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第4章:解体のロジック、あるいは無機質な真実

1. 警察の嘲笑と、旅人の「盤上」

九条の逮捕を受け、警視庁の特捜本部は祝勝ムードに包まれていた。だが、徳川警部の計らいで、浅井と霧子は強引に会議室へ「証拠の再検討」という名目で刑事たちを呼び出した。


そこには、所轄の柴田と蜂須賀、そして本多刑事がいた。

「おいおい、旅人さんよ。もうホシは挙がったんだ。九条が全部やったって証拠も揃ってる。今さら何を『実験』しようなんてんだ?」

柴田が椅子の背もたれにふんぞり返り、鼻で笑う。


「柴田さん、浅井さんの話を聞いてください。九条さんには、この犯行を一人で完遂する物理的な能力がないんです」

霧子が毅然と言い放つ。


「能力? 奴は元医者だぞ。薬でも何でも扱えるだろ」

蜂須賀が呆れたように肩をすくめる。

「いいか、浅井。お前さんのIQだかなんだか知らねえが、現実はミステリー小説じゃねえんだ。密室なんてのは、鍵の閉め忘れか、予備キーの存在、それだけで終わる話なんだよ」


浅井は、彼らの嘲笑を無機質な視線で受け流し、ホワイトボードの前に立った。

「……面白いですね。では、その『現実』とやらを、今から目の前で崩してあげましょう。僕がこれから証明するのは、犯人が一人も殺していないという事実です。殺したのは、この『部屋』そのものだ」


「はあ? 部屋が殺しただと?」

柴田の失笑が響く中、浅井は実験室の中央に、箱根の別荘を再現した1/10スケールの模型と、音響解析装置をセットした。


2. 第1の実験:黄金比の「不可聴」ナイフ

「第1の事件。箱根の密室。犯人は家具を黄金比で配置した。柴田さん、あなたはこれを『犯人のこだわり』だと言った。だが、これは『照準』なんです」


浅井がスイッチを入れると、超低周波発振機がうなりを上げた。


「人間の耳には聞こえない16ヘルツ以下の低周波です。これが黄金比の配置によって生じる反響の『焦点』に集まるとどうなるか。霧子さん、あのグラスを」


霧子が、心臓の鼓動と同じリズムで水が波打つグラスを、模型の椅子の上に置く。

「いいですか、皆さん。音波の干渉による共振現象です」


次の瞬間、浅井が周波数を微調整した。

パリンッ!!

グラスが内側から弾けるように粉々に砕け散った。


「なっ……!?」

柴田が椅子から転げ落ちそうになる。本多刑事は身を乗り出し、食い入るように装置を見つめた。

「……共鳴……。被害者の佐藤さんは、特定の椅子に座っていた。その場所こそが、音のエネルギーが一点に集中する『死の座席』だったというのか!」


「その通り。犯人は空調の温度を下げ、バイメタルによって家具の角度を数ミリ変えるだけで、この『音の焦点』を作り出した。指一本触れずに、被害者の心血管を破壊したんです」


「……うおお……」

会議室に、初めて重苦しい唸りが漏れた。


3. 第2の実験:45秒の「弾丸」

「まだですよ」

浅井は休まず、天井から一本のワイヤーを張った。

「第2の事件。横浜のライブ会場。45秒の暗転。柴田さん、あなたは『犯人が走った』と言った。だが、人間が暗闇で1000人の間を縫って秒速2.7メートルで走れば、必ず誰かと接触し、足音が聞こえる」


「そんなの、たまたま運が良かっただけだろ!」

「物理に『たまたま』はありません。霧子さん、冷却剤を」


霧子がワイヤーに冷気を吹き付ける。弛んでいた形状記憶合金のワイヤーが、**ギュンッ!**という不気味な音を立てて一直線に張り詰めた。

「ここに、氷で固めた指揮棒をセットする。そして、空調が止まり、温度が上がると……」


浅井がドライヤーを当てた。数秒後、氷が溶け、ワイヤーの張力が解放された。

シュッ!!

