「よければうちに来て、一緒に暮らしませんか?」
五月――
夏がひたひたと歩み寄ってくる。
この街にぼくが訪れて、はじめての初夏。
肌の上で粘つく風は、春の名残りを軽く吹き飛ばしてしまったらしい。
暦によると、本格的な夏の訪れはまだまだ先のはずなのに、この街はあたかもスチーム・オーブンの中だ。
雲一つない青空のてっぺんでは、真っ白な太陽がにっこり笑顔を覗かせて、額を、頬を、首筋を、じりじり焼いていく。
おかげでシャツが汗をたっぷり吸って、背中に張り付くのが鬱陶しいったらありゃしない。
まったく近頃の太陽の奴ときたら、容赦なさすぎだろう。来たる炎夏に備えた準備運動のつもりか知らないが、少しは手加減してくれたっていいだろうに。
そしてぼくのクラス、校舎東棟は四階に位置する一年一組もまた、そんな真夏さながらの陽気に、虐げられるもののひとつだった。
クラスのドアを開いて、ぼくは鞄をフックに掛ける。
四十人分の机が並んだ教室は、死屍累々。
炎帝の野郎は、所々に散るクラスの連中から丸ごと気力を奪ったらしく、被害者たちは各々の席で、ダリの時計と化していた。
ぼくも窓際の席でダレる。手早く一時間目の用意を済ませてしまうと、予鈴が鳴るまでやる事もない。
「あー」とか「うー」とか心の中でほざきつつ(本当は声に出したいけどあくまで心の中で)、暇を潰す。
ぼくはシャーペンを回したりしながら、ぼーっと左手の窓を眺めた。
南に面したこの高階の窓はなかなか見晴らしが良く、中庭を見下ろせる。
中庭は、校門と昇降口を結ぶ一本道のような形をしているから、毎朝、ここを通る生徒たちで蟻の行列の様相だ。
中庭の両脇にはジンダイアケボノが植わっている。
だから通称『桜並木』。また緑に囲まれた細長い小道に見えなくもないので、『奥の細道』と呼ばれることもある……。
……とか何とか、入学式のときに、だらしない腹の校長がハゲ輝かせながらくっ喋ってたっけな。
今や桜並木は毛虫の王国だった。
お花見シーズンはとっくに幕を下ろし、樹冠をもこもこ着膨れデブみたいに纏うのは、青々とした広葉であり、つまりそれは毛虫のベッド兼フードが盛り沢山であることを意味する。
本日の天気をお伝えします。晴れ時々曇り。ところにより毛虫が降るでしょう。
嫌がらせか何かかね。そのせいで、この桜並木を抜ける生徒たち(ぼく含め)は、毎朝タップ・ダンスを踊りながら通らなければならないのだ。
ハゲ校長め。ハゲ散らす暇があるなら、殺虫剤を散らせ。
そんな哀れな同志たちの旋毛を窓から追いながら、ぼくはブレザーを脱いだ。
ネクタイを緩める。ワイシャツの襟元が、少し汗ばんでいることに気付いて、顔を顰めた。
まったく。空からドライアイスでも降って、猛暑列島を丸ごと冷やしてくれれば良いのに。
いや、よしやそんな事態になったら、かき氷の代わりにかきドライアイスを食べなきゃいけなくなるかも知れないな。
二酸化炭素がもわもわ溢れて、さぞ豪気な光景が見られるだろう。さて何シロップが合うんだろうね。
……などと他愛もない妄想を広げていると、その時。
一陣の風が、いたずらっ子の駆け足のように吹き抜けた。
天高く伸びた桜の梢から掠め取られる、一枚の葉。それはひらひら舞い落ちて――
――運の悪いことに、下の桜並木とやらを歩く女子生徒の襟元に入り込んでしまう。
「あいいぎあが!! あがががーーーー!!!」
断末魔の奇声が上がった。
女子生徒は……ええと、制定リボンの色からすると二年生かな?
