ロリィタのココロエ
主人公は女ですが、ゲイの話が出てきます。性描写などはないですが、あくまで苦手な方はご遠慮ください。
「同性愛者って、素晴らしいと思うの」と言うと姉は顔を歪めた。
両親は地元の石川で共働きで、祖母と三人暮らしをしている。姉が東京生活をしているのに甘んじて、東京の大学を出てすぐ、転がり込んだ。姉は小児科病棟の看護婦でもっぱら夜勤が多い。朝は起きるが、機嫌が悪い。二人で朝食をとっているとき、そう言ったら、姉の機嫌はさらに悪くなったようだった。
昨日の夜にはっと思い当った、わたしの真理を誰かに言いたいという欲求は止まらなかった。
「好きなのに、絶対に壁があるのよ。乗り越えられないの、絶対に。それなのに愛し合えるって高貴なことだと思ったの」「あんたのことなんていうか知ってる?」ようやく口を開いた姉の言葉が理解できず、見つめた。不機嫌な目を向けて一言「腐女子」と言った。「違うわよ」「なにが違うのよ。同性愛者が好きで、そんな格好して、おまけにフリーター」最後の一言は偏見だと思ったが言わなかった。
わたしの格好と言うのは俗に言うロリィタだ。雑貨屋でバイトをして半分は生活費、その半分の金で洋服を買う。社員よりも給料は少ないが、デパート店内ということもあって、普通のアルバイトよりかは金額は高い。その分自ずと働く時間も内容も長く厳しいものになるのだが、気にしたことなど一度もない。
バッスルのピンクワンピースにボンネット、その格好を姉は指差した。「異常だと思わないの」「思わない」
「ならメイド喫茶でバイトしなさいよ。そんなふりふりいつでも着れるわよ」わたしは姉の言葉に目を細めた。「ロリィタとメイドが一緒だって言うの?」「何が違うのよ。ピンクか、黒かの違いでしょ」
確かに最近の服ではメイドのようなものも多い。コスプレもそれに付随するようにメイドとこの服を同じにするどころか、コスプレとひとくくりにして見ている人もいるだろう。
「一緒にしないで。メイドはお客の対応だって様々で」とわたしが言いかけると姉は面倒くさそうに「そうね」と話を切った。
わたしの格好が理解できないのだというのなら、わたしは姉の飲むドロドロの液体が理解できない。美容のためにと飲むものは緑色に口を染める。姉はそれを眉ひとつ動かさず飲み干すと、コートを羽織って、勤める病院に行ってしまった。
後片付けをして、部屋へ戻った。
途端に頬が緩む。ため息のように「リィタ」と名前を呼んだ。ベッドに丸まったタオルケットに顔を埋めた。十二年間も洗わずに使い続けたタオルケットは古い図書館のようなすえたにおいがする。それがあまりに心地よくて深く息を吸った。
サンクチュアリという言葉を覚えたのは最近だ。ある小説に出てきて、興味を持って調べた。「リィタ」はまさにそれにぴったりなモノだと思った。わたしの全てを受け入れてくれる存在、絶対に否定しない存在だ。ボンネットをはずし、「リィタ」に包まった。冷たく柔らかな感触が頬をなでる。それだけで、たまらなくなる。「リィタ」にキスをして、「愛してる」と頬を摺り寄せた。
「リィタだけが、わたしを愛してくれる。わたしを慰めることが出来る」
実際「リィタ」がいれば、本当に何も要らなかった。今年二十三歳になるが、男を知ったことはない。しかし快楽の全ても「リィタ」が教えてくれた。深く愛する心も、傷ついたときに流す涙も、慈しむ気持ちも、全部「リィタ」が教えてくれた。だから男など要らないと思っていた。友達も必要ないと感じた。
高校も大学も何の目的もなく過ごした。同期生が就職活動で悩み始めた頃、わたしはわたしの人生を後悔し始めていた。一応、企業の面接講習にも行ったが、「当社を希望した理由を述べてください」と言う言葉に返すことができなかった。そのとき、大して楽しくない大学生活が終われば、大して楽しくないOLの人生が待っていると思うと、心底人生を落胆せざるを得なかった。
今日は新宿に行こうと思った。「リィタが行くなって言うなら行かないよ?」タオルケットの端を噛む。「リィタ」は行くなとは言わなかったので、化粧をしなおすことにした。
化粧には二時間かかる。幼い頃から、一重の目と短いまつげ、薄い唇が大嫌いだった。わたしを誰一人「綺麗だ」と褒めてくれたことはなかった。小さい頃顔をけなされ、いじめられることが多かった。その度にタオルケットに不満を話し、小学校六年生頃にはリィタの存在はわたしに必然となった。今では意思を持っているとさえ、思えている。
だがこの顔をけなされるのも、この容姿で全てを判断されるのも、もう終わりにしたかった。自分の人生を変えようと本気で考えた。誰からでもいい、綺麗と言ってもらえる人間になりたかった。本当のわたしを知るのはリィタだけで十分だ。友達も恋人も必要ない。傷つけられ、絶望し、自分は何のために生きているのかと思い悩むのはもう沢山だ。
わたしは独学で化粧を勉強した。自分の顔をキャンバスに見立てて絵を描くように化粧をする研究に大学四年の一年間を費やした。
全ての化粧道具を使いこなし、完璧だと思うまで、整形をするように、目を二重にして、化粧をし、付けまつげを二重につける。するとわたしはわたしではなくなる。この化粧法を身につけてから、誰もわたしがわたしだと気がつかない。初めてこの格好で「綺麗ですね」と言われたとき、二人目の自分の人生が始まったと感じた。
髪とボンネットをセットして、新宿へ出かけた。
丸井へ行って今日のワンピースを買った店に入った。新作を着ているわたしは周りの客の注目を浴びた。予約完売したピンクを着ているのだから尚更だろう。店員が「早速着ていただいているんですね、ありがとうございます」と頭を下げたので、にっこりと作り笑いを浮かべる。買い物はいつだって一人だ。服の趣味を共有する友人はいない。高校のときの同級生も大学のゼミ仲間も連絡が途絶えてしまった。それでもわたしには「リィタ」がいる。
「あの」と声がした。振り返ると赤のスカラップジャンパースカートの女の子が二人こちらを見ていた。同じ服を着た少女を俗に双子と呼ぶ。双子の一人が「瑠奈さんですよね?」と言った。「瑠奈」はわたしのロリィタネームだ。こういった服をジャンルに取り扱う雑誌に紹介されたこともあったし、よくスナップ写真を撮られるから、時々こうして声をかけられる。いつも通り「そうです」と作り笑いのまま双子を見た。双子は顔を見合わせ飛び跳ねながら歓声をあげた。
「すごく、綺麗で」「お洋服もすごく似合ってて」「すごく髪の毛も綺麗だし」双子は次々にわたしを褒めた。最近の子は「すごく」しか使えないのかと内心思ったが笑顔のまま頷いた。双子はわたしと握手をして去っていった。携帯番号やアドレスを聞かれたことは一度もない。どうやらわたしは誰ともつるまない、強く気高い「ロリィタ界の一輪のバラ」らしい。声をかけられた少女にそう言われて思わず笑ってしまった。別に人間が嫌いなわけじゃない。必要がないだけだ。いつもはパーカーにジーンズを穿き、化粧っ気もなく髪を束ねているわたしが「瑠奈」と気づかれることはまずない。みんなが見るのは羨望の眼差しを一心に受ける「瑠奈」なのだ。それは「瑠奈」であってわたしではない。
強くて気高い、まさに自分がなりたい存在だった。
目ぼしいものはなかった。このワンピースだって五万円近くする。給料日前ということもあって、何も買わずに丸井を出た。
スターバックスはごった返していた。座る場所もない。仕方ないので、サンドイッチとコーヒーを持ち帰りで頼み、店を出た。
高校生の笑い声がした。彼らの声は自分に向けられた気がした。
座る場所を求め、新宿の街を彷徨った。パニエを押さえつけない構造のコートは重いがその分、暖かい。ボンネットは耳を冷たい風から守るし、ロリィタの洋服はなんて防寒に優れているのだろうと思う。その分夏は地獄だ。
白いファーに顔を埋めて、大公園に入った。ベンチを見つけ座ると、半分冷めたコーヒーを飲んだ。人はいなかった。見上げたら葉を全部落とした木々が細い枝を揺らしていた。その間から青空が見える。地元では今の季節、青空を見ることは難しい。いつもどんより灰色の湿っぽい雲が低く垂れている。石油ストーブの前に干された洗濯物、CMばかりテレビの音、昼間でもつけられた蛍光灯がぼんやりと思い起こされる。
