第3章:沈黙の聖域と、凍れる心臓
1. 劇場の静寂、雪の遺体
明智凛のサイン会からわずか数時間後。都内の由緒ある音楽堂「サントリー・ホール」のVIP控室で、第三の悲劇は幕を開けた。
「……何だ、これは。部屋の中が、真っ白じゃないか」
現場に踏み込んだ徳川警部が絶句した。
被害者は、高名な心臓外科医であり、国内最大手の医療法人の理事長を務める氷室 誠一(58)。彼は、自身の功労を称える祝賀会の直前、施錠された控室の中で命を落としていた。
奇妙なのは、部屋の状態だった。窓もドアも閉ざされた密室。それなのに、氷室の遺体とその周囲は、まるで厳冬の屋外に放置されたかのように、薄い「霜」に覆われていたのだ。
「徳川さん、検視結果の速報です」
本多刑事が、防護服を脱ぎながら駆け寄る。
「死因は急性心不全。外傷、毒物反応は一切なし。ですが、遺体の心筋組織だけが、まるで液体窒素を直接流し込まれたかのように、局所的に凍結・破壊されています。……医学的に、あり得ない現象です」
そこへ、所轄の柴田と蜂須賀が、これまでにない真剣な表情で割って入った。
「警部、笑い事じゃありませんよ。被害者の氷室理事長……実は、第一の事件の被害者であるIT企業の佐藤、そして第二の事件の梶原と、奇妙な接点があったんです」
「接点だと?」
「はい。5年前、ある医療ミスの訴訟がありました。氷室が執刀し、佐藤の会社がシステムを納入し、梶原がそのチャリティ公演を行った。……その訴訟で、すべての罪を被せられて医学界を追放された外科医が一人います。名前は九条。このトリックの難解さ、そして医学的知識……犯人はこの男に違いありません!」
柴田の鼻息は荒い。警察の捜査線上に、初めて「具体的な容疑者」が浮上した瞬間だった。
2. 主人公たちの介入:医学的「不在」の証明
現場の混乱を離れ、ホール裏のカフェで浅井と霧子は資料を突き合わせていた。浅井はIQ125の解析能力を、事件現場の「熱力学」に注ぎ込んでいる。
「……霧子さん、九条という医師の線は、おそらくミスリードだ」
浅井がタブレットに描いたのは、現場の空調図と、遺体の凍結箇所のシミュレーションだ。
「このトリックは、単なる医学知識じゃ完成しない。人体の解剖学的構造と、熱の伝導効率をミリ単位で計算し、さらに『目に見えない媒体』を操る必要がある。……九条という医師の経歴を洗ったが、彼は純粋な技術屋だ。これほど芸術的な配置に固執する性格じゃない」
「でも、浅井さん。氷室理事長と九条医師の因縁は決定的よ」
霧子は広い視野で、SNSや医療ニュースのアーカイブを漁っていた。
「5年前の事件で九条さんはすべてを失った。恨みを持つ動機は十分すぎる。……でも、確かに違和感があるわ。第一、第二の事件と違って、今回の殺害方法はあまりに『冷徹』すぎる」
「冷徹……。ああ、そうだ」
浅井の目が光る。
「これまでの事件には、どこか『演劇的』な遊び心があった。だが今回は、医学的な精密機械を操作しているような、無機質な殺意を感じる。……霧子さん、僕たちは九条という男が潜伏しているとされる、廃病院へ向かおう。警察よりも先に、彼の『声』を聞く必要がある」
「わかったわ。私の機転で、徳川警部たちをうまく巻いてみせる!」
3. 廃病院の対峙:もう一人の容疑者
深夜、郊外の廃病院。かつて九条が勤めていた場所だ。
浅井と霧子は、月明かりの下、崩れかけた病棟へと足を踏み入れた。
「……誰だ」
奥の暗闇から、痩せ細った男が現れた。かつての天才外科医、九条だ。その手は小刻みに震え、瞳には深い絶望が宿っている。
「九条さんですね。警察はあなたを追っています。氷室理事長を、どうやって殺したんですか?」
浅井の問いに、九条は力なく首を振った。
「……私が? 殺せるわけがない。私の手を見てくれ。5年前の事件の後、神経を病んで、メスすら握れなくなった。あんな完璧な『凍結穿刺』ができる人間は、この世に一人しかいない……」
「一人しかいない? それは誰です」
霧子が身を乗り出す。
「……わからない。だが、あの日、私の元に一通の手紙が届いた。『あなたの無念を、世界で最も美しい解剖図に変えて差し上げましょう』と。……それ以来、私の周りで、あの事件に関わった人間が次々と消えていったんだ」
九条の言葉は、真実の重みを持っていた。浅井は確信する。九条は犯人ではない。彼は、真犯人の物語の中に配置された「身代わりの駒」に過ぎないのだ。