明るめのショートカットをぶんぶん振る。跳ね回る。
涙目で背中を搔きむしり、「ンンッ〜誰か取ってぇぇ……!」岸壁に打ち上がった魚よろしく、しきりにジタバタしている。
でもそれ、毛虫じゃなくてただの葉っぱだぞ。
「だ、大丈夫……?」とは、周りに集まってきたクラスメイトと思しき女子たちの声である。
心配そうに、哀れな友人(一時間後には忘れてるかもしれないけれど、この人をケムシ先輩と呼ぶことにした)に、何言かぼそぼそ話し掛けている。
背中に入り込んだものを素手で摘まみ出すわけにはいかず。かといって公衆の面前で片肌脱がせるわけにもいかず。ああでもない、こうでもないと暫し格闘。
涙を浮かべるケムシ先輩を、よしよしと宥めていた。
なんだかグズる園児をあやす保母みたいだな。
そうこうするうち女子たちは、とうとう匙を投げたらしい。降参とばかりに手を挙げて、かぶりを振る。
ケムシ先輩の腕を取ると、あたかもオイディプスの手を引くアンティゴネーのように、そろそろと保健室だか何処だかへ連れ去ってしまった。
ハゲ校長の被害者一号、堂々退場せり。だからこうなる前に殺虫剤を撒けと言ったのに。
「なぁ、おい」
と、そこでぼくと同じ光景を見ていたらしい人物が、野馬の嘶きのような声を傍で漏らした。
「お前。知ってっか?」
振り向くと、右隣の席の主にしてぼくの友人でもある男が、ケムシ先輩を顎でしゃくっている。
自信に満ちた胸板の前で、両腕を組む大男――渾名は『コング』。
この一風変わったアホっぽい渾名だが、由来は『キング・コング』だったか『博士の異常な愛情』だったか……あー、忘れた。
身長、一九〇センチ。趣味、筋トレ。特技、筋トレ。本名は、えー、これもまた忘れた。
まあ何だって構わないし、むさ苦しい男のプロフィールが気になる奇特なオーディエンスもそうそういまい。
とにかく図体の大きな男なのさ。
「ああいうの、犬も歩けばゴボウに当たるって言うんだぜ。へへっ」
藪から棒に何言ってんだこいつ。
「ゴボウじゃなくて棒だよ。コング」
ぼくが訂正してやると、この大男・コングは、まるでずっと太陽が西から昇って東に沈むと思い込んでいたが、逆だとたった今思い知らされた可哀想な人みたいに、くわっと目を丸くして、
「マジで!? ゴボウじゃねぇの!?!?」
仕方ないので、ぼくは説明してあげた。昔は犬がそこらを彷徨けば、人を襲ったり感染症をふり撒いたりするので、棒で叩かれることがあったんだ。
このようにあまり出しゃばると思いがけない災難に遭ってしまう。だから皆もよく自戒しましょうね、という意味の諺である。
しかし近年では「当たる」という言葉の縁起の良さからか、ふとした拍子に思いがけない幸運に当たるだとか、正反対の意味で使われることもある。
それにしてもゴボウで叩くってなにさ。おせち料理の具か。
「へえー、勉強になるわ。物知りなのな、お前」
そんなノーベル文学賞受賞者に向けるような尊敬の眼差しをされましても。
ところでその剽軽なトンデモ知識、一体どうやって仕入れたのさ?
「えーとだな。犬ってなんかモフモフだしコロコロしてるし、可愛いだろ?」
ふむ。それで?
「そんな可愛い犬が外をほっつき歩いたら、親切な人から美味しいゴボウを恵んでもらえる事があるかもしれん。そんな訳で、新しい物事にも物怖じせず、果敢にチャレンジしましょうって意味かとな」
用法はあながち間違ってないところが、微妙に腹立つな。
「そう褒めんなよ。照れるぜ」
「褒めてないよ……」
とまあ、以上の会話からも分かる通り、コングという男はまさしくアホであり、実際にテストの成績も常に赤点飛行である。
そんな脳筋の二文字を体現したムキムキ男が、犬も歩けば何とやらなどといった高度な文学的表現技法に興味を示すはずもない。
そのゴツい石頭で普段何を考えているのかというと、
「あればっかりは俺の筋肉でもどうにもならねぇ。とっととクスリ撒いちまえばいいんだよ」
桜並木の毛虫を指して、ぶうぶう文句を垂れた。また筋肉の話かい。
コングの思考は単純極まりない。彼の世界観は筋肉基準なのだ。
コングは高校一年男子にして、プロテイン愛好家である。
教科書代わりと言い開きながら、十キロダンベルをぎゅうぎゅうに制定鞄へ詰めて登校する、筋肉主義者でもある。
「おっどうした? じろじろこっち見つめてよ。もしかして俺の上腕二頭筋に見惚れちまったかィ?」
「コング、何言ってるのさ。早く片付けてよ、その筋肉」
昔、『コマンドー』という映画があった。若かりしアーノルド・シュワルツェネッガーが、筋肉にモノ言わせて暴れ狂うという映画だ。
