「バランス崩して、ドガガガーって」
ぼくが牧場と海産物しか名物のない辺境の田舎から関東に引っ越して、およそ一ヶ月半。
この間に気付いたのは、いくら関東地方の一角を占めるにしては凋落が著しく、人口流出と経済低迷が懸念されている市といえど、ぼくの田舎と比べるとやっぱり都会で、行くところに行けば人が集まっているものなんだなということだった。
なにしろ鉄道がある。市営バスがある。
少し運賃は嵩むが、秋葉原だの池袋だの若者に人気のスポットへだってひとっ飛び。
この街の気候に、みんなは寒い寒いと愚痴を零すけれど、ぼくの体内温度計は南国並みの温暖さである事を告げており、だから行き倒れることなく、年がら年中そこらをほっつき歩くことが出来る。
思い返せば、ここに来る前は本当に酷かった。いや本当に。
なにせ近所の本屋へ行くにも、凍て付く寒さの中で、自転車を数時間も走らせなければならないほどの雪国だったからな。
田んぼの側溝に足と前輪を絡め取られて立ち往生していたところ、ウミネコの糞爆弾を食らったこともある。
そもそも何十センチも積もった雪のせいで、外出できない日だって珍しくなかった。
だがここは違う。
アスファルトの側溝には、きっちりアルミのグレーチングが嵌め込まれているから、転倒の心配は全くない。所構わず爆撃をかます海鳥もいない。
自転車は無用の長物と化し、公共交通機関がもっぱらの足に変わった。
自然の障壁にも行政の怠慢にも阻まれることなく、何処へでも羽根を伸ばせるという事実。
これがぼくを含む、歩けば泥の匂いでも振りまきそうな土俗的芋学生にとって、どれほど大きな意味を持つことか。言わずとも分かるというものだろう。
そんな訳でぼくは今年、高校一年生になった。
なぁんにもない田舎にほとほと嫌気が差したので、一念発起して高校受験に挑んだところ、首尾良く偏差値的には中の上くらいの私立高校に合格を果たし、田舎以上メガロポリス未満のコンクリートジャングルのど真ん中に構える校門をくぐることとなったのである。
そして一ヶ月半前、関東に暮らす親族を頼って引っ越したんだ。
まあ……この親族、というのがほんの少し――いやかなりだな――個性が強くて悶々とするわけだがな。
それについてはまた後々語るとしよう。
そんな経緯でぼくは、念願のメトロポリス(の近郊)ライフを大いに謳歌しているのだ。おら関東さ来ただ。
今日も今日とて、私立特有のオシャレな制定鞄を肩にかけ、電車にゆらゆら揺られるぼくである。
新しい家から高校まで、片道およそ三十分。始業式の日からずっと、土日とゴールデンウィークを除いた毎日乗り続けているから、電車通学にもそろそろ慣れた頃だ。
思えば初登校の日は、意識を吹き込まれたばかりで研究室を右往左往するアンドロイドよろしく、きょろきょろ周囲を見回したものだっけ。
都会の証である亭々たる乗車率。数分ごとに出入りする車輌群。
ドアの庇部分にカラフルな液晶ディスプレイが嵌め込まれていて、運行情報や天気ニュースなんかを目まぐるしく表示していたりするのを見て、ほへへーこれがモダンかー……などと溜め息を吐いたりしたね。
「うわあ、カッペだ! なぜここにいる!」と腰を抜かした都会人に通報されて、武装警官一個小隊に軽機関銃を向けられるという妄想を広げたりしたが、別にそんなことは起こるはずもなく。
都会人と田舎人の間に根本的な差別化が図られている様子は見受けられない。強いて言えば、ほんの少しコンクリート成分とエレクトロニクス成分とリクルートスーツ成分が多いだけ。
とはいえその成分達こそが、カッペ丸出しのぼくにとっては眩しいわけだけどな。