凄まじい速度で弾き飛ばされた指揮棒が、3メートル先の的に吸い込まれるように突き刺さった。


「……信じられん」

本多刑事が震える声で呟く。

「犯人は客席に座ったまま、温度というスイッチ一つで『遠隔刺殺』を行った。これなら暗闇を走る必要も、返り血を浴びる必要もない……!」


「う、唸らされるぜ……なんて発想だ……」

先ほどまで嘲笑っていた蜂須賀が、思わず感嘆の声を漏らす。刑事たちの顔から色が消え、浅井という男への「畏怖」が会場を支配し始めた。


4. 第3の実験:凍れる心臓の「ナノ・ダイナマイト」

「そして最後。第3の事件、サントリー・ホール。九条が最も疑われた医学的トリックです」

浅井は、顕微鏡に繋いだモニターを指し示した。


「九条さんは確かに外科医ですが、このナノ粒子の励起装置を扱えるエンジニアではありません。見てください。これは体温に近い液体に入れた磁性粒子です」


浅井が、スマートフォンのテザリング機能をオンにした。

「特定の無線電波……つまり、会場のマイクやWi-Fiの電波が重なり合った時、この粒子は爆発的な『吸熱』を開始します」


モニターの中で、赤い液体が中心から一気に白く凍りついていく。

「……体内で心臓だけを瞬間凍結させる、医学と電子工学の融合。これは一人の医師の知識を超えている。複数の専門分野を俯瞰し、一つの『舞台装置』として統合できる……そう、**『物語を構築する力』**を持つ者でなければ不可能です」


「……完敗だ」

徳川警部が、深く、重い溜息をついた。

「浅井くん、君の言う通りだ。九条にこの芸当はできない。彼は、誰かが書いた『最もらしい解決』という章の中に閉じ込められた役者に過ぎない」


会議室には、もはや嘲笑はなかった。あるのは、解明されたトリックのあまりの鮮やかさへの、そしてその裏に潜む「血も涙もない合理性」への、鳥肌が立つような畏怖の唸りだけだった。


5. 作者の「署名」

「浅井さん、すごかったわ……」

霧子が、熱を帯びた会場の空気の中で、浅井の手をそっと握った。

「でも、これだけの装置を仕掛けられる人間なんて、やっぱり限られてくるんじゃない?」


「ああ。これだけの資金、技術、そして何より『天候すらも自分のプロットの一部にする計画性』。犯人は、自分の殺人を世間がどう評価するか、警察がどう動くかまで、すべて計算して原稿に書いている」


浅井は、ホワイトボードに大きく一文字、**「執」**と書き込んだ。


「これほど精緻なトリックを三つも重ねるには、気が遠くなるような時間と、絶対にターゲットを逃さないという執念が必要だ。犯人は、被害者たちを憎んでいるんじゃない。彼らを『自分の物語』を完成させるための、最高級のパーツだと思っているんだ」


浅井の瞳は、もはや実験の成功を喜んでいなかった。

「霧子さん、思い出してくれ。明智凛のサイン会で、彼女は何と言った?」


「……『真実は、静寂の中に降り積もる』……」


「そうだ。第3の事件の現場、雪のような霜が降りていた。……あまりにも、言葉と現実が一致しすぎている」


浅井は、ホワイトボードに貼られた明智凛の近影をじっと見つめた。

人当たりが良く、美しく、誰もが憧れる女神。

だが、その微笑みの裏側にある、0.1ミリの狂いも許さない「執念深い作家」の顔が、解明されたトリックの残像と重なり合っていく。


「……警察の皆さん。お祝いムードは終わりです。これから、僕たちが対峙するのは、九条のような壊れた人間じゃない。『神』になろうとしている、世界で最も美しい怪物だ」


物語はついに、この無機質なトリックの裏側に隠された、「真実」と、犯人の狂おしいまでの執念を暴き出す。

全ての点は、一人の女性へと繋がろうとしていた


6. 執念の糸口:被害者たちを結ぶ「消えた名前」

実験室に残った浅井は、トリックの解明には成功したものの、拭い去れない「動機の欠落」に苛まれていた。

「……物理的なパズルは解けた。だが、なぜこの3人なんだ。佐藤、梶原、氷室。接点がないわけじゃないが、殺すほどの憎しみがどこにある?」


霧子は、浅井がホワイトボードに書き殴った被害者リストの余白をじっと見つめていた。

「浅井さん、私、気になっていたことがあるの。第2の事件の被害者、梶原さんの楽屋を片付けていたスタッフが言っていたわ。『彼は最近、昔の友人の命日が近くなると、ひどく怯えていた』って」


