ジャム
俺がうんこをしていると、インターフォンが鳴った。俺は急いでケツを拭いてトイレを出た。
そこに立っていたのは宅配業者の男だった。一つの箱を渡される。わりあい重たい。家に戻ってから開けてみると、それはジャムだった。瓶が六つ並べられていて、そのすべてが赤色をしている。メッセージカードが添えられていた。
『作りすぎちゃった。みんなで食べて。妙子』
妙子というのは俺の祖母のことだった。俺はひと瓶開けて、スプーンを差し込んだ。甘いイチゴジャムだった。昼飯がまだだったので、トーストに塗って食べることにした。
母が帰ってきた。
「あらこれはなに?」
「イチゴジャム」
「どうしたのって聞いてるの」
「ばっちゃから届いた」俺は祖母をばっちゃと呼んでいた。
「こんなに困るわ。どう考えても食べきれないでしょう。手作りなんていつまでもつかもわからないし。おばあちゃんにも困ったものね」
「親切心だよ」
「あんたお友達に配ってらっしゃい。うちのぶんは一つあればたくさんよ」
俺は保冷バッグを持たされて、外に放り出された。四月にしては暑かった。俺は十五で、友達といったらお隣で外飼いされているぽんずという犬だけだった。ぽんずは俺が前を通るといつも吠え立ててくれる。プリティードッグ。
俺は歩いて八分くらいの樫本の家に行った。樫本とは幼稚園から中学まで同じだった。四月になり、勉強のできなかった彼は底辺高校へ行き、勉強をやらなかった俺は通信制高校に入った。世の中そんなものだ。
俺は樫本の家の呼び鈴を鳴らした。誰も出てこなかった。車がなかったので、留守かもしれなかった。俺は樫本以外にジャムを配るあてがない。その場で突っ立っていると、縁側の大窓のカーテンがちらっと開いた。樫本の妹だった。二つ下だったはずだから、中二だろう。俺は彼女が喋るところをほとんど見たことがなかった。カーテンはすぐに閉じられてしまった。彼女はとてつもなくシャイなのだ。これは玄関が開くこともなさそうだぞと思って、帰ろうとしたら、引き戸ががらっと開いた。
樫本の家は祖父母の家に似ている。全体的に木造という感じになっている。
「透は出かけてるの?」俺は聞いた。
樫本かえではうなずいた。
「どこに行ったの?」
樫本かえでは首を傾げた。それから少しはにかんだ。
俺はそこでものすごく退屈な時間を過ごした。樫本かえでは俺にコーラを出してくれたが、それからやはりひとことも発さなかった。そのくせ自分の部屋に引き上げるでもなく、居間のテーブルを挟んで俺に向き合っていた。
俺がテレビをつけると、それはBSで、よくわからないベテラン俳優のミステリーものが流れていた。旅館が舞台らしい。きっとこの俳優がかねて泊まりたかった場所がそのままロケ地に使われているのだろうと俺は真相を穿った。
樫本かえでは本当にひとことも喋らなかった。ショートパンツを穿いていたので、俺は彼女の脚ばかり見た。二十秒に一度くらいは見たと思う。樫本かえではその視線に気づいているようでもあった。太ももの上で手がきゅっと握られていた。
「そろそろ帰るよ」来てから三十分くらいで、俺は言った。
樫本かえでは何も言わずにこっちを見た。内気な彼女に似合わない大きな目だった。
「ジャム、一つ置いていくね」
「あの……」
樫本かえでが初めて声を発した。
「ん?」
しかしそれ以上は何も言わなかった。こっちが見つめると、急におろおろして目を逸らすのだった。顔もびっくりするくらい赤くなった。
外に出ると、太陽はまだ元気いっぱいだ。瓶ジャムはあと四つもある。俺はどうしたらいいのか途方に暮れた。
「あの……」
樫本かえでがまた何か言った。
「ん?」
「また……」
「うん、またね」
たったそれだけだったが、樫本かえではささやかに、それでいてすごく嬉しそうに笑った。俺がまた来ると思ったのだ。彼女がなぜか俺に惚れているらしいことは昔からなんとなくわかっていた。しかし俺は彼女の太もものほかには特に興味がなかった。世の中は噛み合わないようにできている。
俺は保冷バッグを担いで樫本の家をあとにした。
――ふと、いたずら心が芽生えた。俺は踵を返すと、玄関扉を開けて戻ろうとしている樫本かえでに近寄って、首を伸ばし、彼女の頬にキスをした。樫本かえではとっさに肩をすくめて、それからもともと大きな目をさらに大きくして俺を見た。強盗にでも遭ったような目だった。俺は彼女があまりに驚くので、むしろひどい罪悪感に駆られた。俺は早足で、今度こそその場をあとにした。
公園の藤棚の下でうなだれていると、小学生の男の子二人組がやってきて、まだ花のないその下に入ってきた。ベンチが三つ並んでいて、俺のところから一つおきのところに座った。彼らはゲームをするらしかった。