「……浅井さん、大変よ!」
霧子がスマートフォンの画面を指差した。
「警察が九条さんの潜伏先を特定したわ。柴田刑事たちがここに向かってる! このままじゃ、彼は身代わりとして逮捕されてしまう!」
「……逃がす必要はない。むしろ、彼を警察に引き渡そう」
浅井の意外な言葉に、霧子が目を見開く。
「えっ、どういうこと?」
「真犯人の目的は、九条を犯人に仕立て上げて物語を完結させることだ。……逆を言えば、九条が逮捕されれば、真犯人は『勝利宣言』を出すはずだ。その時こそ、僕たちが仕掛けるチャンスになる」
4. 警察の包囲網と、漂う「偽りの終止符」
廃病院の周囲を、赤と青のパトライトが無数に明滅し、影を長く伸ばしている。
「よし、九条の身柄を確保した! これで連続殺人事件は解決だ!」
柴田刑事が無線に向かって勝ち誇ったように叫び、蜂須賀刑事も安堵した表情で煙草をくわえた。彼らにとって、九条の逮捕は完璧な物語の終焉だった。動機、医学的知識、そして証拠——すべてがこれ以上ないほど揃っていたからだ。
連行される九条の背中を見送りながら、霧子もまた、胸をなでおろしていた。
「……よかった。これでもう、誰も死ななくて済むのね。浅井さん、私たちも少しは役に立てたのかしら」
しかし、浅井拓海だけは、その喧騒の中にありながら、氷点下の静寂の中にいた。
彼のIQ125の頭脳は、今この瞬間に起きている「解決」という名の事象を、極冷徹にスキャンし続けていた。
(……違和感がある。ノイズが多すぎる)
浅井は霧子の問いに答えず、一人でパトカーの列から離れ、闇に沈む廃病院の裏手へと歩いた。彼はバックパックから一冊のノートを取り出し、月明かりの下で三つの事件の「構成要素」を書き出していく。
第1の事件: 箱根の黄金比。美しき配置。
第2の事件: 横浜の対称性。旋律の停止。
第3の事件: 劇場の凍結。医学的精密。
(九条という男は確かに天才外科医だった。だが、彼の精神は5年前に壊れている。今日の彼は、メスを握るどころか、自分の名前を書くことさえ苦労していた。それなのに、この第3の現場で見られた、一分一秒の狂いもない『凍結のタイミング』。……これを九条が制御したというのか?)
浅井の脳裏に、数時間前のサイン会で交わした明智凛の言葉が蘇る。
『物語が最後の一行で救いをもたらすように、現実もまた、最も美しい結末へと向かっているのです』
(……救い? 結末?)
浅井は愕然とした。もし、この九条の逮捕さえもが、誰かが書いた「最も美しい結末」の一部だとしたら。
警察、世論、そして自分たちまでもが、その作者が用意した「名探偵」という役割を演じさせられているだけだとしたら——。
「浅井さん? どうしたの、そんな怖い顔をして」
追いかけてきた霧子が、不安そうに彼の顔を覗き込む。
浅井はノートを閉じ、震える指先を隠すようにポケットに突っ込んだ。
「……霧子さん。僕は、この街を覆っている『静寂』が恐ろしい」
「え?」
「九条が犯人なら、物語はここでハッピーエンドだ。だが、もし僕の計算が正しければ……まだ『一小節』足りない。そしてその最後の一小節は、これまで以上の犠牲を伴う、本当の地獄になる可能性がある」
浅井の瞳には、かつてないほどの悲痛な決意が宿っていた。
元旅行会社員として、数えきれないほどの「笑顔の旅」をプロデュースしてきた彼にとって、人の命が誰かの自己満足な美学のために消費されることは、耐え難い冒涜だった。
「もうこれ以上、誰一人として、この狂ったシナリオの犠牲にさせたくない。……霧子さん、悪いがもう少し付き合ってくれ。僕は、これから警察も九条も、そしておそらく君さえも信じない『別の真実』を証明しにいく」
「浅井さん……。わかったわ。あなたのその顔、嘘をついているようには見えないもの。私にできることなら何でも言って」
浅井は深く息を吸い込み、煌々と輝く都心の夜景を睨みつけた。
そこには、今も何食わぬ顔で微笑み、次の「原稿」を執筆しているであろう怪物の影がある。
(待っていろ。お前の書いた結末がどれほど美しかろうと、僕がその最後の一行を、泥まみれの現実で書き換えてやる)
三連続殺人の「偽りの終止符」の裏側で、浅井拓海による孤独な反撃が、静かに、しかし激しく始まろうとしていた。