観たことのある人なら、コングの肉体を指差して「筋肉モリモリマッチョマンの変態」と評して喜ぶに違いない。
実際、ぼくは喜んだ。いやボディビルダー観察趣味者とか、ゲイ雑誌定期購読者とかというわけじゃない。
誰だって、目の前で大胸筋ピクピクを披露されたら、手を叩いて大はしゃぎしてしまうだろう? 初めのうちは。
もっとも三日もすれば、ただの暑苦しい肉達磨扱いに、ぐるんぐるん掌返しした訳だけどな。
「毛虫なんか、君の自慢の上腕二頭筋でひり潰せないの?」
「バッカお前。ンな事したら肌がかぶれちまう。人様にマッスルボディ見せつけられなくなるだろ」
「見せつけなくてもいいよ。そのあり余った筋肉を、今こそ地域貢献活動に活かすべきでは?」
「うんにゃ。筋肉の使い道にも、向き不向きがあるんよ」
はあ。そういうもんですか。
窮屈そうに学習椅子に腰掛けるコングは、下敷きを取り出すと、ぱたぱた扇ぎ始めて、
「マジで今年は暑くなるぜ。今にわんさか虫が湧いて、虫祭りでも始めるに違いねぇ。お神輿担いでな」
虫たちが祭りを開いている光景を想像してみる。
虫の屋台。虫の山車。虫の神輿……。幼稚園児が水性ペンでぐしゃぐしゃ描き殴ったような線形が浮かぶ。
神輿の上にケムシ先輩がいた。法被を羽織って、ショートカットに鉢巻を巻いていた。
腕を振り上げて、「オイサー!」「セイサー!」と鬨の声を上げていて……。
……ぼくの想像力って貧相だな。
「くそったれ」
ぼくの反応に、コングは若干不満を覚えたらしい。
コングは袖を肘まで捲った丸太のような腕で、下敷きを振り上げると、横顔に射す陽光を忌々しげに払った。
払いながら、「あ゛ー」だの「う゛ー」だの空きっ腹の野犬めいた呻きを漏らす。ガタガタと貧乏揺すりもする。
「暑いわ、暑い。やってられっかよ……」
「まったくだよ。コングもその暑苦しいお召し物をお脱ぎになってはいかがですかね」
「ぜってー脱がねぇよ。こいつはな、紳士のドレスコードなんだ」
「あ、そう」
コングにとって、五月は減量の季節である。
ただでさえ暑苦しい身体なのに食事制限も重なって、本人曰く、「ストレスがアフターバーナー全開」だとか。
暑さや虫といった、夏を連想させる事象全てに向かって、呪詛を口走っている。
だからってちょっと態度が悪くないか、変態マッチョマン。ぼくにイライラをぶつけるな。
「それはそうとよぅ。お前、義理のお姉さん家に下宿してんだよな?」
暑さ紛れのためか、おもむろにコングがそんなことを訊ねてきた。正直に頷いておこう。
下宿。……というより同居と言うべきかも知れないけれど、正確には。下宿とは部屋代を納めて、他人の部屋に一定期間住まわせてもらうことを指すのだ。
そしてぼくの場合、お金は一銭たりとも払っていないのだから。
「三人暮らしだったよな。お義姉さんとその娘さんとお前とで。何つー名前だっけね……」
「義姉がアンさんで、姪が真理亜」
「そうそう。そういやそんな感じの外国っぽい名前だったわ」
「ぽい、じゃなくて本当に外国から来たんだよ。アンさんはぼくの兄と国際結婚して、真理亜を産んだんだ」
義理の姉。略して義姉。
またの呼び名を兄嫁。ぼくの兄の奥さん。
ちょうど良い機会だ。
ぼくの家族のことを、掻い摘んで説明しておこう。
話はぼくが高校に入学する前に遡る。
その昔、ぼくには兄がいた。
いた、とわざわざ過去形を使うのは、兄が故人だからだ。
兄は旅行好きだった。だからしばしば海外に渡った。
その行き先でアンさんと出会い、結婚した。そして娘――真理亜が生まれた。
美男美女のカップルに、天使のような娘。親族と友人たちの祝福。
順風満帆の結婚生活は軌道に乗り、いつまでも続くかと思われた――
――だが終焉は唐突に訪れる。
真理亜が生まれてから暫く経った頃。
ぼくの兄は不意に死んだ。航空機の墜落事故で、即死だった。
その瞬間、アンさんは未亡人になり、真理亜は父無し子になった。
兄という唯一の繋がりが断たれ、ぼくと彼女たちとの縁もまた切れた――はずだったのに。
どうやら一本の電話が、歯車の形を変えてしまったらしい。
過ぐる日。
勉強意欲なんぞ端からないが、栄えあるメトロポリスライフのためだ、仕方なしに鉛筆を握ってきりきり受験勉強に励んでいると、一本の呼び出し音がぼくの貴重な集中力を断ち切った。
こんな夜更けに誰だ。文句の一つでも贈呈してやろうと受話器を取ると、相手は女性だった。ぼくの義理の姉だと、女性は名乗った。
声は丸みがあって、どこか湿り気を帯びた響き。しかし言葉の節々は心なしか辿々しくて、今にも尻餅をつきそうな印象。
義理の姉は次のように切り出して、ぼくを誘ったのである。
――よければうちに来て、一緒に暮らしませんか?
