第一章6『悲しみを知らない罪』
荒波が、バキバキと家を破壊しながら進んでいく。海からそのまま持ってきたみたいに、強い青の光が、赤い炎を圧倒。そのまま消し去っていく。
さっきまで永遠に続くかのように思えていた、地獄の光景があっさりとなくなる。
そんな嘘みたいな光景を、空から眺めていた。
今、俺はさつきに脇の下から腕を通されて、支えられている状態で。これは余計だが、後頭部には柔らかいものがあった。
「すげぇ……」
本当に、『凄い』の一言だ。すぐ下に突如、海ができあがってしまった。水の底が見えない。
「凄い? ねぇ凄いって言った?」
「あぁ、言ったよ。これは本当に凄い」
しかも魔法の範囲は燃えていた場所ぎりぎりまでに留めている。完全にこの海を操っていた。
どれだけのレベルの魔法かは分からないが、かなりのものであるのは間違いないだろう。
こんなのが皆使えたら、世界はすぐに滅びそうだし。
「そんなに私の胸が気に入ったんだねー」
「胸の話じゃねぇよ!?」
「じゃあ、おっぱい?」
「言い方の問題じゃねえ!」
素直に褒めたのに、損した気分だ。気に入ったのは、やっぱり間違ってはいないけど。
世界が滅びそうなおっぱい、みたいな文になってしまった。ひどい。
「魔法が凄いなっていう話だよ……」
「うん、だよねー。分かってたよ」
「分かってるなら、変態みたいな扱いをするなよ」
「変態は合ってるじゃん?」
「何故!?」
そう言うと、さつきは不敵な笑い声を上げた。
正直、嫌な予感しかしない。
「ふっふっふ。何故ならば! 男は皆、変態であるからだー」
「な、なんだと……ってなんだそれ! そんな女尊男卑、俺は認めないぞ!」
「生まれてすぐおっぱいを吸いたがり、成長してもおっぱいを求め、死ぬまでおっぱいのことだけ考えるのが男でしょ?」
「そんな訳……いや、否定したいけど意外と合ってるかもしれない……けど違う! もはやそれは当然のことをしているだけなんだから、それは変態じゃない!」
生物としては普通のことだ。だからいいんだ。いいってことにしよう。
「ユウキにとってはおっぱいを吸うのが当然の義務なんだ……」
「そんなことは言ってない!」
「じゃあ私の、飲む?」
「話を聞けよ!」
第一、こんな場所でそんなことはできないだろうが。
そしてここで、ようやく分かった。
さつきがやたら積極的に、胸を押し付けてきたり、脚を絡ませてきたりする訳が。
悲しみがないということからして、きっと不快感がないんだ。仮に触られたとしても抵抗がない。むしろ、俺の反応が楽しめるから余計にやりたがってしまう。
たぶん、ビッチではないんだ。たぶん。
そして、そういうことなら甘えるわけにはいかないだろう。弱点に漬け込むみたいで、なんか嫌だ。
「俺は男らしくプライドを持って揉むことにする!」
「なるほど。ユウキは吸うより、揉みたいんだねー」
「違う!」
どれだけ胸で語ってるんだ。千文字分くらいは胸談義をしていたのではないだろうか。
話を変えよう。
「あー、ちょっといいかな。そろそろ降りたいんだけど」
「確かにねー。もう終わったから大丈夫よっと」
さつきは開いていた右手を、ぐっと握る。それだけで海はどんどんさつきの下へと集まってきた。
栓を抜いたように音をたててまとまって。そしてまた柱状になって、最後には、ぱっと消えた。
「はい、はくしゅー」
「おー! 本当にすげぇ」
後片付けまで完璧だ。水は一滴も残っていない。土でできた道すらも、乾いてしまっているようだ。
本当は、一緒に家も死体も何もかもが、なくなってしまっていたらもっと良かったのだけど。
そんなことはなく、足元で真っ黒な塊ができあがっているのだ。それだけが、さっきのは幻だったんじゃないかと思ってしまう頭を、現実に呼び戻してくる。
「なんでこんなことになったんだろ……」
ただの大火事でないことは分かっている。火事ならば、大量の人が血を流して死ぬことなんてないだろう。
事故ではなく事件だとして、俺には何も分からなかったが。
「私、分かるよー」
「えっ、嘘」
「分かってなかったらここにユウキを連れてこれないじゃん」
「あ、そっか」
そう言えば、さつきは何かが始まると言っていたのだ。つまり、こんな事件が起こる前に知っていた、ということになる。
普通なら許されないことだ。殺人や放火などの事件が発生することを知りながら放置。
それどころか観戦までしようとしていたとすると、相当狂っている。ただ、さつきが言っていた通り『悲しみという感情がない』つまり『罪悪感すら感じない』のだとしたらどうだろうか。
きっと楽しむだけ。他人が死ぬことも、自分が死ぬことも笑える。
さつきのことを疑うつもりはないが、やはり信じられないような話だ。怖い。
