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よく晴れた日の夕方、赤と白の絵具を混ぜ損ねたようなつつじの花を見かけた。自転車ですぐ横を通り過ぎると気だるいような甘い香りを感じた。
ああ、こんな時でさえ私はつつじの花を認識できるのかとうんざりする。
文字が上手く読めないと気が付いたのは、今から一週間程前になる。視界から文字が滑るように流れていき、意味が認識出来ないのだ。それはちょうど、意味の分らない洋楽を聞いているのと同じ気分だ。所々で知っている単語を聞き取れるのだが、文章としては認識出来ず、そのまま歌詞が右から左へと流れていくような感覚だ。
それが今、私の起こっていた。
意外にも私は焦りはしたが驚きはせず、ああ、その時期が来たのねと対処しながら過ごしていた。
私の人生は何度目かの繁忙期に入っていた。まだ学生なので長期休みがある分ましなのかもしれないが。
文字が読めなくなった次の日、通院の予定を早めてかかりつけの精神科を訪ねた。
「ぐりこさん(私のことだ)は体力はあっても、心の体力の方が少ないのかもしれないね。土日はゆっくり休んだ方がいいよ。」
正直そんなことはわかりきっていたのだが、反論する元気もなく私は診察室を出た。手にはいつもと同じ内容の処方箋を持って。
今週の土曜日は部活のプール掃除がある。部屋の掃除すらままならず、人に会う予定があるのに風呂にすらまともに入れる状況ではなかったのだが、毎年恒例の行事だから仕方がないと腹をくくっていたのだ。
だが、朝早く起きて長時間太陽の下で作業するのを想像しただけで吐きそうだった。
たとえ、そのプール掃除が無かったとしても食事の用意や洗濯などの最低限の家事はしなくてはならない。土日にゆっくりするというのは代わりに家事を誰かがやってくれることを想定して言っているのだろうかと負の感情がぐるぐると回る。
そもそも心の体力はどのように増せばよいのだろうか?体の方ならランニングや筋トレをすれば時間はかかるかもしれないが、体力は増えていくだろう。私のように水泳部に所属していれば、タイムが縮まったとか長い距離を泳げるようになったとか指標が体の方では分かりやすい。でも、心はどうであろうか。何をもって体力が増えたとわかるのだろう?
いつからこんなに私は辛いのだろうと自分の中にときどき原因を探す。ぼんやりとした輪郭を象っているのは実家で暮らしているときの中学生の私で、いつも部屋の隅で膝を抱えて泣きながら途方に暮れている。学校にも家庭にも居場所を無くし、砂漠の中で水を探しているかのように、いつも愛に乾いていた。
私は左手の指で右手の甲をトントンと叩いた。現実に戻れという無意識の合図だ。
私の薬の調合には少し時間がかかる。診察には授業の空き時間を利用して来たので、一度学校に戻らなければならない。
私は今度は右手で左手を強く握りしめ、わかったよ、大丈夫だよと心の中で『彼女』につぶやいた。