第一章8『黒の少女』
……ここは、どこだ?
意識が徐々にはっきりしてくる感覚。目を開くと、そこに、青い空は広がっていなかった。
爽やかな青色じゃなくて、焦げ茶色だ。つまり、家の天井だろうけど、随分と古びている。
そして、現在俺は横になっているらしく、その天井とはかなり距離がある。
……なんでこんなところに眠っていたのだろう。ここは、知らない場所だ。
「やっと起きたようね」
女の子の声。沈黙を破ったその声は、しかし沈黙そのものであるかのような冷たさを持っていた。
俺は、反射的に起き上がろうとする。が、できなかった。
「今動かれては困るもの」
真横から俺を覗き込むように、正座で座っている少女が言う。顔が見えた。
長い、艶のある真っ黒な髪。それは、ただただ黒く、他のどんな色よりも純粋な色だった。
黒い瞳。鋭い眉。そして、それらに負けないほどに黒い浴衣。
冷たい視線は、俺を見下しているようにも思えたが、同時に同情しているようにも思えた。
陶器のような美しい肌の、美しい少女。つい目を逸らす。
こんなに美しい人に見つめられるのは、たとえ見下されていたとしても、緊張してしまうのには違いなかった。
さつきはかわいい系だとするならば、この人は綺麗系か。どっちも桁違いにレベルが高すぎて、現実の人とは思えない。
さすが異世界だ。
あれ、異世界? そうだ、さつきは?
…………。
「…………っ!」
何やってんだ、俺は! なんで忘れてた! さつきはどうなった!
「分からないかしら。もう一度言うけど、動かれると迷惑なのよ。あなたは気にしないのかもしれないけれど」
だが、動こうとしたが、やっぱり体は動けなかった。顔しか動かせない。
だから、顔だけで自分の体を見る。
これは……?
「動きを止める一番の方法は縛ることよね。今のあなたには安静にしてもらわないと困るのよ」
再三繰り返された。動くなと。
体を縄で縛られて、布団に転がされている状況のようだ。そんなプレイをした覚えはない。
というか普通のプレイすらしたことはないのだけど。
童貞だから。
「ってだから! 早く行かないと!」
「その体でどこに行くのかしら。どこにだって行けるはずはないのに」
はぁ、と失望するように彼女はため息を吐く。
「体?」
そういえば、俺の体はどうなったんだ。めちゃくちゃな痛みがあった体。
だけど、今は痛みを感じない。
「全身の骨が折れてたわよ」
「嘘だろ?」
「嘘じゃないわ。だってほら、こことか触ってみると」
「いったああああ!」
腕を細い指で、ちょん、と軽く触られた。それだけで痛みが電撃のように広がる。
まるで、ハンマーで殴られたようだ。
「分かったかしら。分かってないようならもう一回行くわよ」
「分かった。分かったから勘弁して」
「…………」
「ったああああああ!」
何故かもう一回押された。ぐっと指で一押し。
ちゃんと分かったって言ったのに。
「……あなた変な人ね。まるで、この世界の人ではないみたいだわ。そんな顔も中々見ないし。鏡に映った自分くらいしかしないわよ」
お前は自分を睨んでるのかよ。
「あら、私は世界を睨んでいるのよ。鏡を睨むのはその練習。いつかビームが出せるようになると思うわ」
……世界を壊すつもりなのか。しかもビームで。
もっとも、この少女ならすでに出せそうな気がするけど。
「あなた、用事があるんじゃないの? それともやっぱりどうでもいいのかしら」
「そうだよ! だからこの縄ほどけ!」
「それが人に物を頼む態度かしら」
「……お願いします。縄をほどいてください」
「そんな姿勢からでは誠意は感じられないわ」
「この姿勢から動けないから頼んでるんだけど」
「第一、私が縛ったのだから、私がそんな簡単に解放するわけないでしょう」
「じゃあこの流れは丸々意味なかったじゃねぇか」
「そうかしら。私は十分楽しめたわ」
ドSかよ……。
あと、その顔は全く楽しんでいる顔じゃない。目も口も死んだままだ。
「そんなに焦って何がしたいと言うのかしら。私としては、あなたはかなり珍しい種類の人間だから、もうちょっと観察研究がしたいのだけど」
「残念ながら、俺はお前とはあまり話をしたくない」
だって、怖いから。
きっと、彼女は俺を人間として見ていない。いくら美少女でもお断りだ。
「……したくない」
彼女は無表情を少し崩して。何かを考えるように小さく呟いた。
「どうした?」
「なんでもないわ。ただ……」
彼女は再び考えにふける。