こういったとき強く自分を感じる
サンドイッチを食べていると、いつのまにか目の前に一人の青年が立っていた。顔を上げ、彼の顔を見た。アーモンド形の目に、長めの黒髪、ロリィタ雑誌に出ていただろうかと思った。
「あんたさ」唐突に彼は話しかけた。「ここがどういうところか知ってて座ってる?」意味が理解できず、黙ったまま彼を見つめていた。一般的な男は単独でそうそうわたしに話しかけたりはしない。彼が平然と話しかけるので、やはり何かの雑誌に載っていたかを考えた。「聞いてるの」「知らないわ」答えて、サンドイッチを一口齧った。
「ここ、新宿だよ」「知ってるわ」青年は苛立った様子だった。「どけよ」腕をつかまれた拍子に持っていたサンドイッチを落とした。彼は苛立っているというより怒っていた。
「何するのよ、ベンチでサンドイッチ食べてるロリィタが目障り?」「あんたが誰だっていいんだ。俺はこのベンチに用がある」眉を顰めて、青年を見た。「ちゃんと説明して。そしてサンドイッチ弁償して」土まみれのサンドイッチを指差した。少年は大学生くらいだろうか。黒のダウンジャケットに色の薄いジーンズを穿いている。ベンチに座ると睨みをきかせ、「本当に何にも知らないんだな」と言った。
「このベンチはゲイの出会い場なんだよ」平然と言う彼を見て「へぇ」と驚いた。「あんたがいたら、邪魔なんだよ」「あなたゲイなの」「だったら、なんだよ」「いいの、わたしもロリィタだから」「答えになってねぇよ」横に座る青年に「同性愛は素晴らしいわ」と頷いた。彼は「皮肉?」「わたしもね、叶わない愛をもてあます身なの」「あんたレズ?」「では、ないわね」「男とヤッたことないの」「今、関係ある?その話」
彼は直人と言った。わたしはロリィタの格好をしていたので、「瑠奈」と名乗った。直人はベンチの横の自販機で、ブラックコーヒーを買ってわたしに渡した。
「サンドイッチ買いに行ってる暇はない」「男の出会い場にロリィタがいちゃあんまりにも不釣合いで可笑しいわね」「だったら、帰れよ」「直人は誰かを待ってるの?それともナンパ待ち?」直人の言葉は無視した。崇高と思うものが傍にいるのに素直に帰れるほど諦めは良くない。
表情が曇ったのを見逃さなかった。直人は何も言わずにコーヒーを飲んだ。「待ち合わせなんだ?」直人を覗き込んだ。直人は会ったときからずっと不機嫌そうだ。無言が肯定だととったわたしは「どんな人?その人もゲイ?」と尋ねた。
「ノンケ」と直人は答えた。「友達なんだ。俺が勝手に好きになった。ここに呼べば、その意味も理解すると思った」「その告白、どうかと思うけど」首から提げた懐中時計を確認した。二時半。「何時に待ち合わせ?」「一時」
直人はたぶん怖くて、遠くからこのベンチを窺っていたのだろう。だから自分が座ったと同時に現れたのだ。絶望的かしらと思って、何も言わなかった。
「あんたはどんな叶わない恋愛してんの?」と直人は振り返った。既に諦めたのか苛立った顔は素直そうな顔に変わっている。「人間じゃないの」「動物」直人は驚いた声を上げた。わたしは笑って「タオルケット」と言った。わたしの考えとは反対に、彼は大声で笑った。「いいね」「でも、リィタは裏切らないのよ。絶対に。人間はね、愛しているの裏側に必ず裏切りがついて回るの」「セックスもするの?」「勿論よ」「それ自慰っていうんだぜ」意地悪な子供のように言うのが可笑しかった。「違うわ、愛があるもの」「瑠奈は人間嫌い?対人恐怖症とか?」「だったら、直人と話したりしないわよ」「だって、人間と恋愛できないんだろ」「しないだけよ。人間はね、生きてるだけで精一杯なの。だから他人を見る余裕なんてないの。人を思いやるのも自分のため、所詮自己陶酔でしかないのよ」自分で言いながら小説のいっぺんを朗読している気分になった。「つまんねぇ」直人は笑った。わたしも頷いた。でも、自分の信念にも納得している。だから「瑠奈」になっても、わたしはわたしのために生きている。と思っている。
相手はヒロというのだそうだ。新宿のバーで出会って、話があったから何度か会うようになった。ヒロという名前でノンケと言うことだけで素性はわからない。土日にしか会えないところを見ればサラリーマンなのだろうと直人はまた口を尖らせた。形のいい尻の紳士的な三十代の男性らしい。
直人と喋っていたら三時を回った。それでも相手は来なかった。さすがに寒い。
「まだ待つの?」わたしの問いに、直人は答えなかった。絶対に超えられないものがあるとわかっているのに、素晴らしい恋心だと感心した。
わたしは立ち上がった。「ヒロに会ってみたいわ」「だめ」「とったりしないわよ。人間と恋愛なんてしたくないもの」「よっぽど酷い目見たの?」「さぁ」
直人は携帯電話を取り出した。わたしを見上げる。
「教えてよ、メールする。あんた面白いから」
わたしのメールアドレスを知っている人が一人だけ増えた。
雑貨屋のバイトは十時に終わる。正確にはデパートの雑貨屋なので八時には終わるのだが、売り上げの計算と在庫整理をしていると、どうしてもその時間になる。残業代が払われるので気にしない。
控え室にはまだバイトの女が何人か残って着替えをしながら話していた。男の話だ。控え室は小さく、窮屈で仕方がない。
「浮気されたの?」「わたしのほうが浮気だったって言うのよ」「うっわー最悪」
ロッカーから洋服を取り出し、着替えた。誰も話しかけない。コートを着て、「お疲れ様でした」とだけ挨拶したら全員が「お疲れ様でしたー」と同時に叫んだ。控え室を出るとき、「仕事すればいいってもんじゃないわよね」と忍び笑いが聞こえた。
うちに帰ったら、リビングで姉がテーブルにうつ伏していた。ビールとワインのビンがいくつもテーブルに並べられていた。
姉は黙ったまま顔を上げなかった。わたしも何も言わずに、買ってきた即席パスタを電子レンジで温め、その間に部屋で着替えを済ませた。
戻ってくると姉はうつろな目でこちらを見ていた。手にはビールを持っている。
「仕事は?」「休みよ。いるんだからわかるでしょう」
こういうことは珍しくない。どういうことかもわかっていた。姉はやはり「健二の奴なんて死ねばいいのよ」と健二を罵倒した。
健二は姉の彼氏だった、人だ。付き合って、三ヶ月くらいだったように思う。
「あんなにつくしたのよ?お弁当だって作ってあげた」姉はようやく鬱憤を晴らせる対象を掴んだと言うように喋りだした。「なのに、夜に一緒にいれないからって。何よそれ。わたしが夜勤が多いことくらい知ってるでしょう、わがままにもほどがあるわ」
姉の彼氏は三ヶ月単位で代わる。姉が振るときもあったが大体振られる。この状態が長く続くことはない。姉の容姿なら二週間もあれば新しい彼氏が出来る。
「夜勤でもいいって言う人と付き合ったら?」「初めはみんなそう言うのよ」姉は持っていたビール缶をテーブルに打ち付けた。「また、新しい人に出会えるわよ、縁がなかっただけ」そう言ったら姉はうつろな目で口を歪めて笑った。「男と付き合ったこともない奴に言われたくないわ」「でしょうね」「あんたってかわいそう」姉はそう言った。パスタを器用に巻いて口に運んだ。姉は言葉を続ける。「男も知らない、友達もいない、おまけに変なフリフリの服着てなんとも思わないんだもの」姉のほうがよっぽどかわいそうに見えるが言わなかった。「そういう格好をしてれば、あんたもまともに見えるのよ」姉は指差した。
そういう格好とは上下ピンクのスエット姿だ。
「愛してるって言ってたのに」姉はそう呟いて、またテーブルにうつ伏した。「あんなにつくしてあげたのに」とくぐもった声でまだ呟いていた。
サラダを食べて、その様子をじっと見ていた。姉の髪はぼさぼさでパジャマの上から羽織ったガウンは半分ずり落ちていた。
姉がふと目だけをこちらに向けた。
「あんた、まだあれ持ってるの?」察しはついたが「あれって?」ととぼけた。姉は「布団よ、布団。小学校からずーっと持ってるでしょう」「持ってるよ」「捨てなさいよ」わたしは眉を顰めた。「汚いのよ」「おねえちゃんに関係あること?」「同じ家にあるのも嫌なのよ、洗濯機で洗えばいいのに、くっさいのよ」「酔っ払い」わたしは吐き捨てるように言った。姉は睨んだが何も言わなかった。
