episode3
千歳は突然誰かに呼ばれて、辺りをキョロキョロと見回すが見つからなかった。
「こっちこっち」
優しい感じの男性の声が上から降ってきた。階段を降りていく所だったようだ。どうやらさっきの音は、彼が持っていたものを階段から一気に落としてしまったためだったみたいだ。階段下には色々な物が落ちていた。
「夢みたいだ……。また会えるとは思わなかった」
彼がそう言うと、母はふふっと笑った。
「あら?じゃあ校門で待っているわね」
「え、ちょっ」
千歳は母に何か言う前に行ってしまった。彼は落としたものを集めて端に寄せておいた。譜面台やらメトロノームやら楽譜やら色々見えた。音楽やっているのかな、とか考えていたら、背後から抱き締められた。
「!」
千歳は恥ずかしさのあまり硬直していたら、耳元で囁くように言われた。
「ずっと捜していたんだ。ちぃちゃんは俺のこと知らないだろうけど、俺はずっと見ていた。ちぃちゃんは俺を救ってくれた人なんだ」
「あ、あの、えっと」
千歳は恥ずかしさと混乱で言葉に詰まっていたら、彼は慌てて千歳を離した。
「ご、ごめん!」
千歳は思わず、女慣れしているのかな、とか思っていたが、そうでもなかったようだ。本当に勢いでやってしまったようだ。しゅん、としている彼を見ていたら思わず笑ってしまった。
「とりあえず名前教えてもらいたいな」
千歳は控え目に言うと、彼は照れ臭そうに言った。
「九条澪」
「えっと私は」
千歳も続けて自分の名前を言おうとしたら澪が小さく笑った。
「柏原千歳ちゃんだろ?」
「え……あ、うん」
「さすがにちぃちゃんの名前は忘れないよ。憧れの人だしな」
その言葉に顔が赤くなった。これは確信犯か無自覚かどちらだろう、とか色々な考えが浮かんだ。
「そういえば、ずっと見ていたとか憧れとかどういうこと?」
ずっとモヤモヤとしていた部分を思わず聞いてしまった。すると澪は、うーんと少し考え込んだ。その様子から、聞いちゃいけなかっただろうか、とか考えたがそういう訳ではなかったようだ。
「当時、家庭が酷いものでさ。父と母の仲が悪かったんだ。八つ当たりのように虐待もあった。更には気が弱かったから、いじめられたりもしたんだ。小さいながらも辛くて仕方なかった。ある日、母に誘われてちいちゃんの演奏会に行ったんだ」
澪は嬉しそうに話していた。でも、笑って言う内容じゃないんじゃないか、と思ったが、そこは見なかったことにした。
「笑うことを忘れていた俺は、母に気を遣わせてしまっていたかもしれないと思いつつ、好意を受け取り、ちぃちゃんの演奏会行ったら、世界が一変したんだ。片手でも一生懸命弾く姿が俺の心を刺激した。ただ涙が流れていたよ」
澪の言葉に千歳はただ唖然としていた。兄に会いたいがために必死だった演奏に感動した人がいたことに驚いたのだ。自己満足のようなものになっていたと思っていたあの演奏が心に響くとは思わなかったのだ。
「それから演奏会には毎回行った。ちぃちゃんに憧れてピアニスト目指したけど、俺には向いてなかったみたいでさ。それでも音楽やりたいからってたどり着いた結果ギターで……」
そう言った時、澪はピタッと止まった。だんだん顔が青ざめていくのが分かった。
「え、大丈夫?」
千歳が恐る恐る聞いてみたら、冷や汗を流しながら言った。
「ギター放置したままだった……。やべ、ごめんな!話はまた今度な」
澪は凄い勢いで去って行った。千歳は唖然としながら屋上の出口を見つめた。それから小さく笑ってしまった。
「あ、私もそろそろ校門行かないとなぁ」
屋上を出ようとした時、千歳はあることに気がついた。
「あ、でも、大事なこと言い忘れちゃった。もうピアノは弾けないって」
千歳は自身の両腕を見つめる。確かに今は大分治っているし、多分弾こうと思えば弾けるだろう。だけど、あのトラウマはそう簡単には克服出来るものじゃなかった。
「私はいつまでも怖がりで臆病者なの。九条君の憧れの人は死んでしまったの」
千歳は俯きながら呟いた。そして静かに屋上から出て行き、校門に向かった。母はいないだろうと思っていたが、校門の壁に寄りかかって携帯をいじっている母の姿が見えた。
「あら、予想以上に早かったわね」
「待っていてくれているとは思わなかった」
千歳は、母の顔をじーっと見ていたら、母はにこにこ笑っていた。
「早く孫の顔を見せて欲しいわねぇ」
「そ、そんなんじゃないって!」
千歳は顔を少し赤くしながら否定したら、母は聞く耳を持っていなかった。話が勝手に進んでいた。
「あの子かっこいいじゃない。あぁいう子ならお母さん大歓迎よー」
「確かに……って、それお母さんの好みじゃない!」
千歳は改めて澪の顔を思い出しながら考えてみた。確かに、綺麗な黒髪で身長もそれなりあってあの恰好良さは明らかに人気がある。それにあの包容力も――、と考えた所でさっきの出来事がフラッシュバックして顔が真っ赤になってしまった。
「あら?ちぃちゃん顔赤いわよ?」
「う、うるさぁい!」
顔真っ赤にしながら怒ったものだから母が笑いながら宥めた。家に帰って夕食後、明日の学校の準備をした。今日も一応行ったが、正式な登校日は明日からだ。
「そういや九条君は何年生でどのクラスなんだろう……」
思えば澪のこと名前とギターやっていることしか知らなかった。その時、何も聞かなかった事に後悔した。
「でも、あれだけの容姿なら目立つか……。性格も良さそうだし」
そんな感じで自己解決して、とりあえず明日を楽しみにすることにした。今の所凄く良いイメージしかないから楽しみでしょうがない。だけど、千歳はこれが「外見」でしかないことに気付かなかった。その時携帯が着うたと共に振動した。
「あ、メールだ」
誰からだろうと思って見てみたら一気に血の気が引いた。
『ちぃちゃん待っていたよ。また宜しくね』
差出人は、やはり例のあいつだった。引っ越して殆どの人から逃げることが出来たのに、あいつからは逃げられなかった。『また宜しくね』とはどういうことなのだろうか。それにあの男の子は何者なのだろうか。そんなことを考えていたらいつの間にか眠ってしまっていたようだ。