そういった新鮮な驚きも今は昔。
今の心境こそが、余裕綽々というやつなんだろうさ。
ぼくは慣れた手つきで掴み棒(スタンションポールって言うんだっけ?)をぎゅっと握りしめている。
窓を流れる鉄筋コンクリ群や、座席と吊り革を埋める乗客たちをボケーっと眺めている。
これぞ音に聞く通勤ラッシュか(ところで通勤ラッシュって名前、必殺技ぽくて好きだ)、と一人ふんふん頷きながら、辺りをぐるりと見回すことができるのは、一ヶ月近い練習の賜物なのだろうね。
脚を広げて二人分の座席を占領し、スポーツ紙を広げてふんぞり返るハゲ。それに殺意の視線を向ける背広の七三分けサラリーマン。そんな周囲なんかお構いなしにぼくの方へ身体を向けてスマホに没頭する女子高生……。
見渡す限り、人。人。人。
各駅停車するたびに、ちっぽけな金属の箱めがけて、波のように人が押し寄せ、人が渦巻き、人がかき混ぜられていく。
スピーカーの奏でる車内メロディと、車掌の鼻にかかったアナウンスが、波浪を飾り立てる。
ぼくも渦に呑まれながら、堂に入った構えで居場所を確保する。このコツも、最近ようやく掴めてきたところさ。
カーブに到達した混雑率170パーセントの密閉空間がひと揺れして、
「うおっと、と」
隣で器用に文庫本を立ち読みする紳士と、肩が触れ合った。
だけどこの人混みは、ほんの序の口らしい。総武線や東京メトロあたりの“本物の”ラッシュを知る人が見れば、鼻で笑うレベルだとか。
ぼくの乗る路線は細胞の末端に根を張った毛細血管のようなものなので、“疎ら”に分類されるんだそうだ。
これが段々、支線と合流するにつれて、人が増えていく。都心へ近付くにつれて、血栓のようにどろどろと蟠っていく。メトロポリス、あな恐ろしや。
幸か不幸か、そうなる前にぼくは降車するので、未だに本物のラッシュを味わわずに済んでいる。
かつては人が居ないから暇を持て余していたが、逆に人が多過ぎるのも問題らしいな。
そのせいか車内冷房も、石油コンビナート火災にバケツ一杯の水を掛けた程度の冷却効果しか発揮しておらず、おかげで額に浮かぶ汗もひとしおである。
「今日は暑いな……」
目的駅に着いて、電車が中身を吐き出した。
学校の最寄り駅。ぼくも波に乗る。ときおり躓きそうになりつつも、周りに歩調を合わせて、ドアをくぐり抜ける。
蟻のように伸びた人人人の連なりを手際よくすり抜けながら、ぼくはプラットホームを進む。
視線の先は、構内あちこちに掲げられた案内表示と、黒光りする皮靴。提げた制定鞄が心地よく肩に食い込み、ぶらぶら揺れて、ああ青春してんなぁとかキモい感慨に耽る。
エスカレーターをそそくさと抜けて、改札口に差し掛かった。
そして定期券を取り出し、機械に吸い込ませようとしたあたりで……ありゃり、吸い込まない? 投入口にロックが掛かっていることに気付く。
そのとき……がくんっ、と身体がつんのめった。何だ何だ。
「うははぁ……どっどどどどおしよ、どおしよ……」
改札機の通り道にでっかい猫のような生き物が一体。
ぼくの鼻先でぺたん、と座り込んでいた。身体を揺らしてオロオロしていた。
よく見ると、サビ猫の背中に見えた物の正体は、チョコレート色の後ろ髪。
髪はところどころ寝癖を跳ねさせながら滝のように流れて、紺色のセーラー服を肩甲骨のあたりまで覆っている。
小さな頭のてっぺんにちょこんと載った、つば広の通学帽が初々しい。ぼくのロリっ子センサーがビンビンと反応する。
この辺の小学校に通う女子生徒かな?
幼い頬には焦燥の色が浮かび、黒檀の瞳はせわしく右に左にキョロキョロ。
可愛い子だなぁ。こんな所でしゃがみこんで、どうしたんだい?