部屋へ戻ると、タオルケットに顔を埋めた。「いいにおい」ようやく落ち着けると思った。「リィタ」が腕を回す。わたしたちは長い間抱き合っていた。
わたしは何を言われても平気だ。「リィタ」が全部受け止めてくれる。
バイト先の女のように、姉のように、裏切られることもなく、わたしは安心してサンクチュアリの中で眠ることが出来る。それがどれほど幸福かきっと誰にもわからないだろう。
「ねぇ、リィタわたしはすごく幸せだよ。リィタといるときが一番幸せ」そう言ってタオルケットに口付けた。吸い付くような感覚が気持ちいい。「愛してる、リィタ」何度言ったかわからない言葉を繰り返した。
その夜「リィタ」とセックスをした。
直人からメールが入った。バイトが休みの日に原宿で会うことになった。
ギンガムチェックのシャーリングジャンパースカートにおそろいのリボンカチューシャをし、髪を巻いた。化粧の抜かりもない。「瑠奈」はいつも完璧でなければいけない。
格子柄のファーコートを着て、原宿を目指した。用事があったので表参道から歩くことにした。「瑠奈」と声がした。振り返ったら直人が葉もつけない並木道の殺風景な坂を人をかき分け走ってきた。「竹下口集合じゃなかった?」「時間があったからその辺買い物。お前目立つからすぐわかるよ」直人は濃い茶色のピーコートに革のパンツを穿いて腰にチェーンをたくさんつけていた。
今日は直人がヒロの話をしてくれるというので、出掛けてきた。あの後何か進展があったのかが気になっていた。
「すみません、瑠奈さんですよね」と声をかけられ、直人と話していたわたしは振り返った。カメラマンとレフ盤を持った男女が数人、歩道に立っていた。珍しいことではない。いつもスナップ写真を撮る雑誌組だとすぐにわかった。「こんにちは」と笑いかけた。カメラマンは「今日もいいですか」とカメラをあげて見せた。「今回はバレンタイン企画って言うことで、メッセージに彼氏がいるかいないかとか聞いているんだけど」カメラマンは直人を見た。「恋人はいますが、彼は友人んです」友人という単語を久しぶりに発した。カメラマンは不機嫌な直人をお構いなしに眺めて「きれいな顔してるね。一緒に撮っていいかな?」「嫌です」直人は間髪いれずに答えた。「服のセンスもいいし、うちの雑誌に載っても大丈夫だから」とカメラマンはしつこく直人を勧誘した。それが面白くて、黙って見ていたが、直人がとうとう助けてくれと目配せしたので「一緒に撮りましょうよ」と笑った。
原宿の喫茶店でアイスティーを頼み、ついでにチーズケーキも頼んだ。レトロな作りでクラシックの流れるこの喫茶店はお気に入りだ。
直人は疲れきった顔で溜め息を吐きテーブルにうつ伏した。「俺、あんなのに載ると思わなかった」「載らないときもあるわ」「相当気に入られてた」「そうね」「じゃあ、載るのは確実だ」直人はまた溜め息をついた。「瑠奈はすごいな、有名人?」「ちょっと、名が知れてるだけ」「ここに来る間に三人に声かけられてたじゃん」「ただそれだけのことよ」「もしかして孤独?」「ロリィタしてると人生二倍楽しいのよ」「なんで?」「瑠奈とわたし、二人の人生を経験できるから」「有名人の瑠奈とそうじゃない瑠奈?」時々直人は意地が悪い。「それよりヒロの話をして」わたしは運ばれてきたアイスティーを飲んだ。
結局、直人は六時まであの公園でヒロを待ち続けたそうだ。缶コーヒーを四本飲み、トイレに五回行った。その間にヒロがきているのではないかと気が気ではなかったらしい。真っ暗になって場所が場所だけに、怖くなって帰ったと話した。
「それで?」ここのチーズケーキは濃厚で、お気に入りだ。「その後ヒロから電話があった」
休日出勤で行くことが出来なかった。
「嘘に決まってるじゃない」直人は目をそらして、ぼそぼそと「一時間も謝り続けてくれたんだ」と言う。「飽きれた、完全に遊ばれてるわね」わたしは言い切った。直人は「なんもしてねぇよ」と大声を上げて、それからまたうつ伏した。
「今度会うんだ」ケーキを食べていると、顔も上げずに直人が呟いた。「この間のお詫びに奢るって」「行っていい?」顔を上げた直人は眉を顰めていた。わたしは乗り出した身をひいて「まぁ、ね。わたしが行く理由はないけど、どんな人か見極めてみたいのよ。ゲイに手を出す男」「手は出されてない」直人はまた大声を上げた。それから「まだ二人で会ったことないんだ」と言った。わたしは驚いて「今までどうしてたの?」「電話とか、相手が女連れてたりとか、こっちも友達連れて行ったりとか、みんな集まるようなバーで飲むから」「そんな状況で告白しようとしてたわけ?」
わたしの質問に直人は黙って頷いた。わたしは天井を仰いで「呆れた」とこぼした。直人はむきになって「瑠奈に分かるかよ」「分からない」
直人は眉毛を下げ、またうつ伏した。わたしは男を知らないが、ヒロがあまりいい男には思えなかった。男として興味はない。ただ直人の恋の行方を知りたかった。実らなくて当たり前の恋を直人が持て余しているのが愛おしかった。「わかったわ、じゃあ、わたしは行かない。せっかく二人になれるのに邪魔しちゃ悪いわ」直人は顔を伏せたままだった。
わたしがケーキを食べ終わるころ、そのままの体勢で直人は消え入りそう
に「来てよ」と呟いた。
チーズケーキを二つ買って、家に帰った。姉の部屋をのぞいたら、長い髪の毛を器用に束ねているところだった。
「夜勤?」「そうよ」姉は鏡を見たまま、答えた。「チーズケーキ買ってきたんだけど、食べてから行ったら?」姉は振り返った。不機嫌そうな目を向ける。「着替えて」
パーカーにジーンズ姿でリビングのテーブルにチーズケーキを用意した。姉は部屋から出てくると、コートを椅子にかけ、席に着いた。
「珍しいのね」「友達と食べに行ったからついで」姉は顔を上げて「その格好の?」と言った。「違うわ」「珍しいのね、女の子」「男の子」「奇特な子ね」姉はチーズケーキを食べて「美味しい」と呟いた。「この喫茶店のチーズケーキ、原宿では有名なの」「あんたも、たまには役に立つのね」
姉は器用に化粧をしていた。長い天然のまつげが下を向くたびに瞬かれた。黒のタートルネックセーターにセンターラインの入ったパンツを穿いている。
「前からそんな友達いた?大学の同級生?」「新宿の公園で知り合ったの」
姉は途端に表情を曇らせた。「やめなさい、そんな友達」「どうして?」姉は怪訝そうに「おかしいと思わないの?」と問う。「直人はいい子よ」とわたしは本当にそう思って、頷いた。「いつか、ヤられるわ」姉はそう言ってまたケーキを食べた。
ケーキを食べ終わり、姉はコートを羽織った。
「鍵閉めときなさいよ、わたしは合鍵あるから」姉は「その男がいつ来るかもわからないんだから、変態っているのよ」と呟くように言った。直人はそんなことはしないことぐらいわかっていたが、素直に頷いて玄関まで姉を見送った。
バイトを休んで、わたしは新宿の「NIKO」というバーに向かった。直人とはその入り口で待ち合わせになっている。事前に調べたが、あまり大きな場所ではないらしく、臙脂のコルセット型ワンピースに同じく臙脂のヘッドドレスをつけ、黒のコートを羽織ったまま街を彷徨った。まだ夜の八時だったが酔っ払っているのかいないのかわからないが、サラリーマンたちに「今晩いくら?」と大声で聞かれた。品のない周りの笑い声に昔の記憶が蘇りそうになる。わたしは足を速めた。
店に着いたら「NIKO」と照らし出された看板の前で、直人が腕を抱えて待っていた。「ごめんなさい」わたしは素直に謝った。「駅で待ち合わせればよかった」直人は鼻をすすり上げた。「ヒロは?」「仕事が終わったら来るから、先に飲んでよう」直人は店の階段を下りる。コートを店に預け、私はカシスオレンジを頼んだ。立ち飲みで、椅子はない。暗くて、人の顔が良く見えない。音楽はそれほど大きくないが、小さい店というせいもあって、人の話し声や笑い声が大きく反響している。壁には沢山の年代のたった様々なポスターが無造作に貼られている。「今日も目立つな」と直人が言った。「抑えたつもりよ、お酒を飲むんですもの、ピンクより臙脂のほうがスマートだわ」「それよくわかんねぇ」
直人はカウンターでテキーラサンライズを頼んだ。「テキーラ多めでね」と要望する。「ヒロが来る前に酔っ払うわよ」「いいんだ、それで」と直人は目を伏せた。