少し風が出てきた。それで晴れていても涼しいくらいになった。春のたるんだ空で雲がゆっくり流れていた。
俺は男の子たちに声をかけた。
「君たち、ジャムは好き?」
男の子たちは知らない人と喋ってはならないとよく教育されているようだ。黙っている。俺はジャムの瓶を二つ取り出した。
「僕はジャムお兄さんだよ。高校ではアンパンに命を与える勉強をしている。このジャムはうちのばあちゃんが作ったんだけど、作りすぎたらしくて、いま売り歩いてるんだ」
「オレたち金ないよ」
「金なんかいるもんか。もらってくれたらばあちゃんも喜ぶ」
俺はジャム瓶のふたを開けて彼らの前に差し出した。片方の男の子は臆病で、やめたほうがいいよと言っていたが、もう片方の男の子は指でそれをすくって舐めた。
「甘い!」
それを見てもう片方の男の子も舐めた。
「ほんとだ……甘い……」
俺は彼らに二つのジャム瓶を渡した。彼らはそれを二、三すくって舐めた。俺は突然くつくつ笑った。
「舐めたな。これで君たちの体のなかには未知のウイルスが侵入した。そうなのだ。俺はウーハンの研究員。全人類にワクチンを打たせ、体に磁石がくっつくようにするのが目的なのだ。まいったか」
臆病なほうの男の子は震え上がった。ジャム瓶を持つ手が震える。対してもう片方の男の子は極めて冷めた目を俺に向けていた。
「嘘でしょ」
「明日には君たちの体を磁石という磁石が追いかける。震えて眠れ」
俺は大仰に、大魔王的な歩き方をしてその場を離れた。離れたところから見ていると、男の子たちはジャム瓶を日にかざして、その赤みを眺めていた。それからまたぺろぺろと舐めていた。彼らが磁石人間になる日も近い。
俺は家に帰ってきた。母はソファの上でスマホをいじっていた。俺はジャムを冷蔵庫に入れて、それからゲームに興じた。しばらくして、母が言った。
「なんか近くに不審者が出たらしいわ。防犯情報に出てるわよ」
「そうなんだ」
「声かけ事案だって。子供たちにジャムを渡したとか」
「変なやつがいるもんだね」
「そういえばあんたなんで出かけてたんだっけ?」
「樫本のうちに行ってた。妹しかいなかったけど」
「そう」
その夕方、樫本透からメッセージが来た。
『ちょっといまから会えないか?』
俺は新たな防犯情報にわいせつ事件が追加され、その被害者の兄が怒っているのではないかと危ぶんだ。
『今日はまずい』
『頼むよ。今日じゃないとだめなんだ』
『わかった。どこで会う?』
『俺のうちに来てくれ。部屋で話そう』
俺は謝罪の品としてジャム瓶を持っていくことにした。八分歩いた。樫本の家に着くと、透は外で砂利をざざざざと鳴らしながら待っていた。
「なんだその保冷バッグ」樫本透が聞いた。
「こんなものじゃ贖えないことはわかってる」
「なんの話だ。まあとりあえず上がってくれ」
俺はその部屋に金属バットが用意されていてもおかしくないと思った。が、上がってみると、中学時代まで何度となく通ったそのままの部屋だった。
「話ってなんだ」と俺が聞いた。
「加瀬、お前童貞だよな」
「いかにも」
「キスもしたことなさそうに見えるぞ」
唇にはね、と俺は言わなかった。樫本透は言った。
「俺は童貞じゃないんだ。実はつい昨日のことなんだが、初めて女の子のなかに入った」
「おめでとう」
「それがおめでたくない。うっかり、本当にうっかりなんだがな」
「どうした」
「ゴムをしなかったんだ。なかに出しちまった。クラスメイトの金髪ギャルなんだけど。どうしよう、俺、結婚するならもっと清楚な子がいいよ。あんな誰とでも寝るようなのじゃなくて」
「お父さん、人生あきらめが肝心だよ」
「なあ、できたと思うか?」
「そんなことは僕にはわからないよ、お父さん」
俺は殴られた。脇腹をがつんだった。
「その呼び方やめろやいばかたれ」
「まあ成り行きに任せるんだな」と俺は言った。「案外かわいい子が生まれてくるかもしれんぞ」
「ああ、まじ俺の人生終わった」
俺たちはコーラとポテチで人生の苦難について話し合った。そのうち夜になった。帰ることにした。俺が玄関で靴を履いていると、そばに誰か来て止まった。
「透、まあ元気出せよ」
振り向いたとき、そこにいたのは樫本かえでだった。彼女は俺の肩のあたりを掴むと、俺を引き寄せて、俺の頬にキスをした。それから顔を真っ赤にしてしばらくうつむき、やがて足早に階段を駆け上って行った。
俺は夜風を浴びた。あれが樫本かえでの返事なのだと思った。しかし俺は樫本かえでの太ももにしか興味がない。どうしてもそうなのだ。そして樫本透は十六のころにはパパになっている。世の中はそういうふうにしてなんとなくズレながら回っていく。なんだか腹がぎゅるぎゅるしてきた。もしかしたらあの男の子たちもいまごろ腹を下しているかもしれない。
瓶ジャムには注意しろ。そういうことだ。