「あっちゃー。散らばっちゃったぁぁ……」
あたり一面は、台風が一過したような有様だった。
クリーム色のセラミックタイルを、ふつくに女子小学生のものらしき道具が埋め尽くしている。
ファンシーなシャーペン。良い匂いのする色付き消しゴム。学習ノート。漢字ドリル。表題ひらがなだらけの推理小説。早朝アニメ変身ヒロインのストラップ。
必死に拾い集めようとする女子小学生。
だけど学習ノートに手を伸ばしたところで、床のつるつるで滑って転んでしまう。
「あっ!」
これを無賃乗車犯と認識した改札機が、警報チャイムをがなり立てて、トドメとばかりにドアパンチを見舞った。
「ふぎゃっ!!」顎のあたりにクリーンヒットして、女子小学生はダウンしてしまう。
泣き面に蜂という慣用句は、きっとこの子のために生まれたに違いないね。
「…………」
周囲の大人たちはこの様子をちらと一瞥すると、怪訝そうな、あるいは迷惑そうな顔で、過ぎ去っていった。
クソ忙しい朝に混雑の改札口で余計な事やらかしやがって、と言いたげな顔で。
どこかで舌打ちが聞こえた。一つ。二つ。いや三つ……。
無言の抗議が霰のように降りかかる。
東京の人は冷たい、と言うがここまでとは思わなかった。誰も手伝う気はないらしいな。
涙を誘う小さな小さな背中。ぼくは方言が出ないように脳内で標準語を組み立ててから、声を掛けてみた。
「大丈夫? 拾うの手伝うよ」
あー、あー。ちょっと猫撫で声になりすぎたかな。
こほんと咳払いのフリをして、声色を調整。
「あっ……、お、おじさん、すみ、すみ、すみませんです……」
まだおじさんって呼ばれる歳じゃないけどな。
……いや。高校一年生なんて、小学生から見ればおじさんみたいなものか。
ぼくがランドセルを背負っていた頃は、道すがらすれ違う学ランの人たちが、ひどく短気なビッグフットかプロレスラーかに見えた気がする。
「てって定期券をランドセルに入れてたの忘れちゃって……慌ててっとと取り出そうとしたら、バランス崩して、ドガガガーって……」
「そうなのか。災難だったね」
なかなかドジっ子らしい。
にははーと曖昧に笑う女子小学生。
だけど声色は、緊張と警戒の合間のような、吹けばひらひら飛んでいきそうな耳触り。
声に違わず顔もまた、涙を噛み殺して無理矢理平静を装っているような、そんな表情である。
きっと親猫を亡くした仔猫が放つ守って下さい光線だって、ここまで庇護欲を駆り立てないだろう。
ああ、この子は本当に可愛いなあ。人類普遍の精神性を持つ者の必然として、ぼくはこの小学生を肉便器にしたいと思った。もしくはされたい。
「よいせっと」
ぼくはシャーペンを拾う。ノートを拾う。手当たり次第に拾う。この訳分からんアクセサリーとかキーホルダーもこの子のか? 判断が付かないものも、とにかく拾う。
せっせと手を動かしながら、まじまじと女子小学生の顔を観察してみる。
白磁のような肌、とは使い古された形容だけど、一点のシミもニキビもない真っさらな頬は、確かに焼きたての陶磁器のような儚さを湛えている。
白一色の肌の中でただ一箇所、目だけが赤みを帯びているけれど。
もしこの頬をぼくがぺろぺろ舐めたら、赤みは取れたりするんだろうか。
どんな味なのか、どんな舌触りか、知的好奇心は尽きない。それを想像しただけで……ウッ! ふう、失礼。
「全部拾い終わったよ。さあ元気出しなよ」
集めた品々を手渡す。
どうせすぐに背が大きくなるのだから、と言われて誂えたようなセーラー服の袖によって、半分以上が覆い隠された手のひらが、にゅっと伸びて受け取った。
チョコレート色の髪がさらりと流れて、干したてのお布団のような香りが鼻腔の壁を弄ぶ。