ここにいる多くがゲイなのだと直人は教えてくれた。わたしには見当がつかないが、直人には大体、わかるらしい。「ほら、今腕回した」と耳元で、こっそりと直人が言うので控え目に笑い声をたてた。
一時間ほどしたら、スーツ姿の男が直人の前にやってきて「今晩は」と言った。直人はすでにテキーラサンライズを四杯飲んでいた。「遅かったじゃないか」と照明で潤んだ大きな瞳を男に向けた。「こっちから誘っておいて悪かったよ。でも今日は僕のおごりだ」「今晩は」ヒロがこちらに気がつく前に挨拶をした。ヒロは驚いたように振り返った。「今日は一人じゃなかったのか」と頭をかいて、「今晩は」と笑いかけた。それからわたしを見て「新宿じゃ、珍しくないけど、近くで見るのは初めてだよ」と言った。
ヒロが視線を直人に向けている間じっと見つめた。直人は三十代だと言っていたが、わたしにはもっと年上に見えた。笑顔を作ると、目尻に大きくシワがよった。飲むものもビールだし、若者とはいえないと決め付けた。
不意に直人がわたしの腰に手を回した。驚いたが、平然を装った。直人はヒロに話しながらそうしたからだ。軽く、触るか触らないか程度だ。ヒロは直人を見ているので、気づいているのかどうかは怪しかった。
直人がヒロを好きだということに少なからず、疑問を持った。姉の「いつか、ヤられるわ」と言った言葉を思い出した。ヒロに会うのが口実で、実はわたし狙いなのかとすら思えてきた。カシスオレンジはたった二杯だから、酔ってはいないはずだ。
「その格好はどうしてしようと思ったの?」とヒロは話題をわたしに向けてきた。内心穏やかではなかったが、いつもの作り笑いで「どうして、人間が服を着るの?って質問と同じだわ」と言った。「失礼、貶すつもりはなかったんだ」ヒロは笑った。「慣れてるわ」「同じ趣味の友達も多いんだろうね、君はとても美人だから」「いないわ」「意外だな、それだけ似合ってれば声もかけられるだろう?」「瑠奈は雑誌にまで載るのに、友達がいないんだって」と直人が笑った。「聞いて、わたしってロリィタ界に咲く一輪のバラなんですって」ヒロと直人は笑い声をたてた。家族以外とこんなに笑いあうのはいつ以来だろう、とふと思いが心を掠め、それが「リィタ」を裏切っているような後ろめたい気分にさせた。もしも、「リィタ」にこの感情が届くのなら、わたしはそれを願った。
「ヒロは恋人はいるの?」とわたしは率直な質問をした。直人から笑みが消えた。ヒロは困った顔をして「いたけど、振られた。女性はわからないね」ともらすような笑い声をたてた。「わたしは同性愛って素敵だと思うの」「女性同士でも?」少し考えて、「ええ、そうね」と頷いた。「崇高だと思わない?」「思わない」答えたのは直人だった。「あら、どうして?」直人は答えなかった。ヒロは場を取り持つように、飼っている猫の話をした。黒の雄猫で、大きな茶色い目をしているのだそうだ。
「直人に似ている」ヒロは言った。
終電間際、店を出た、わたしと直人は山手線だが、ヒロは違う線にそのまま乗り換える。「今日は楽しかったよ、また三人で飲もう」とヒロは改札を抜けていった。歩いて行くヒロの後姿を見ながら「振り返りもしないんだな」と直人は呟いた。
構内を歩いているとき、不意に直人が「悪かったよ」と言った。「何のこと」「腰に手を回した」「直人は本当にゲイなの」「ああすれば、ヒロが嫉妬すると思ったんだ」「ノンケの人には逆効果だと思うわよ。意外と頭悪いのね」「わかってるんだよ、莫迦なことくらい。でもヒロの前じゃうまい駆け引きが出来ない。俺だってそんなに恋愛してきたわけじゃない。ゲイだって気づいたのだって高校生のときだ」それだけ叫ぶと黙り込んでしまった。直人は相当に酔っ払っていた。周りの人間がみんな振り返った。でもわたしは視線に慣れている。「ヒロが言っていたじゃない、飼っている猫が直人に似ているって。それだけ愛おしいんじゃない?」「猫並みかよ、洒落にならないな」と吐き捨てて、わたしとは逆方向の山手線の階段を上がっていってしまった。
あれだけの時間で、ヒロがどんな人かなんてわからない。まして直人をどう思っているかすら正直わからなかった。直人がヒロの素性がわからないというのも納得がいった。
三日後、音信不通だった直人から「ごめん」と短いメールが入っていた。
前にスナップ写真を撮られた雑誌を買って、リビングで読んでいた。めくっていくと、半ページ丸々使って、自分と直人の写真が出ていた。端のほうに軽く二人のファッション情報と名前と年齢が出ていた。「恋人はいますか?」という質問にわたしは「います」直人は「いません」と書かれていた。直人のにこりともしていない顔をまじまじと見て「やっぱりきれいよね、王子系させてみせたいわ」と一人ごちた。
風呂から上がってきた姉が、「何見てるの?」と覗き込んだ。黙って、雑誌を渡した。姉は案の定「変な格好」と言った。それから「恋人います?嘘ばっかり」と大声で笑いたてた。「いるわ」わたしは呟いた。「見たことないわよ、まさか、あの布団が恋人でーすとか言うんじゃないでしょうね」「お姉ちゃんの彼氏よりよっぽどましよ」しまったと思ったが遅かった。「本気なの?異常以外の何者でもないわよ。あんた病院行きなさい。精神科紹介してあげる」「莫迦にしないで」立ち上がった。「本気で言ってるのよ」冷静に姉はわたしを見ていた。足元がおぼつかない感覚がした。ひやりと汗がにじむ、怖いと思った。
「あんたが男を怖がることぐらい分かってるつもりよ、あの格好も本当に趣味でしてるの」姉の視線は真っ直ぐにわたしを見ていた。言葉を探すが何も思い浮かばない。わたしは逃げるように、部屋へ戻ってドアをしっかりと閉めた。
「リィタ」はいつも通りベッドの上でわたしを待っていた。タオルケットに顔を埋めた。「異常じゃない」くぐもった声で言った。「リィタ」に顔をぎゅうぎゅうに押し当ててもう一度「異常じゃない」と繰り返した。乱れた呼吸と冷汗は治まらない。目を瞑り、自分と「リィタ」との繋がりを確認する。異常なはずがない。だってわたしたちは愛し合っている。わたしが愛しているということはリィタも愛しているということになる。いままでそれでやってこれた。友達も、恋人も、何も要らなかった。何を言われようが平気だった。わたしの世界の中に「リィタ」は絶対的に必要だ。
サンクチュアリに不躾に入り込もうとする考えを追い出そうと、「出てけ、出ていけ」と長い間呟いた。暖かなタオルケットが、徐々に安心感を与える。「リィタ、リィタ、愛している」人になど絶対に言えない言葉を繰り返して、眠りについた。
翌朝顔を洗って、リビングに行くと、姉が雑誌を広げて、「二十二歳か」と呟いていた。台所でサンドイッチを作った。パンにバターとマヨネーズを塗って、チーズとレタスとハムをはさんだ。トマトは苦手だ。
後ろでまた「二十二歳か」と聞こえた。
姉の分も作って、テーブルに運んだ。姉は顔も上げず、サンドイッチをつかんで齧り付きながらまだ雑誌を見ていた。わたしと直人が載った雑誌だ。
「この子が、新宿で友達になった男の子?」「うん」姉の広げているページはわたしと直人が写ったページだった。「綺麗な子ね」姉が言った。「うん」頷いてサンドイッチを食べた。「大学生かしら?」「知らない」「どこに住んでいるのかしら?」「知らない」「バイトしてるのかしら?」「知らない」「彼女いないって本当?」
顔を上げた。姉は笑っていた。わたしは呟いた。「もう二十七歳でしょう」「だから?」姉はサンドイッチを食べて、既に淹れていたコーヒーを飲んだ。「健二よりよっぽどましだわ」「会ったこともないくせに」「今から、会えばいいわ」
莫迦みたい。心の中で呟いた。この間まで、マスカラが目の下で真っ黒になるくらいに泣きながら伏せっていた姉はもう平然と「変態」と決め付けていた直人と会う気でいる。
「だめよ」わたしは強く言った。「どうしてよ?友達でしょう。姉に紹介してくれたっていいじゃない」「直人は特別なのよ」「あんたにとって?」
それはそうだ。直人はわたしにとって特別だ。だが問題はそうじゃない。ただわたしは何も言わずに頷いた。
「ねぇ、携帯電話の番号知ってるんでしょう?アドレスでもいいのよ、教えて」「いや」「わがまま」「どっちがよ」
