは……」
脱力した苦笑がまろび出たところで、下校時間を告げる鐘が鳴った。
担任・内井教諭もまた、号令もそこそこに辞去していく。
「さぁて、と」
ぼくも帰るか。
鞄に勉強道具を仕舞いながら隣席をチラリと瞥見すると、主たる女はなおも何か言いたげにぼくを窺っていたけれど、もう用はないだろ。
席を立って、ぼくは仮初めの我が家へと爪先を向ける。
「じゃあね」
「うん。また明日」
ポケットを探ると、席替えのクジが入っていた。
ぎゅっと握り潰しながら、何の気なしに外を眺める。
電線と電線の隙間。そこに染め抜いたようなパステルオレンジが広がっていた。
宇宙の果てまで見渡せそうな、染み一つない透明なオレンジ色。
風に吹かれて舞い上がる、牡丹雲の切れ端。
「友達……か」
この麗らかに暮れなずむ春の夕映えだ。ちょっとばかり寄り道したって、誰も訝しむまいさ。
どこからか、咽び泣くようなオーボエの音色が響いた。吹奏楽部のチューニングかな。
聞く者を大らかに包み込むそよ風のような音色に、そぞろと耳を傾けつつ。
肩に鞄を掛けて、ぼくはいそいそ教室を後にした。