そんなことを考えている内に、いつの間にか地面に降ろされた。
さつきは手を離すと、自分も着地。そして、ぴょんぴょん跳ねながら俺の前にやって来た。
やはりにこにこ笑っている。
無邪気な笑顔だった。
「……じゃあ、教えてくれ。なんでこうなったのか」
「うん、いいよー。でもその前に私に質問させてー」
「ん、なんだ?」
こほん、と小さく、さつきはわざとらしい咳払いをした。
「今回のもそうなんだけど、分からない方がおかしいんだよー。何も分かってなさすぎる。つまり、ユウキがおかしいのはなんでなのーっていう質問」
「……もっと別の言い方はないのか? おかしいって」
「じゃあ変態」
「話が戻った!」
「まあなんだっていいから、ね? 教えてー」
「なんだって良くはないけど……。まあ教えるよ」
気を弛めるとすぐに、さつきは接近してくる。だから、その頭をゆっくりと押し返しながら、答えた。
「…………異世界から来たから」
「えー、声がちっちゃくて聞こえないよー?」
「だから、近づきすぎるな!」
「赤くなってるー!」
「なってない! 話を逸らすなよ!」
異世界が赤石に伝わらなかったのは、実はちょっと恥ずかしかったから。
誰も知らないのに「異世界から来ましたー」みたいなことを言っていたなんて、冷静に考えればおかしいやつだ。……意外とさつきの評価はあっていたのかもしれない。
だから小さく言ったのだが、余計に弄られることになってしまった。
普通に言った方が、まだマシか。
「異世界から来たんだ」
「異世界……?」
あぁ、笑われるパターンだ。
きっと「やっぱり頭おかしいねー」とか、罪悪感もなく笑うんだろう。さつきのことだし。
なんて思っていたのだけど。
「えー! すごいねー、すごーい!」
「…………え?」
「異世界って違う世界ってことでしょー? 初めて会ったよー。だからユウキはおかしいんだねー。へー」
「いやいや、ちょっと待てよ」
あれ、なんかおかしくないか? 少し前に考えた『異世界人は異世界を考えない』という仮説が早くも崩れ去ってしまった。
「異世界って分かるのか?」
「なんで分からないと思ったのー? いっぱい異世界の本とかあるのにー」
「異世界の本?」
「そうそう。異世界転生ものは人気だもんねー」
「異世界でも異世界転生が人気って訳わかんねぇな」
「で、ユウキはどんな死に方をしたのー?」
「死んでねぇ!」
異世界に行く方法は死ぬだけとは限らないだろうに。やはりにこにこしながら、さつきは残酷なことを聞いてくる。これにもいい加減慣れなくては。
しかし、死ぬだけとは限らないとは言ったが、自分でもどうやって来たかは分からない。
だから、気づいたら来てたということだけを簡単に伝えた。
「なるほどー。よく分からないねー」
「まあ、そうだよな……でも、いずれわかる気がするから今はいいんだ。それよりも、なんであんな火事が起きてたのかを早く教えてくれ」
「うーん、普通もっと気になると思うけどねー。ユウキがいいならいいけどさー」
やっぱりおかしい、と小さく言ってさつきは続ける。おかしいところなど、ないと思うけど。
「で、あの火事だけど、あれは『神の使い』がやったことだよー」
「『神の使い』?」
「そ。神様が造った人形が人を殺したりしてるっていう話。結構有名ってか常識っていうか基本知識ってやつかなー。何のためだかは知らないけど、私、見たことないから見てみたくてー」
「…………神だかなんだか知らないけど」
神とか神の使いとか、嘘みたいな言葉がさらっと出てくる辺り、異世界らしさがある。
でも問題はその存在じゃなくて、何をしてるかで。常識ってことはつまり
「人を殺すのが当たり前って言うのか?」
「うん。そうなんじゃない? 別に私は殺したことないけどさー」
ふざけるな! そう言いかけたが、堪えた。さつきは悪くない。悪いのは世界だ。
そして、神となれば、もしかしたらそんな世界を創った張本人……?
「さつき、協力してくれ」
「ん? 何をー?」
「殺人なんて馬鹿なことを止める。神だかなんだか知らないけど絶対にそんなことはさせたくないんだ」
驚いたように口をぽかんと開いたさつきだったが、すぐに力強く頷いた。
「うん! それすっごく楽しそう! つまりー、神の使いもとい神ごとぶっ倒すってことでしょー?」
「いや、そこまでは言ってないけど。でも、大体そういうことだ」
いけないことはいけない、悪いことは駄目だと誰かが言うべきだと思うから。そしてそれは相手が神だろうと関係ない。
俺みたいなやつが言えることじゃないだろうけど、いや異世界から来た、悲しみを知ってる俺だからこその役目かもしれないから。
「よーし、乗った! じゃあ私についてきて!」
さつきが伸ばしてきた手を、強く握った。