姉はしばらく黙ったままこちらを見つめていた。どんな意図を持っている沈黙なのか測りかねた。だがしかし、姉はすぐ立ち上がると、サンドイッチを半分残して、家を出て行った。わたしは食べ終わるとそれを片付けて、バイトに向かった。
いつも通り、ほかのバイトの女とは一切喋らない。黙々と仕事をこなした。客に話しかけられたときだけ、いつもの作り笑いで対応した。
「猫のクッションとか売っているかな?」
バイト先の雑貨店はペット用品も取り扱っている。
しゃがんでいたわたしは笑顔で顔を上げ、「それでしたら」と答えて驚いた。ヒロが立っていた。ヒロは驚いて見ているわたしに気づかずにこちらを見た。「NIKO」は暗かったし、ロリィタのときのメイクでない、素顔のわたしが瑠奈だとわかるわけもないのだ。
だがヒロは「もしかして、瑠奈ちゃん?」と訝しげに言った。すぐには言葉が出ないほど驚いたが「ここでは、その名前は言わないでください」慌てて、隅のほうにヒロを連れて行った。
「普通の格好だと、また違う女性に見えるんだね」とヒロは陽気に笑った。「猫がクッションを噛み千切っちゃってね。新しいのを買いに来たんだけど」「ヒロさんお仕事は?」「今日は休みなんだ」
そういう意味ではなかったが、流れてしまってはもう一度聞けなかった。
とりあえずヒロをペット用品売り場に連れて行って、接客をした。ヒロはベージュの肌触りのいいクッションを購入した。
会計を済ませるとヒロは「休憩時間は何時かな?」と尋ねた。「二時です」「じゃあ、待っていよう」「ここで?」「雑貨を見るのは最適な時間つぶしだと思わない?」
ヒロは本当に、二時まで店の中をうろついていた。かばんを持ち、控え室から出てくるとヒロはそのまん前で笑顔で立っていた。「いつもはどこでお昼を食べるのかな?お薦めがあれば教えてよ」ヒロを近くのカレーハウスに連れ行った。ここはカレーよりそのほかのメニューが美味しい。食後にコーヒーがつくのも魅力的だった。
「みんなにはあの格好のことは秘密なの?」ヒロはお絞りで手を拭きながら尋ねた。「秘密というか、喋らないから」「あぁ、友達がいないって言っていたね。仲良くすればいいのに」「必要ないもの」
ヒロはハヤシライスをわたしはミルク粥を頼んだ。「吸ってもいいかな?」とヒロは煙草を取り出した。「直人の前じゃ吸わなかったのに」「嫌がるんだよ」ヒロは困ったように目尻にシワを寄せ微笑んだ。「猫はそんなにやんちゃなの」「噛み癖が取れなくてね」「直人に似てるって言ってたわ」「似ているよ、こっちを見る大きな眼なんかそっくりだ」ヒロを頼っているのだから似ていて当たり前だと思った。「ヒロって謎の多い人ね」「それは瑠奈ちゃんだって一緒だよ」「この格好で瑠奈だって気づいたのヒロだけだもの」「そうかな。直人も気づくと思うよ。なんか不思議な雰囲気がある」「わたしは単純よ、ただ人に言わないだけ」ヒロは顔を背けて煙を吐いた。「失望、した?」呟くようにヒロに聞くとヒロは微笑んだ。「どうして」「可愛く、ないもの」「瑠奈ちゃんは見た目だけで人を判断する人だった?」「わたしは自分の外見が嫌いよ」本音が出た。ヒロは相変わらず微笑んで「変わらない」と言った。「変わらないさ、外見だけで君だと判断するのは低俗だ。僕も直人も瑠奈ちゃんの不思議な雰囲気に誘われた人間だ。だから失望もしない、むしろ嬉しいくらいさ。それに瑠奈ちゃんが思うほど君は俗に言うブスって言うのには入らない、僕の価値観ではね」
カウンセラーと話しているような感覚で面白くない。
ミルク粥をスプーンでかき混ぜながらわたしは黙っていた。初めに今の自分と会っていても、ヒロは同じことを言ったかなど、もう知るすべはない。
「サンクチュアリって知ってる?」
食後のコーヒーを飲んでわたしは言った。「人ってみんなサンクチュアリを持っていると思うの」「場所のこと?」「そういう人もいるわ。でも、モノだったり、人だったり、色々」ヒロはコーヒーにブランデーを入れながら「なるほどね」と言った。
「直人のサンクチュアリはヒロだと思うの」ヒロは驚いたように顔を上げ、それから笑った。「それはどうかな」「わたしはそう思うわ」「瑠奈ちゃんもサンクチュアリを持っているの?」「当然よ、でも誰にも犯されないからサンクチュアリなの」「瑠奈ちゃんの世界観?」「さぁ」
ヒロはわたしを見つめた。
「その世界観が壊れると思うから、人と接するのが嫌だったり?」わたしは答えなかった。答えられなかった。見透かしたようなヒロの目を避けて、コーヒーを飲んだ。
やはりヒロは謎が多い。
ヒロの奢りで店を出た。カレーハウスの前で礼を言い、店に戻った。
仕事が終わり、控え室に入ろうとしたら、話し声が聞こえた。「やっぱり不倫じゃない?二時間も店で待ってる?普通」中に入ると、急に静まり返った。ロッカーを開けて着替えを取り出していると、集まった女たちは囁くように喋っていた。
どんどん、腹が立ってきた。どうしてそんな話しかしないのか、理解が出来ない。ヒロをそんな風に見ることが許せなかった。
姉の思考回路も、この女たちの思考回路も同列だと思えた。
この子達は人間をオスとメスだとしか、見られないのだろうか。
「不倫なんかじゃないわ」着替えながら言ったら、一人が「喋った」と言ったのでこの子の頭の中がスポンジのように軽いのだと思った。
「わたしたちにそこまで言うなんて、やっぱり怪しくない?」「他にもバイトしてるんじゃないの?」着替え終わって振り返ると、みんなこちらを見ていた。一瞬腹が立っただけだった。今はもう何も感じない。「リィタ」に会いたいと思った。
「他のバイトも出来ない、中途半端な人生ね、あなた」「酷くなーい」と女たちは口々に叫んだ。「無口な上に性格も悪いのね、初めて話してそれって異常」「異常じゃないと思っているあなたのほうがよっぽど異常って知ってて言ってる?」
これ以上話しても無駄だと思った。水掛け論にしかならない。まだ文句を言っている彼女たちを無視して控え室を出た。
道を歩きながら、あのバイトはもう無理だと思った。
家に帰って、夕食を食べていたら、実家から荷物が届いた。上にメモが乗せられていて、「お母さんからのバレンタインです」と書かれていた。中をあさると、みかんとレトルトと米とチョコレートが入っていた。包み紙があったので、広げたら「おばあちゃんより」と書かれて、ピンクと黒の腹巻が二枚入っていた。たぶんピンクがわたしで、黒が姉だろう。わたしはスエットの上から腹巻をした。かすかに実家の石油ストーブの匂いがした。
みかんを食べ、姉の帰りを待った。「寒い、寒い」と声がして姉が姿を見せた。「これ、お母さんと、おばあちゃんから」とチョコレートと、腹巻を渡すと、姉は腹巻をしたわたしを見て腹を抱えて笑った。姉は腹巻を持って、部屋に戻ったが、たぶんしない。
タオルケットに包まり、今日あったことを思い返した。そうすると、それは全部「リィタ」に伝わる。タオルケットはどんどん温まり、わたしを慰めた。
わたしの涙と汗と唾液で白から灰色に変色したタオルケットは、もう洗っても落ちないだろう。洗う気もない。長年かけて染み付いた「リィタ」の匂いが消えてしまう。
ヒロの言った、「世界観が壊れる」と言った言葉をふと思い出した。
電話が鳴った。母親だった。「荷物、届いた?」「うん」わたしは腹巻を触りながら「この腹巻ばあちゃん作ったが?」「そうや、鍵編みやって。お母さんには無理やわ」母は笑った。「あったかい、ありがとうって言っといてま」「言わんだってあんたの気持くらい伝わるわ」わたしは気のない返事をした。「お姉ちゃんに、迷惑かけんとかな。ただでさえ置いてもらっとるんやし」「半分家賃はらっとるって」「そういうことじゃないやろ、感謝しなさい」姉は腹巻を見て笑っていた、あれは感謝をしているのだろうかと疑問を抱いた。「おねえちゃん腹巻しとらんと思うよ」「しとるて」母は断言した。「でもわたしの腹巻見て笑っとった」真剣に言ったが母は諭すように「お姉ちゃんの性格あんたも知っとるやろ、わたしだってあんたが腹巻してたら笑うわ」わたしは黙った。「可愛いと思うから笑うんよ」母はゆっくりそう言った。少しわだかまった気持ちのまま「そうやね」と呟いた。