「ど、どうも……」
ほっとひと安心。胸を撫で下ろしながら、互いに頬が緩んだ。
遠くの親戚より近くの他人。遠くのポリスマンより近くのロリコン。この冷たい都会にだって温情があるってことを、ぼくは教えてあげることが出来たのさ。
「……ぅー……たった助かり、ました……」
見よ。女子小学生も、ほら、こんなに純真無垢な笑顔を見せてくれているじゃないか。
実に良いね。この子の笑顔をキャンバスにして、ぼく特製の白色顔料を塗りたくってみたいほどである。嬉しいなあ。
気を取り直して定期券を入れ直し、二人して改札口を後にする。
吹き抜けのホールに出たところで、女子小学生がぼくに向き直った。
おどおどとぼくの目を見上げて、ついと視線を逸らして、またぼくの目を見て。そんな小動物のような動作を一頻り繰り返したので、ぼくが目尻を下げていると、女子小学生は意を決したように小さな口を開いて、
「あ、あの、さっきはっ、ほ、本当にあ、あり、ありがとぅ……ございました……」
尻すぼみに礼を述べながら、ぺこりと頭を下げる女子小学生。持ち主につられて紺色の通学帽もこてんと傾き、感謝二割増し。
最近の子はなんて礼儀正しいんだろうね。ぼくの小学時代とまるで違う。
このまま瓶に詰めて、お持ち帰りしちゃいたいほどだ。
「いやいや。こちらこそどう致しまして」
ぼくが返事をした後も女子小学生は腰を折り続けたままで、あまりに行き届いた礼儀に、どんな教育方針を取ったらこんなに清らかな子が育つんだろうと、親の顔を見たくなった頃、やがて彼女はしずしず頭を上げた。
それに合わせるように、ゆっくりと目を上げていく。
視線は――ぼくの爪先から脛、太腿、そして更にその上へとじわりじわりと這い登らせて――腰のあたりでぴたりと止まり、突然、目が丸くなった。
そのままカチンと彫刻のように固まる。
「うっわぁ……」と幼い口から漏れる嘆息。
ん? ぼくのズボンに何か付いてるのか?
女子小学生は信じられないものを目にしたとばかりに瞼をパチクリさせ、しばらく僕の頭部と腰部を見比べるように首をコクコクさせている。
小鳥の嘴さながらに口をパクパクしながら、
「なっ、な、なっ……」
と、言葉にならない声を漏らして、じりじり後ずさり。
二人の間に十分な距離が開くや否や、女子小学生は即座に反転。くるっと背を向けて、とてとて一目散に駆け出す。
どうした、とぼくが声を掛ける間もなく、見るま見るまに視界から消えてしまった。
先刻までギクシャクながらもまともに会話を交わしていたのに、この豹変ぶりは一体なんだろうね。
これじゃまるで不審者みたいじゃないか。ぼくが一体何をしたっていうんだ。
残されたのは、くしゃくしゃの折り紙のような憂鬱感と、雑踏の喧騒だけ。
反響する学生とサラリーマンの靴音たち。運行情報を告げる駅員のアナウンス。遠くでぼんやりと、スマホのシャッター音のようなサウンドがかき消された気がした。
せっかく女子小学生とお知り合いになれたと胸を膨らませていたところで、この仕打ちである。
朝に味わうのはちと辛いね。
「ふう…………」
後頭部をぐしぐし掻いて、溜め息一つ。
白昼夢から叩き起こされたように、ずしりと重いパンチが腹の底にのし掛かる。制定鞄いっぱいに詰まったワクワク感が、ぐにゃりと萎んでいく。
まあね、都会だからね。こんな日だってあるさ。だってメトロポリスだもの。色々新鮮であることだなあ。
「ま、いいさ」
もやもやを抱えたまま、ぼくは踵を返す。
一路、新しい高校を目指して。照れ隠しのつもりでポケットに手を突っ込んで。いささか歩きにくくなった大腿を引き摺りつつ。
チョコレート色の残り香が、今なお鼻の奥で燻っているような感触がした。