エピローグ:書き換えられた航路
1. 閉幕の残響
「スカイ・グランド・ホール」の喧騒は、やがて冷徹な青い光を放つパトカーの列へと吸い込まれていった。
手錠をかけられ、警官に囲まれた明智凛は、車に乗り込む直前、一度だけ足を止めた。彼女の純白のドレスは、夜の風に煽られ、まるで羽をもがれた鳥のようだった。
「先生」
浅井が呼びかけると、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳には、かつての狂気も、神を演じる傲慢さもなかった。ただ、一人の作家としての、ひどく虚無的な光だけが宿っていた。
「……浅井さん。あなたは最後に、私のプロットを台無しにしたわ」
凛は、自嘲気味に口角を上げた。
「でも、教えてあげる。私が本当に書きたかったのは、復讐でも救済でもない。……この醜い現実を、たった一行でいいから、美しく『肯定』したかっただけなのよ」
彼女は浅井の目をじっと見つめ、最後の一言を遺した。
「……探偵さん。あなたの人生という物語、せいぜい『読み飛ばされないよう』に気をつけることね。現実は、私が書いた地獄よりも、ずっと退屈で、残酷よ」
それが、稀代の天才作家が遺した、最後の「一行」だった。ドアが閉まり、彼女を乗せた車両は、深い闇の中へと消えていった。
2. 横浜、潮騒の夜明け
数日後。
事件の熱気が嘘のように引き、横浜の港には穏やかな朝の光が差し込んでいた。
大桟橋の先端で、浅井拓海と織田霧子は、並んで海を見つめていた。
「……終わったのね、本当に」
霧子が、潮風に髪をなびかせながら呟いた。
「ええ。九条さんの無実も証明され、瀬尾遥さんの物語も、ようやく歪んだ楽譜から解放されたはずだ」
浅井は、愛用のバックパックを肩に担ぎ直した。その中には、上条検事から返却された、あの5年前の資料の写しと、空っぽになったノートが入っている。
「浅井さん、これからどうするの?」
「旅に戻るよ。僕のIQは、こうして静止していると、すぐに余計な計算を始めてしまう。世界の『綻び』を探すより、世界の『広さ』を数えていたいんだ」
霧子は少し寂しそうに微笑み、制服のバッグから一枚のカードを取り出した。
「これ、私の次の乗務スケジュール。もし……また空の上で会えたら、その時は『探偵』じゃなくて、一人の『乗客』として接客させてね」
「ああ。……その時は、とっておきの隠れ家のお店の話でもしよう。物語の中の事件じゃなくて、現実にある美味しい料理の話を」
3. 空の上で、また逢いましょう
それから数ヶ月。
世界を巡る浅井の旅は続いていた。彼が選ぶのはいつも、予定調和な観光ルートではなく、その土地の「風」が吹くままの自由な路地裏だった。
そして、偶然か、あるいは必然か。
雲の上を飛ぶ旅客機の中で、二人の道は時折、交差した。
「本日もご搭乗ありがとうございます、浅井様。……お飲み物は、いつものでよろしいですか?」
機内通路で、完璧な微笑みを浮かべる霧子が、彼にそっと目配せをする。
浅井は愛読書を閉じ、少しだけ悪戯っぽく笑い返す。
「ええ。……それと、今夜の横浜は晴れるそうですよ」
フライトが終わった夜、二人は港の見える古いジャズバーや、路地裏にひっそりと佇む割烹のカウンターにいた。
「……今回の推理小説、犯人の動機が物理学的にあり得ないと思わない?」
「またそんなこと言って。それより浅井さん、ここのお店の金目鯛の煮付け、絶品でしょう?」
手元には、もう血のついた指揮棒も、冷徹な方程式もない。
そこにあるのは、どこか「隠れ家」めいた店の情報交換と、新しい小説の感想、そして次に訪れるべき見知らぬ街の噂話。
「物語」に支配されることを拒んだ二人は、不確かな現実という名の旅路を、自分たちの足音で刻み続けている。
浅井のノートの新しいページには、もう数式は書かれていなかった。
代わりに、夕陽に染まる翼の写真と、たった一行、こう記されていた。
『現実は、誰かのプロットよりも、ずっと美しい。』
(完)