母はその後、話をわたしに向けた。「あんた、そっちでふりふり着とるんやろ」「だから」わたしはあからさまに不機嫌になった。何度ロリィタと言っても母は洋服を「ふりふり」と言う。「考えなさいま。いつまでも、そんな格好しとられんことくらいわかっとるやろ」「可愛い洋服着たおばあちゃん、わたしは素敵やと思う」「みっともないと思う人、殆どやよ、なんでいね、あんた大学ん時は普通の格好やったやろ」「これが普通になったんや。人間の価値観なんてすぐに変わる」最後は吐き捨てるように言った。母はそれ以上問い詰めたりはしなかったが、幼少期のわたしを知っている母は、心配しているのだろうと察しはついた。
小さい頃の男の子に追い回され突き飛ばされた記憶が蘇る。「ぶさいく」と罵られ、鏡に向かって腫れぼったい細い自分の目と、口に綿を入れたように膨らんだ頬が心底憎らしかった。鏡の前でいつまでも突っ立って自分を睨みつけるわたしを母は叱りつけた。慰めなど一切なかった、まっとうな人間で何が悪いと母はわたしの両肩をつかんだ。生まれついたこの顔を諦めなさいと聞こえた。
いつまでも、瑠奈でいれるわけではない、その現実が頭の中で揺らぎながら見えた。
電話を終え、「リィタ」に話しかけた。声に出したり、心の中で呟いたりしてわたしは話しかける。「リィタ」は音になって出ることは絶対にないが、それでもそれに答えてくれる。「異常だと気づかないのが異常なのだとしたら、わたしは異常なのね、自分で言っておいて可笑しいわ」苦笑いを漏らした。でもそれでもいいと思った。「リィタ」がいない世界のほうがわたしにとって異常だ。このまま二人でずっといれたらいいのにと、タオルケットに包まり思った。この暖かな安心を感じながらずっと眠っていたい。
それなら瑠奈でなくていい。二人だけなら誰もわたしを知ることもない。
だがどうしても現実は付きまとう。家賃も服も買う金のあてが無くなってしまった。金がなくては結局二人だけの世界すら作れないという現状が、自分を現実世界で生きていると否応なく痛烈に実感させた。
今日行ったカレーハウスで働くのはどうだろう。今のように給料はよくないだろうが、まかないもつくだろうし、今度連絡してみようと考えているところにまた携帯電話が鳴った。直人からだった。
「もしもし」「全部瑠奈のせいだからな」いきなり直人は言った。「なんのこと?」「雑誌を見たって声をかけられた」仏頂面の直人が目に浮かぶ。「もう、雑誌に載ってるのか?」「見てないの?半面に大きく載ってたわよ」直人のため息が聞こえた。「もう、俺外出ない」「にこやかに笑って握手すれば済むことよ」「それは瑠奈だからだろ、携帯番号教えろってしつこかったんだ。瑠奈みたいなキャラクターは俺にはねぇよ」「今日ヒロに会ったのよ」直人は黙った。文句を言う直人を黙らせるには一番効果的な方法だ。
「また、飲みましょうよ、今度はヒロの腰に手を回して」「相当酔っ払えば出来るかもな」直人はむくれた声で答えた。「じゃあ、決まりね。またNIKOにしましょう。今度は迷わないから」
電話を切ってタオルケットを手繰り寄せた。灰色の「リィタ」を見て「少し、色を足すだけだから」と言い訳をした。
仕事には辞めると伝え、最後の仕事を終えて帰り支度をした。どこで聞きつけたか、他のバイトが「清々」「自業自得」「自分勝手にもほどあるわ」と口々に洩らした。そちらを向けば皆そっぽを向いた。結局、わたしに面と向かって言えるような勇気はないのだ。その言葉がどれほどの重さを持っているか、こんな彼女たちも分かってはいるのだ。自分が一人になる勇気もなく他を批判をすることで、自分を保つ。今時はそうなんだと思って控え室をあとにした。
寒さに少し早足になりながら駅を目指した。
そう遠くはないがそれでも息は上がる。何時だろうと時計に目を落とした時だった。「すいませーん」と声がした。顔をあげたら、若い男が三人立っていた。笑った顔ですぐに絡んでくる見当はついた。わたしは黙ったまま素通りしようとした。一人がわたしの腕を掴んだ。驚いて目を見張った。「酷くね?無視とか」「離して下さい」初めてのことに動揺を隠せない。一人が携帯電話を取り出してわたしと交互に見ている。「あー、やっぱこいつだ」わたしは状況について行けず、とりあえず握られた手に爪をたてた。だが男の力はさらにわたしの腕を締め付ける。痛さに眉を顰めたら男は言った。「あんたさ、俺の女莫迦にしたんだって」「性格悪いって評判だよ?知ってた」
バイトの女だとすぐに分かった。評判が悪いことなど百も承知だ。だからあの場から逃げたのだ。
わたしは男を睨みつけ「貴方も変な女にかまってる暇があるなら、もっといい女見る目もったほうがいいわね」「は?変な女?自分のこと言ってる?」三人は業とらしく大声で笑った。夜も遅いが、ここは繁華街だ。誰か助けを呼べないものかとあたりを見回す。一人の男が「ばっかじゃね。お前みたいなブス誰が助けるかよ。何の得にもならねぇつうの」目の前が一瞬スパークしたように感じた。
男たちが笑いながらわたしの髪を引っ張ったり小突いたりして「謝れ、土下座」と連呼した。小突かれるたびふらつきながら、それでも周りに必死に助けを求める目を向けた。だが、みんな興味本位か何か惨いものを見てしまったという目を向けて去って行った。ついにわたしは声をあげた。「誰か、助けて」心でリィタを思った。このままリィタに二度と会えないのではないかと思うと、涙がにじんだ。一人が息がかかるほど顔を寄せ「泣いちゃった?」と酒臭い息を吹きかける。気持ち悪い。この男たちも、周りの人間も、皆気持ち悪い。「エンジョコウサイしてるんだって?顔がだめなら体で売るしかないんだろ?売ってくれる?」ぞっと鳥肌が立つのを感じ、これが同じ人間なのかとすら疑ってかかった。「まじかよー」「体だけならいいだろ」笑い声が耳をつんざいた。
小学校も、中学もこうして男にも女にもいじめられた。その誰もがわたしをブスと言った。「おかめ」とあだ名をつけられていた。いつも俯き、自分の靴下が締め付けるふくらはぎが醜いと思ったのを覚えている。だからわたしは瑠奈になった。努力して痩せ、化粧方法を身につけ、洋服を着こなした。だが、やはりわたしのときはわたしでしかない。いくら努力しても、結局いつまでたってもこうして人間から罵倒を受ける。
「お願い、離して。気持ち悪い」泣きながら言った。髪の毛を掴んでいた男は一度思いきり髪を引っ張り、突き飛ばした。地面に勢いよく転んだわたしは茫然とコンクリートを見つめた。コロコロとバックの中にあったリップクリームが目の前を横切った。わたしの背中めがけて「気持ち悪い?こっちの台詞だよ。何様だお前。ブスがしゃしゃり出て、調子のってんじゃねぇぞ」怒鳴り散らす声が聞こえ、落ちるわたしの涙で、コンクリートが黒く点々と跡を残した。
手をついた路面が波うって感じる。その内自分が揺れているように思えだした。目の焦点が定まらない。落ちる涙のあとはぶれて、無数に見える。心の中で今わたしが瑠奈だったら、と強く思った。瑠奈だったらきっと人はわたしを助けてくれた。そう感じた。
男たちは満足したのかその場から笑いながら去って行った。暫く、座り込んだままぼんやりとしていた。コンクリートは冷たいのに、掌は熱く脈打っていた。男たちの言葉が頭を離れない、わたしはその言葉が正しいと思いだしていた。ブスはしゃしゃり出てはいけない。だがすぐにヒロの言葉が浮かんだ。カレーハウスで「外見だけで君だと判断するのは低俗だ。」と言ったヒロの顔、嘘をついているように見えなかったと思うのは、今わたしがその言葉を最も欲しているからだろうか。
放心して、鈍い月の輝きを見つめて歩いた。先ほどまで感じていた寒さなどもう感じない。耳の奥では、ずっと男たちの笑い声と苛められていたころの同級生たちの笑い声が聞こえていた。
帰ったら姉が驚いて近寄ってきた。「どうしたの、何があったの」わたしは髪の毛を直す気力もみだれた服を整える力もなかった。無言で足元を見つめていた。
姉はすぐにわたしの両手の皮がすりむけている事に気がついた。消毒液と包帯を持ってきてわたしを椅子に座らせると、慣れた手つきで手当を始めた。「非番だと思ったら、家に患者がいるなんて」ぶつぶつ文句を言いながら、包帯を巻く姉を見ていた。姉は包帯を巻き終わると、少し黙っていたが「いつぶりだろうね」と言った。「あんた、よく同期の男の子にいじめられてたでしょ、膝すりむいたり、痣作ったり」溜息をつきながら立ち上がり「どうせ、またそんなことでしょ」「リップ」姉は振り返った。「リップクリーム、なくしちゃった」わたしは姉を見つめた。