「命日……?」

浅井のIQ125の思考が、過去の新聞記事やネット上の断片的な情報を瞬時に検索し始める。

「霧子さん、5年前の同時期に、この3人が共通して関わった出来事はないか。企業の合併、医療事故、不祥事……何でもいい。彼らの栄光の陰に隠れた『誰かの不幸』を探すんだ」


霧子はCA時代の同僚や、広範な知人ネットワークを駆使して、当時の週刊誌のバックナンバーや裏掲示板のログを洗い出した。そして、一つの小さな、しかし不自然に「握りつぶされた」記事を見つけ出した。


「……これよ。5年前の秋。当時『100年に一人の逸材』と呼ばれた若きピアニスト、**瀬尾せお はるか**の自殺。……でも、変だわ。この記事、発表されてから数時間で、どこからも消去されている」


7. 鋼の検事との密会

「圧力がかかっているな。……よし、直接『門』を叩こう」

浅井が向かったのは、霞が関の法務検察庁。かつて旅行会社員時代に、理不尽なトラブルから救ったことのある上条検事という男を頼った。彼は正義感が強すぎるがゆえに、現在は閑職に追いやられている、いわば「鋼の検事」だ。


深夜の喫茶店。上条は浅井と霧子の顔を無言で見つめ、重い口を開いた。

「……浅井くん。君が首を突っ込むには、この闇は深すぎるぞ」


「上条さん。僕は、自分の計算が間違っていないことを証明したいだけだ。この3人の死は、5年前の瀬尾遥の死と繋がっている。そうですね?」


上条は深く溜息をつき、鞄から分厚い封筒を取り出した。

「……これは、私が独断で持ち出したものだ。表に出れば、私は免職どころか命も危うい。だが、あの3人が築いた『嘘の城』が崩れ始めているのなら、今がその時なのかもしれん」


封筒の中には、**『5年前の医療過誤訴訟に関する極秘資料』**が収められていた。


8. 明かされる「真実の断罪」

深夜の喫茶店の一画。上条検事が差し出した分厚い極秘資料を前に、浅井、霧子、そして密かに同行していた本多刑事の三人は、言葉を失っていた。ページを捲るたびに、5年前に葬り去られた「真実」の悪臭が、紙面から立ち上るようだった。


「……これが、あの日、法廷で語られるはずだった真実の全てです」

上条検事が、苦い薬を飲み込むような顔で呟いた。


資料のトップには、若き天才ピアニスト、瀬尾遥の美しい遺影があった。しかし、その後のページに並ぶのは、醜悪な大人たちの保身の記録だ。


「見てください、この手術記録の改ざんの形跡を」

霧子が、震える指で氷室理事長が署名した書面を指差した。

「氷室は、自分の初歩的なミスを隠すために、佐藤の会社に命じて医療支援システムのログを書き換えさせた……。そして、親友だったはずの梶原さんは……」


「……偽証の見返りに、若手音楽家支援基金という名目の『裏金』を受け取っている」

本多刑事が、怒りに顔を歪めて資料を叩いた。

「なんということだ。我々警察は、この三人を『高潔な被害者』として守ろうとしていたのか……。九条医師は、彼らが仕組んだ精巧な罠に嵌められ、医学界からも、社会からも抹殺されたんだ」


浅井は、資料の奥深くに挟み込まれていた、瀬尾遥の遺書の一節を読み上げた。

『私の指はもう動かない。けれど、一番悲しいのは、信じていた世界が最初から偽物だったと知ること。音のない世界へ、私は一人で帰ります』


「……音のない世界」

浅井の声が、空虚に響く。

「遥さんは、単に絶望して死んだんじゃない。この三人に、自分の尊厳と未来を『解体』されたんだ。……そして、犯人は、その解体のプロセスを、今度は加害者たちにそのまま味あわせている」