すると、当然のように沈黙が部屋を埋め尽くす。聞こえるのは自分の胸の鼓動だけ。それだけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
音を出すのが憚られる雰囲気。少女が中心となって、冷気が発生しているかのごとく。何も言えない。
だけど、それでもさつきのことを言おうとしたそのとき、沈黙をぶち破る音が大音量で響いた。
「ユウキー! 起きた起きたー?」
襖だろうか。何かを思いっきりスライドさせて叩きつけた音。
すー、ダァン! という音がした。
そして、そのまま声の主はバタバタとこちらに走ってくる。
「……さつき?」
その明るくて通る声は、間違いなく。
「そうだよー。さつきだよー。あ、ユウキ起きてるー! やったーやったー!」
「病人の前では静かにしなさい。あと、入る前に声をかけるよう何度も言ってるわよね」
「そうだったっけー」
あははは、とさつきは笑った。全く悪びれる様子はない。
……その顔をもう一度見れて、良かった。もう二度と見れないかと思った。
「あー! またユウキ、また目から水が出てるよー。ナイテるんだね! 面白ーい」
「……笑うなよ」
泣いているのを笑われるのは気分が悪い。隠そうにも腕が縛られてるし、顔を傾けて隠そうとすると、息がかかるまで近づいて見つめてくる。
近い近い。
この子には早く距離感というのを教えないと駄目だ。俺がもたないよ。
「うわっ! しょっぱいね!」
「涙を舐めるな……」
頬に残っていた涙を、直に舐められた。冷たく濡れたその感触にぞくっとする。
距離感とかいう問題じゃないな、これは。縛られてて、むしろよかったかもしれない。理性が壊れても安心だ。
だけど、そんな俺の内心なんか考えないさつきは、俺に馬乗りになろうとして。
だが、遮られた。
「怪我人にそんなことをしたら死んでしまうでしょう」
なんと、彼女はさつきを蹴り飛ばしたのだった。
さつきは確かに軽いだろうし、油断もしてただろう。だけど、それでも、蹴りで壁にめり込ませるなんて、化け物としか思えなかった。
軽々とぶっ飛ばすなんて。
「……お、おい! さつき、大丈夫か!」
あまりに衝撃に一瞬言葉を失ってから、安否を確認。
「大丈夫だよー。ちょっと壁の中を楽しんでるだけー」
凄く遠くにいるような声が返ってきた。どうやら本当に壁にめり込んでいるらしい。
中々抜け出せないのか、んっ、んっ、と力を込める声が聞こえる。
「ちょっと訊きたいことがあるのだけど、いいかしら」
横にしていた顔を前に向ける。そこには黒髪の少女が仁王立ちしていた。
俺の首を足で挟むように直立している。さっきまで正座していたからよく分からなかったが、彼女の浴衣は不思議な造りだった。
上半分は普通なのだが、下半分、太ももの辺りからばっさりと切られている。
かといって、白い脚が惜しげなく露出しているわけではない。タイツのようなもので、大半は黒く隠されているのだった。
所謂、ニーハイというやつだ。ちらりと見える白い肌が眩しい。
……浴衣にニーハイとは、中々かわっている。俺は好きだけど。
「質問の前に、分からせないといけないようね」
「痛い痛いっ!」
胸を軽く足で踏まれた。当たり前だが指先まで黒い。
「女性の体をそんなにじろじろと見るものではないわ」
「……すいません」
「ビームが出たらどうするの」
「出ねぇよ!」
「出ないの? 残念な男ね」
「出せる男の方が少ないだろ……」
異世界でもたぶんビームを出すのは常識ではないはず。というか常識だったらやばすぎる。
「で、訊きたいことがあるのだけど」
「……どうぞ」
元より拒否権はこちらにないのだろうし。何を訊かれても答える構えだ。
「あなたの目から出たのは、ビームではないなら何なのかしら」
目から出たって……ああ、涙のことか。やっぱり、この世界には本当に存在しないのか。
なんて思いながら、俺は言った。
「涙って言うんだ。説明は凄く難しいんだけど……っておい、どうした!」
「……嘘。ありえない……」
ガクッ、と彼女は膝をついた。足で首を挟まれていた形だったが、今度は太ももで顔を挟まれる形になる。
黒い綺麗な太ももが頬の横。短い浴衣は、その奥が見えてしまいそうで、非常に危ない感じだ。
勝手に視界に飛び込んできてしまう。これでは顔を背けることもできない。どうしようもない。
しかし、一体どうしたのだろう。心なしか、少女の肩が震えているように見える。
「どうしたんだよ」
「涙……。あなたも、泣いているの? 泣くことができるの?」
俯いていた彼女が顔を上げる。目が合った。
その目から流れる一筋の雫。
紛れもなく本物の涙が、流れていた。