第1話 俺の家庭内権力はどこへ行った
妻に尻を敷かれるというのは具体的にどういったことを指すのだろうか?と、俺はしばしば真剣に考えてしまうことがある。
というのも、現在の俺は最愛の妻と子供に囲まれながら、穏やかで幸福なはずの休日の昼下がりを過ごしている――はずなのだが、どうにもこうにも、ここ最近、俺という存在の“家庭内における比重”がじわじわと薄まってきている気がしてならないのだ。
それはもう、例えるなら原液をこれでもかと水で薄めに薄めた末に残る、味の気配だけがかろうじて残っているミルクポタージュの残滓のようなもので、あるいは出がらしをさらに絞った結果、もはや色のついたぬるま湯と化したコーヒーとか、色味があるかどうか怪しいレベルの極薄麦茶とか、そういう“存在はしているが主張はしていない液体”みたいな立ち位置に、俺はなりつつある気がする。
いや、誤解しないでほしい。別に俺はこの生活に不満があるわけじゃない。むしろ全体的には満足している。食事はうまいし(主に俺が作っているが)、家族は元気だし、妻は相変わらず綺麗だし強いし怖いし、子供は可愛いしで、生活としてはむしろ恵まれている部類だろう。
ただ、その中でふと、こう思ってしまうのだ。
――あれ?俺、ちゃんと“夫”やれてるか?
昔はもっとこう、なんというか、こう……ラブラブだった気がするんだよ。いや別に今が冷え切っているわけではない。むしろ普通に仲はいい。会話もあるし、喧嘩という喧嘩もほとんどない。だけど、あの頃のような“分かりやすい甘さ”が減ったのも事実で、例えば出かける前の「行ってきます」のキスとか、帰宅後の「ただいま」のハグとか、そういうちょっとしたスキンシップ的なイベントが、最近はめっきり見られなくなっているのだ。
いやまあ、別にそれを毎回求めているわけじゃないよ?ないけどさ?ないけど……たまにはあってもよくないか?というか、あって然るべきじゃないか?夫婦ってそういうものじゃないのか?と、俺の中の理想像が静かに抗議してくるわけである。
だが問題はそこではない。
俺が今、本当に気にしているのは、もっとこう……構造的な問題だ。
すなわち、我が家における“主導権”の所在についてである。
結論から言おう。
――完全に、妻側に寄っている。
いや、“寄っている”という表現は少し曖昧だな。もっと正確に言うなら、“ほぼ全面的に掌握されている”と言った方がいいだろう。
例えば、俺が何か意見を言おうとする。ほんの些細なことだ。「今日の夕飯、少し味付けを変えてみないか?」とか、「来月の休みは少し遠出してみるのもいいんじゃないか?」とか、そういう他愛もない提案だ。
するとどうなるか。
まず、視線が飛んでくる。
あの、戦場で大型魔物を一瞬で黙らせるときのやつと同じ眼力で、だ。
言葉に出すまでもなく、「その発言、本気で言っているのか?」と問いかけてくる圧が、空気ごと俺の思考を押し潰してくる。
そして俺は、まだ言い切ってもいない自分の意見を、なぜか途中で撤回する羽目になる。
「いや、なんでもないです」
これが最近の俺の口癖だ。
さらに言えば、我が家の財政事情も完全に管理されている。
月々のお小遣いはきっちり定額制。追加支出には理由と用途の説明が必須。週ごとの収支は簡単な報告義務付きで、財布の中身はもはや“俺の自由資産”ではなく、“監査対象の流動資産”と化している。
おかしい。どうしてこうなった。
俺は王国兵士だぞ?一応、そこそこ評価もされている付与術士だぞ?戦場ではそれなりに頼りにされている立場の人間だぞ?
それがどうだ。家に帰れば財布の残高を申告し、発言は事前に空気を読み、最終決定権は常に妻にある。
これを“尻に敷かれている”と言わずして、なんと言うのか。
……いや、まあ。
その“妻”が、今まさに目の前で子供を膝に乗せながら、ぎこちない手つきで絵本を読んでいる姿を見ると、そんな不満も少しだけどうでもよくなってしまうのだが。
「……それでな、勇者は魔王を――あ、いや……ここ、なんて読むんだ?」
「そこは“討ち果たした”だよ」
「……ふむ。討ち果たした。なるほど、いい響きだな」
ページをめくるたびに微妙に物騒な感想を挟むあたり、やはり根は戦士なのだろうが、それでも子供に向ける視線はどこまでも優しい。
ああ、くそ。ずるいな。
こういうところなんだよな。
俺が何を言おうと、最終的に「まあいいか」と思ってしまう理由は。
強くて、怖くて、理不尽で、でもちゃんと家族を大事にしていて、不器用なりに愛情を注いでくる。
そんな相手に対して、“主導権がどうこう”なんて言い出す自分の方が、少しだけ器が小さい気がしてしまうのだ。
……とはいえ。
とはいえだ。
やはりここは一度、しっかりと話し合うべきではないだろうか。
夫婦とは対等であるべきだし、健全な関係とは互いの意見を尊重し合うところから始まるものだ。
よし、決めた。
今日こそは言おう。
「なあ、サクラ。ちょっといいか?」
意を決して声をかけた、その瞬間。
「ん?」
振り向いた妻の目が、ほんの少しだけ鋭く細められる。
――あ、これダメなやつだ。
「……なんでもない」
俺は反射的にそう答えていた。
うん。
やっぱり俺、尻に敷かれてるわ。