「浅井さん、犯人は九条さんを救いたいんじゃなくて……」

霧子の問いに、浅井は重く頷いた。


「ああ。九条は、この復讐劇を完成させるための『最もらしい犯人役』に過ぎない。犯人にとって、九条の人生がこれ以上壊れることすら、物語のリアリティを高めるためのスパイスなんだ。……この犯人は、正義を行っているんじゃない。自分だけが支配できる『完璧に美しい地獄』を構築しているんだよ」


「……しかし、これほどの怨念を抱き、かつこれほど冷徹に計画を実行できる人間が、本当にいるのか?」

本多刑事が困惑を隠せない。


「いますよ、本多さん。……ただ、その人物の心は、私たちが想像するような『怒り』では動いていない」

浅井は、瀬尾遥と、その傍らで微笑む女性の写真を上条検事に見せた。


「上条さん。この、遥さんの隣で笑っている女性。彼女について、何か記録は?」


「……彼女は、遥の唯一の理解者であり、文通相手だったと言われています。……しかし、記録はそこで途絶えている。ただ、当時の関係者の証言では、彼女は遥の死後、一滴の涙も流さず、ただこう言ったそうです。**『この歪んだ楽譜は、私が書き直さなければならない』**と」


浅井はその言葉を聞き、背筋に走る凍り付くような戦慄を覚えた。

それは、通常の「復讐者」が持つ熱い殺意ではない。

もっと静かで、もっと深い、「世界の不備を許せない」という病的なまでの完璧主義。


「犯人は、幼少期から極度の孤独と、それゆえの誇大妄想的な自己完結性を抱えていたはずです」

浅井が、犯人の心の闇を解析し始める。

「彼女にとって、現実は思い通りにならない醜いガラクタの山。唯一の光だった瀬尾遥という存在すら、三人の俗物に汚された。……彼女は、その『汚点』を消し去るために、現実というキャンバスに自分の論理を叩きつけている。彼女が本当に病んでいるのは、『自分以外の意志が世界を動かしていること』そのものへの耐え難い嫌悪なんだ」


「……自分が神になろうとしている、ということか」

徳川警部の言葉を、上条検事が肯定するように頷く。


「彼女の書く物語は、いつも最後の一行で世界が完全に調律される。……もし、現実がその通りにならないなら、現実の方を物語に合わせて『修正』する。それが彼女の……明智凛という作家の、真の狂気なのかもしれません」


その時、喫茶店の外で、一台の黒いセダンが静かに走り去るのが見えた。

浅井は、その車の後部座席に座る女性の、完璧に整った横顔を一瞬だけ捉えた気がした。


「……決着をつけよう。物語の『修正』は、ここで終わりだ」


浅井の瞳には、論理と決意、そして犯人の深い闇への微かな憐憫が混ざり合っていた。

都庁展望台。そこは、犯人が用意した「最終章」の舞台であると同時に、浅井が仕掛ける「現実の逆襲」の場となる。

9. 逆転のプロット:罠への招待

その時、浅井のスマートフォンが鳴った。

無機質な着信音。画面には、かつてないほど「美しい」言葉で綴られた、第四の事件への予告状が表示された。


『探偵よ。真実は常に、光が最も強く当たる場所で消え去る。明日の正午、都庁の展望ロビーで、私の物語の「あとがき」を書き終えることにしましょう』


「……都庁。今度は『高度』と『気圧』、そして『光』のトリックか」

浅井は冷静に、周囲にある鏡や実験器具をバッグに詰め始めた。


「浅井さん、罠よ! 彼女……犯人は、私たちをあそこで消すつもりだわ!」

「ああ。だが、犯人の誤算は、僕たちがこの資料を手に入れたことだ。犯人は、僕が『論理』だけで戦うと思っている。……だが、僕は今回だけは、論理を捨てて『演出』で戦う」

そして二人は招待された場所へ向かった。



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