「ガキ相手に落ち込んでるじゃないわよ」姉はわたしの頭を無造作に撫でた。目の前の姉の腰に腹巻が巻いてある。両手に丁寧に巻かれた包帯を見て「ありがとう」と呟いた。
白のブラウスに黒のコルセットスカート、ヘッドドレスではなく、大きな黒い羽のコサージュを頭につけた。自作の品だ。
黒のアイシャドーに黒いマニキュア、アクセサリーのみを銀にして身に付けた。両手は殆ど完治していた。多分これで黒いレースの手袋をしたらばれることはないだろう。
部屋から出ると、クリーム色のブラウスに黒のニットを着て、コーデュロイのスカートを穿いた姉が目を瞬いていた。それから何か言いたげな視線を向けた。姉が口を開く前にわたしが口を開いた。
「いい加減慣れたら?」「いつもはカラフルなの着てるから意外に思っただけよ、こんな時間にそんな格好だったら夜にまぎれて見えないわね」「今日は直人たちと飲むの」
姉は早口で問う。「どこで?」「仕事でしょ」
姉は大袈裟に顔を両手で覆って地団太を踏んだ。「わたしが看護師じゃなかったら行ってるのに」「患者が泣く言葉だわ」
「NIKO」の前には直人とヒロが立っていた。ヒロはにこやかに「今日はエレガントというべきかな」と言った。「一応褒め言葉として受け取るわ」「魔女みてぇ」直人はげらげらと笑った。
バーの中で飲みながら、わたしは時々、直人の横腹をつついた。直人はそのたびに顔を顰め、ヒロを見た。
「この間瑠奈ちゃんのバイト先に偶然行ってね」「今度俺も行って瑠奈の邪魔しようかな」「辞めたわ」わたしはカシスオレンジを飲み、視線をそらした。驚いていたのはヒロのほうだった。「どうして、もしかして僕のせいかな」「ヒロのせいじゃないの、わたしの世界にずかずか入ってくるようなバイトの女の子がいるところなんてこっちから願い下げ」「でも、それって悔しくないか。なんでそいつらのためにこっちが辞める必要があるんだよ」直人は野菜スティックを齧って、テキーラサンライズを飲んだ。一瞬あの夜の男たちが頭をかすめたがすぐに笑顔を作った。「例えば、宇宙に二つの星があってその両方の引力が働いて引き合ったとき、無理に衝突して大爆発を起こすのと、ひとつが軌道を変えてまた新たな星同士が衝突しないような宇宙の空間に移動するのはどちらが平和的?」「何それ」直人はわたしを見た。「お互いの引力が均等に働いてぶつかりもせず、回っていられたらそれこそ平和的じゃない?月と地球みたいにさ」ヒロは微笑んだ。「バイト先の子とは残念ながらそうはいかなかったみたい」「瑠奈がそうしないだけだろ」直人は眉を顰めた。「白か黒しかないじゃん、お前の発想」「必要ないもの」「ほら出た、瑠奈はいつもそうだ」「直人酔ってるわ」わたしはうんざりと顔を背けた。事を荒立てて、体力を使うのは莫迦げている。逃げたほうが頭がいい。特に容姿とか男女のいざこざとか、そう言う程度の低いことには。わたしはそう思っている。
「サンクチュアリの話、覚えてる?」ヒロに話しかけた。「ヒロにもサンクチュアリはあるの?」ヒロは考えて、「あるよ」と答えた。直人はすかさず「何?」と聞いたのでわたしは「それを聞くのは野暮なことだわ」と注意した。「サンクチュアリは自分だけのものなの、誰にも犯されないものなのよ」「だったら、聞くなよ」直人はわたしを睨んだ。「直人もサンクチュアリを持っている?」と聞いたのはヒロだった。直人は「ないね」と答えて、テキーラサンライズを注文した。ヒロはわたしを振り返った。わたしは微笑んだ。ヒロも可笑しそうに首をひねった。直人はわたしたちを睨んで「何笑ってんだよ」とすねた子供みたいな顔をした。
結局、直人はテキーラサンライズを六杯飲んだが、ヒロの腰に腕は回さなかった。
「瑠奈さんですか?」といつも通り声をかけられた。ブルー地にブーケ柄のフリルドレスにブルーのリボンカチューシャ姿のわたしは振り返った。原宿のデパートの中だった。
見るからに初心者のロリィタの少女だった。タータンチェックのジャンパースカートに、肩幅の合っていないブラウスがはみ出している。
それで人を選んだりはしない主義だ。微笑んで、頷いた。
少女は今にも泣きそうな顔をして「本物だぁ」と声を震わせた。「わたし、春から東京に出てきて、ずっとロリィタに憧れてて、雑誌で瑠奈さんが出てるたび、どのモデルさんよりも綺麗だなって思ってて」彼女の声は終始震えていた。本当のわたしを知ったら、彼女はどう思うだろう。「可愛いロリィタになってね」わたしは手を差し出した。すると彼女はかばんの中から名刺を取り出した。ピンクの台紙に、端にウサギの絵が描いてある。アドレスと電話番号とともに、「綾奈」と書かれていた。
「わたしのロリィタネームです。奈は瑠奈さんの文字を勝手にいただきました」わたしがそれを見ていると綾奈は恐る恐るそれを差し出した。「ご迷惑じゃなければ受け取ってください。連絡はしなくても、いいんです。瑠奈さんに知っていただけるだけでいいんです」綾奈の両手は震えていた。瑠奈はロリィタ界に咲く一輪のバラなのだ。誰ともつるまない、一人ぼっちの存在なのだ。だが、あの事件を境に本当のわたしはもっと独りぼっちだと痛いほど知った。
わたしはそれを受け取って、「東京に早く慣れるといいね」と言って去った。
今日は直人に呼び出された。いつもの喫茶店だ。名刺を見せたら「だせぇ」と直人は言った。「ロリィタはみんな必死よ、莫迦にしないで」「瑠奈にしちゃ珍しいじゃん、連絡先聞くなんて」「わたしが聞いたんじゃないわ」「連絡するの?」「まさか」内心困ってはいたが、顔には出さなかった。「あの子の気持ちもわかるもの、ルールを知らなかっただけでしょう。余計に不憫になっちゃったの」「やっぱりわかんねぇ」直人はアイスコーヒーをすすった。
「今日の用事は何?」直人は伏目がちに黙っていたが、呟くように「ヒロに告白しようと思うんだ」と言った。わたしは真剣に「前と同じにすっぽかすかもよ」直人はわたしを真っ直ぐに見た。「大事な用事だって伝えた。今度こそ絶対に来るって約束してくれた」わたしはチーズケーキを食べるわけでもなく一口大に切りながら「今の関係が壊れるかもしれないのわかっている?」「あぁ、わかってる。瑠奈はわからないかもしれないけど、どうしても気持ちを伝えないとこっちが壊れるってこともあるんだ」「ふぅん」「あの公園で、告白する。明日三時に待ち合わせてる。瑠奈、四時ごろ来てくれないかな」ケーキから顔を上げ、驚いて直人を見た。直人もこちらを見ていた。「何でわたしが」「振られたら、一人じゃいれない」「随分、女々しいのね」わたしは眉を顰めた。「承知だよ、俺はチキンだ」「よくわかってるじゃない」「頼むよ、瑠奈」直人は弱弱しい声でうつ伏した。
三時半ごろ、公園に着いた。目立ってはいけないと、化粧はせず、セーターにジーンズ姿で行った。もしうまくいけば、わたしの出番はない。ヒロが言った「直人もわかる」と言ったことも試してみたくなっていた。
遠目でヒロと直人がいるのが見えた。わたしは慌てて、木の陰に隠れ、二人を観察した。
ヒロはゆっくりと直人に近づき、直人を抱き寄せると、唇をふさいだ。はっと息を飲んだ。そうして違和感を覚えた。ヒロは離れると、何かを言って、その場を去っていった。直人は立ち尽くしたまま、動かない。ヒロが戻ってくる気配はなかった。
わたしは直人に近づいた。
「直人?」直人は無表情のまま振り返った。「瑠奈?」わたしとわかった、そう思った瞬間直人は顔をゆがめた。「こんなに苦しいなんて知らなかった」絞り出すような声だった。状況についていけずに、混乱して直人を見た。直人は本当に苦しそうに、時々口の端から嗚咽のような息を漏らした。
「俺の気持ちには応えられない。気持ちを断ち切るために一度だけキスしてもらったんだ。なのに、こんな」直人は崩れ、ベンチにうつ伏して震えた。
「ヒロは酷い男ね、そしてあなたは相当に莫迦だわ」