兄が没したのは、もう何年も昔のこと。それなのに何故今更のように連絡を……?
首を傾げるぼく。そんなぼくを餌付けするように、言葉を重ねるアンさん。
――心配しなくてもいいですよ。お部屋代も食費も要りませんから。
スタバ、あります。マックやミスドだって勿論。紀○國屋。タ○レコ。T○HOシネマズ。デ○ズニーランド。うちから通えます――。
甘美な誘惑が、目の前にどさどさとぶら下げられる。
まるで途切れかけた糸を、必死で繋ぎ止めようとしているかのように。
都会への憧憬を拗らせていたぼくに、断る選択肢はなかった――
……はい、以上、回想おしまい。
追憶の旅から早々に帰還を果たしたぼくに、コングは続けざまに問い掛けて、
「新しい家族とは仲良くやれてんのか?」
こら、下敷きを人に突き付けるな。
「まあまあ、かな。アンさんは変わった人だけど、それなりに上手くやってると思う。でもねぇ、真理亜の方がね……」
「確か今、八歳の?」
ぼくは肩を竦めてみせ、
「実はぼく、真理亜と殆んど会ったことがないんだ」
「そりゃまたナンギだな。何か理由でもあんのか?」
うーん、とだけ曖昧に応えて、ぼくは頬杖を付く。
そう。目下、ぼくの同居人たちは問題を抱えている。
問題は深刻だ。なにせ真理亜はまだ小学生のくせに、自分から危ない橋を渡ろうとしているんだからな。
だというのに。娘を庇護すべき唯一の保護者であるはずの母親は――アンさんは――しかし重い腰をなかなか上げようとしない。娘を突き放して、一顧だにしない。
この親子喧嘩問題について、今は詳しくは語らないでおこう。
というか、ぼくもあまり仔細は知らないんだ。無理して説明しようとすると、あやふや雲を掴むような話し方にならざるを得ず、却って誤解を招くことになる。
そのうち分かる日も来るだろうし、その時が来たらおいおい語ることにするさ。気が向けばな。
「あたかもリンバロストの森ですれ違う、娘エルノラとその母親だよ」
と二人の関係を簡単に喩えてみるけれど、だがそこは小説全般に疎いらしいコング。ぽかんと目を点にするばかりだった。
「お前それ、アレじゃねぇか? 今まで母親と仲良く二人暮らししてたとこに、突然部外者のお前が割り込んできたもんだから、親子喧嘩してんじゃねぇか?」
「ぼく、真理亜に嫌われるほど交流してないよ」
「違ぇよ。見た目とか、生理的にダメとかだよ」
「おいおい失礼だな君ィ。ぶん殴っちゃろか」
人の神経を逆撫でする事にかけては、ミスター・オリンピアものだな。このイカレマッチョめ。
とにかくぼくの立ち位置は、いわば親子喧嘩の真っ只中に放り込まれた、婿養子のようなところである。
自分と関係ない戦争の、そのまた最前線で、ぽつんと手持ち無沙汰で立ち尽くす異星人の心境……とでも言えば伝わるかな。
正直、据わりが悪い。しかも居候の身だしね。
「そんならよう」と筋肉男は思案顔をして、「さっさと地元に帰れば良くね? 俺的には寂しいが、家庭の事情じゃ仕方ねえ」
都会は色々と便利だから、この生活を止める気はさらさら起きないね。
モノがない、娯楽がない、刺激がないのナイナイ尽くし田舎ライフは、もう懲り懲りなのさ。
それにアンさんの家も、確かに据わりは悪いが、居心地自体は決して悪くない。
同居人同士の人間関係に、ちょっぴり齟齬があるだけで。
「ふーん。真理亜、ね。なんかよう知らんが、年頃の女の子ってのは大変なのな」
まったく大変な話である。
難しい顔で首を振るぼくだが、対してコングときたら、さながらキャバクラにやって来てはD51の蘊蓄をひけらかす鉄道オタクを相手取るキャバ嬢並みに、どうでもよさそうな口調だった。
確かに君にとっては他人事だけどさ。
「そんなことはない。俺にも小っさい妹がいるからな」