それだけ言って直人が震えるのを黙って見ていた。たぶんヒロはノンケじゃない。姉が健二に振られたときとかぶった。「なんだ、一緒じゃない」わたしは声に出さずに、呟いた。「言ったろう、男でも、女でも、変わらないんだ。崇高でもなんでもないんだよ」
「ごめんなさい」わたしは呟いた。心からそう思った。「ごめんなさい」
姉がわたしの部屋のドアを勢いよく開けた。目を吊り上げて、顔を真っ赤にさせ肩で息をついている。わたしはバイトの履歴書を書いている途中だった。椅子に座ったまま、姉の顔を驚いて見つめた。
姉は持っていたハンドバックを床に打ち付けるように投げつけた。
「一体どういうことよ」姉は怒鳴った。「こっちの台詞だわ」「あの男の子に会ったのよ、あんたの姉だって言ってね」状況を把握して、姉を凝視した。
姉はわたしの隙をついて、わたしの携帯電話のアドレスを盗み見たのだと思った。
「信じられない」「こっちの台詞よ」姉はまた叫んだ。そうしてわたしの胸倉をつかむと大きく揺さぶった。「駅の前で食事に誘ったのよ、そしたら俺はゲイだ、あんたなんかに興味はない、勘違いするなって言われたのよ、どういうことよ」「自業自得じゃない」「あんたゲイだなんて言わなかったじゃない」姉はわたしの頭を押し付けた。ヘッドドレスがずれて床に落ちた。「こんな異常な妹だから異常な友達しか出来ないのね」「逆恨みもいいところだわ、自分が全部悪いくせにわたしのせいにして、男が出来なかったらいつでも妹に八つ当たり?」姉はわたしから離れると、強く睨み付けた。だが次の瞬間、姉は強くわたしを抱き寄せた。肩に姉の吐息が熱い。「わたしがどれだけ心配していると思っているの」姉は泣いていた。「どうでもいいのよ、わたしはあの男の子に告白するために逢ったんじゃない。わたしはいいのよ。あんたのことを言ってるのよ」わたしは黙っていた。姉は顔をあげて「あんたに友達ができて内心すごい喜んではいたわ」姉は喉を痙攣させた。「でもあんたのことだもの、どんな友達か気になるでしょう。包帯を巻きながらずっと悩んでた。男も知らないあんたが、莫迦な奴にひっかかったんじゃないかって」関係ないといつものように言えなかった。姉はまた涙をこぼした。「ずっとタオルケットを抱きしめて、ぼんやりしているあんたを、どんな気持ちで見てたと思う」「呆れて」「莫迦」
わたしの頬を姉が平手打ちした。音がした。目の前に一瞬光が飛んだように思えた。口もきけず、茫然と姉を見つめることしかできなかった。打たれた場所が熱を持ち、やがて痺れ始めた。姉は歯を食いしばり、怒っているというより悔しそうな表情に見えた。
そうしておぼろげながら思い出した。中学の時に姉の彼氏に偶然会ったことがあった。わたしは自分から彼の友人達に姉の妹だと名乗り出た。家に来ると礼儀正しくわたしにも挨拶してくれた姉の彼氏を信頼していた。こんなブスの姉と付き合っているのかと、彼の周りにいた高校生が笑った。彼は「お前、誰?」とわたしを鬱陶しそうに見た。
数日後姉はその彼氏と別れていた。わたしはリィタを抱きしめ、人間の都合のよさを羨ましく、妬ましく、汚く思っていた。姉がわたしの部屋に来て、わたしを見ていた。
ああ、わたしのせいで別れてしまった。そう言いたいんだなと思ったが何も言葉は出なかった。
今、姉はあの時と同じ目でわたしを見ている。直人とうまくいかなかったから、姉はこの目をわたしに向けていると自分に問うて、すぐに違うと思った。わたしは長い間、姉の気持ちに気が付いていなかっただけだったのかもしれない。
母親の言葉が蘇った。
「違う」沈黙を破ったのはわたしだった。「直人はあの件とは関係ない。むしろ他の男のほうがとても怖い」「誰なの」「前のバイト先の、同僚の彼氏」「あんたに何の用なの」わたしは黙っていた。察しはつくだろう。姉は溜息を洩らすのと一緒に喉を痙攣させた。
「どうしてあんたは」そう言って姉は黙った。
「あのタオルケットはわたしの恋人なの。絶対にわたしを裏切らない、存在。おねえちゃんの恋愛のように終わりは来ない」「本気で言っている」わたしは黙って頷いた。姉は痛々しそうに目を瞬いた。「あんたはそれで、そのタオルケットに報いているつもりでしょうけれど、所詮は自己陶酔の世界よ」「違う」「違わない、あんたは自分から独りぼっちの世界に迷い込んでるのに。自分がどれだけ異常なほど自分に執着しているか気付いている?」「執着」怪訝に眉を顰めるしか出来ない。姉はゆっくり頷いた。「自分が醜いと思えば思うほど、あんたは人と関わりたがらない」「当り前よ、思いたくもないし、思われたくもない」「そうして孤立して自分を自分で慰める。執着の他になんて言うの?」
わたしはリィタを振り返った。足元がおぼつかない。大きな自己陶酔の後に待つのが何かを知っている。周りの人間を見て、ずっとそれが嫌で、仕方がなかったはずなのに。自分が嫌いなはずのわたしが自分に執着していると言う姉が理解できなかった。
「あんたにとって、その服も、そのタオルケットも、孤独でいることも、単なる自己陶酔と過剰な自己防衛やろうが」姉は喚くようにそう言った。「あんたは孤独でいたいん?わたしら家族も、あんたがかばうゲイの友達も、孤独のためなら切り捨てられるんか」
孤独だと思ってきた自分にその言葉は巨大に感じられた。周りを見ない代わりにわたしが傷つけたものの大きさを知って、潰れるほどに体中が痛いと感じた。
わたしはリィタではなく姉にすがって泣いた。姉は思ったより、小さく、そして柔らかかった。
直人はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら「人生ってうまくいかないものだな」と呟いた。「例えばさ、明日は早く起きて、コーヒーを淹れようとか、思うだろ?一日を優雅に過ごそうってさ。でも実際起きたら昼過ぎってこと、よくあるんだよな」わたしは頷いてチーズケーキを食べた。「でも、そこから、どうしようかって考えるんだよ」直人はまだコーヒーをかき混ぜている。「だからおもしろいんだよな」と直人は上の空で呟いた。ヒロとの連絡はあれから取っていないと言う。そのほうが賢明だとわたしは思う。
直人はわたしの顔を見つめた。「瑠奈は変わったな」わたしはもう、二時間かけて化粧をしなくなった。相変わらず、付けまつげはするけれど、整形したみたいに顔が変わるほど完璧に作ったりしない。「直人は前の瑠奈のが美人でよかった?」「変わんねぇよ」「今変わったって言ったじゃない」「外見変わっても、中身は変わってねぇよ。相変わらず、訳わかんない」「色をつけるのも、いいものだと思ったのよ」「何それ」わたしは微笑んで、答えなかった。直人はまた「訳わかんない」と言ったあと、少し考えて「だからおもしれぇんだよなぁ」と音をたててコーヒーを啜った。
リィタとは相変わらずの関係だ。でも何か違うのも分かっていた。言葉を「彼」に捧げることはできなくなった。
カレーハウスでバイトを始め、そこのバイト仲間とも少しは喋るようにした。
雑誌のスナップも頼まれなくなった。所詮こんなものかと思ったが、それは世間への逆恨みに思えてすぐに慣れた。
ロリィタのお茶会に顔を出したとき、みんなやはりわたしが「瑠奈」だと気がつかなかった。わたしはロリィタネームを変えず、「瑠奈です」と名乗った。みんな「あの」瑠奈から名前をとったと思ったようだったが、でも、すぐにわたしを受け入れてくれたことにわたしが驚いた。話してみたら、色んな女がいた。男を知らないものも、心療内科に通ってるものも、買い物に依存しているものも、ロリィタしか生きがいがないものも、むしろ男がいないと生きていけないという女も。
みんながみんな、何かに依存していた。だが瑠奈の依存とは違う。
不思議に思ったのは、誰も「瑠奈さんを最近見ないね」と話したのを聴いたことはないことだった。
「瑠奈ちゃんは、彼氏いるの」「いないわ。でもゲイの親友がいるの」と意地悪に言った。みんな興味本位の歓声をあげた。お茶会に直人を連れこようと思った。王子様みたいな格好をさせてそこで仏頂面になる直人を見たくて仕方なかった。出来なくてもいい、この話をするだけでもわたしの直人に対するいたずらは大成功だ。わたしは押し殺した笑いを洩らして、それ以上直人については話さなかった。
「ロリィタ界に咲く一輪のバラ」であった瑠奈は姿を消した。たぶん二度と会うことはできない。