「えっ知らなかった。初めて聞いたよ」
「おう、まだほんの小学生でよ。ちょっと気の抜けてるとこもあるがな、そこがまた可愛いんだ。身内フィルターが掛かってるせいかも知らんが」
先刻もその妹からメールが来てよ、と笑いながら、コングは膨れ上がった胸筋をまさぐった。
シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出す。汗に塗れてびちゃびちゃだった。
どうでもいいけど、そんな場所に薄っぺらな精密機械を入れて、折れ曲がったりしないんだろうか? 保護カバーも付けてないようだし。
コングは、「こんぴゅーたはよう分からん」だのぶつくさボヤきつつ、野太い指でタッチパネルをペタペタすると、指紋だらけの画面をヌッと差し出した。
そして――ぼくの背筋に冷たいものが走ったのである。
「妹だがな、今朝登校したとき駅で不審者に会ったらしい。ええとなになに……。
【あのキッッッッモい豚野郎! 私をニヤニヤ顔で舐めるように凝視してましたわ。息荒くして涎まで出して。
隙あらば襲おうとしてたに違いありません。すんでで逃げましたけど、危うく劣情の捌け口にされてしまうところでした。
この手の反社会的汚物どもは、纏めてふん縛ってぐるぐる巻きにして逆さ吊りにして黒炭になるまで炙ってしまえば宜しいですのに!】……
……だってよ。ああ妹よ、可哀想になぁ。そいつを見付けたら、お兄ちゃんが軽くブチのめしてやるかんな」
おもむろにコングがシャドーボクシングを始め出した。
鋼みたいに鍛え上げられた拳で、虚空を殴る。殴る。さらに殴る。
空気を切り裂くたびに、ズゥゥン! ズゥゥン! と地鳴りのような轟音が響く。
クラスメイトの何人かが地震と勘違いして、驚きの表情で振り返っていた。
え。この人本当にホモ・サピエンスなの? 制服着たローランド・ゴリラじゃなくて?
背中を嫌な汗が流れていく。悪寒までしてきた。
しかしまあ意外なこともあるもんだ。
まさか今朝のドジっ子小学生が、こんな言葉遣いをするだなんてな。
話し言葉と書き言葉がえらく異なるとはいえ、メールに書き添えられた駅名と日時は、見事にぼくと一致。ぼくは警官に指紋鑑定の結果を突き付けられた真犯人のように戦慄した。
つまり不審者=ぼく。ぼくはブタ箱に入るべき豚らしい。
なるほどね。あのとき小学生が脱兎のごとく走り去ったのは、ぼくが正視に耐えない姿をしていたからなのか……。
それにつけても世間ってのは、案外狭いものであることよなあ。ブヒブヒ。ブヒェ。
コングは、やがて空気を殴るのに飽きたらしい。
ガックリと机に突っ伏すと、「アッツいわ。めちゃんこ……」と呻いて、冬眠に入った熊のように動かなくなった。
体重に耐えきれず、鉄パイプでできた椅子の脚がギィィ……と悲鳴を上げる。
同感だ。こんな茹で釜同然の炎天下で、ぼくは錆び鉄の味を味わいたくないね。
ぼくはほっと息を吐く。
そして気分直しのつもりで、再び外を観察する作業に戻った。
どうせ殴られるなら、コングよりも彼の妹のパンチを受けたいな。
あの可愛い妹さん。文面では毒舌だけど、本当は小さくて可愛くて甘い香りがして、ちょっぴりドジっ子な妹さん。
ぼくの心の繊細な部分をピンポイントで抉るような暴言を吐きながら、思いっきりブン殴ってくれ。ついでにリングに倒れたぼくに、横四方固めをキメてくれ。
いっそのこと、柔道でも総合格闘技でも構わない。
とにかくぼくは、幼いロリと肌を触れ合いたかったんだ。
結果から言うと、数分後、そんな思春期的な願望は半分叶い、半分砕け散ることとなる。
確かに女子と肌を触れ合うことは出来たな。温かかったし、柔らかかったし、なんか良い匂いもしたさ。
だけどその肝心の相手は、少なくともロリではなかった。